クリスマス・イヴに、シャリオドールで起こったことのほとんどすべて

奈倉柊

文字の大きさ
上 下
20 / 32

3-4.俺はヒロのことを何も知らない(森川拓生/シェフ)

しおりを挟む
 俺は余りにも長くヒロを待たせた。それも、解っていて待たせた。自分がどれだけ身勝手で残酷だったかに今さら気づいて、今この瞬間にヒロに愛想を尽かされても文句どころか泣き言すら言えないな、としみじみ思った。
 だから斉藤くんに、一段落したら北澤に事務所に来るよう伝えて、と頼んだ。休憩室にはヒロがいるから、落ち着いて話せる場所はそこしかない。だけどどう言えばいいのか、俺は椅子には座らずデスクに寄り掛かったまま、何にもトライしてないのに既にエラーが出ているような気分でいた。
 北澤を待ちながら。俺たちもう別れよう、と切り出すにしても、そもそも既に別れたも同然の状態で、ヒロがその「別れたも同然」と「別れた」を厳密に区別してくるから俺もそうしなきゃと思ったわけだけど、北澤のほうだってもう俺とは別れたも同然だと思ってるだろうから、え、今さら何言ってんの、という反応だって充分にあり得る。
 でも俺はいい加減、覚悟を決めなきゃならない。
 俺らがもう別れたも同然だってのは解ってるけど、改めてはっきりさせておきたい、というくらいのことは俺にだって言えるだろう。
 その辺りまで考えたところで、北澤がおざなりなノックをして俺が返事をする前にドアを開けて入ってきた。
「北澤、」
 言いかけた俺を、北澤はいつもの芝居がかった手つきで制した。
「広瀬には言った?」
「え?」
「ちゃんと告白したのかって」
「ああ。まあ一応」
「まあ一応じゃなくて。双方向の意思疎通はできたわけ?」
「ああ、それは、ちゃんと」
「そりゃ良かった。じゃあ、あんたと俺はもうこれっきりってことで。離婚届にハンコ、今この場で押せるよな?」
「離婚届、って」
「エア離婚届だよ」
 なるほど。俺と北澤の関係はそういう喩えに落ち着くわけか。夫婦としては終わっててもまだ離婚は成立してない、と。そう考えればヒロのこだわりについても納得できるわけだ。
 北澤は手真似で、架空の離婚届を机の上に広げる仕草までして見せた(パントマイム上手すぎるだろう)。それから適当なところを指さして、俺のはもう押してあるから、後はお前がこっちに押すだけだ、と言った。
 だから俺は、解ったよ、と言って、架空のはんこのキャップを外してそこに押す真似をした。馬鹿ばかしかったが、めちゃくちゃ楽だった。
 こうして俺たちの間にはエア離婚が成立した。
 その離婚届を折りたたんでポケットにしまうまでを丁寧に再現して見せると北澤は、じゃ、これで、と言った。
「事務所で話があるって、この話で合ってたよな?」
 一応そう念を押されて俺が頷くと、北澤は俺に向かって親指を立てた。
 これで心置きなく斉藤くんに行けると、はっきり言葉で言ってるようなものだった。
「あと皆にシャンパン奢るから、キッチン集合な」
 そう言い残して北澤は出て行った。
 こいつ今ものすごく嬉しいんだろうな、と、半ば呆れながら俺は思った。
 さすがに長い付き合いなんだからもう少し躊躇う感じがあってもいいんじゃないかとは思ったものの、でもそれも俺一人の身勝手な感傷なんだろう。
 だって北澤が斉藤くんに行くのとたぶん似た感じで、俺だってこれからヒロと恋愛をすることになるわけだから。まあ、今この時にもヒロが心変わりしていなければ。熱しやすく冷めやすい奴だから、いつ俺に興味を失くしても不思議はない。むしろ今の時点でそうなってないことが奇跡だと思う。
 のキスは想像してたよりずっと強引で獣っぽかった。あの時俺が怒らせたせいなのか、もともとそういうキスをする奴なのか。俺はヒロのことを何も知らない。とりわけ、恋愛対象としての広瀬のことは何も。
 それをこれから知るんだろうというのは怖さもあったが、結局、好奇心が勝った。それは北澤がスタッフを片端から口説くのと、まったく同じではないものの明らかに共通点のある感情だった。普段こういう話し方をする人間は口説かれたときどう反応するんだろう、こういう誘い方をしてくる相手は断られて(或いは受け入れられて)どういうリアクションをするだろう。そして、こういうキスをする人間はセックスのとき、どんな風なんだろう。
 だから、俺に北澤は責められない。俺には理解できるから。
 北澤の行動を何で咎めないのかとヒロに言われたとき、俺はその辺のことを素直に認められなかった。なんかふんわり、俺が寛容だから、というような話にしてしまった。でも本当はそういうことじゃなく、単に俺自身が、北澤のそういう好奇心にある程度、共感していたからなのだ。
 北澤が出て行った後、俺はしばらく虚脱していた。すぐにでもヒロに知らせたかった、にも関わらず、身体が動かなかった。思いがけない喪失感。いやそんなの理不尽だろう、とっくに別れたも同然で、エア離婚届にエアハンコを押しただけなのに。
 途端、目頭がじわっときて、こんなことで涙が出るのか、と思った。それなら泣いてみるのも悪くないかもしれない。
 だが、俺が泣いたのはほんの十秒くらいの間だった。
 それより今は、ヒロだ。休憩室で俺の煮え切らなさにイライラしてるはずのヒロに、今ちゃんと決着がついたことを報告しに行かないと。

 休憩室に行くと、斉藤くんが伸びてたのと同じソファに、まったく同じ体勢で相原くんが伸びていた。眠っている。いつの間にか起きてヒロと俺のキスを凝視している、という斉藤くん事案は避けたかったが、やむを得ない。
 ヒロの反応は速やかだった。弾かれたように立ち上がって俺をハグしに来た。何となく俺がヒロに抱きしめられる格好になったが、ヒロの体温は温かく気持ちが良かった。ヒロの鼓動も、俺の鼓動も早かった。なのにそのまま眠ってしまいたいようなとろりとした幸福感が湧き上がってきて、俺は小さく呻いた。
 ほら、打ち上げ行こう。
 そう言ってヒロの背中を軽く叩こうとすると、ヒロがそのタイミングで急に俺を突き飛ばすようにして身体を離した。
 休憩室のドアが開けっ放しで、その向こうに斉藤くんが立っていた。
「あ、すみません、北澤さんに言われて呼びにきました。あの、僕なんで、大丈夫ですよ」
 これには俺もヒロも失笑するしかなかった。
 それはそうだ。斉藤くんは大丈夫だ、もう知ってるんだから。
 相原くんは寝かせておいたほうが、と言ってソファを振り向くと、相原くんは起きていた。しかも、いつから起きていたのか解らない。

 斉藤くんの先導で俺とヒロ、相原くんがキッチンに降りて行くと、他の皆はもう集まっていた。一人残らず忙しかったはずなのに、不思議と誰も疲れた顔をしていない。
 シェフ、スー・シェフ、お疲れ様です、と言って、倉田さんがグラスを渡してくれる。その後から北澤が、おう、お疲れ、と言ってシャンパンを注ぎに来て、呆れたことに俺に向かってチャラい目配せをしてきた。
「では、乾杯の音頭は? やはり本日のMVPでしょうか」 
「MPでしょ。最も目だった人」
 倉田さんの進行にヒロが横槍を入れて、北澤を引っぱり出す。何故か波多野さんと鏑木くんから熱心な拍手が起こる。
「えーと、本日は多々ご迷惑をお掛けして、ほんと申し訳ありませんでした。お詫びの印に結構いいやつ開けたんで、これで多少なりとも、今日の疲れを癒して下さい。じゃあ、乾杯」
 と、北澤はわりとさっさとまともなことだけ言って、全員がグラスを上げて乾杯した。
「じゃあさ、今日一日でいっちばん印象に残ったこと、皆それぞれ発表して終わらへん?」
 波多野さんがそう提案して、それはいいですね、と倉田さんが応じた。
 はい、じゃあシェフから。波多野さんがそう言っていきなり俺に振ってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした

たっこ
BL
【加筆修正済】  7話完結の短編です。  中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。  二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。 「優、迎えに来たぞ」  でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。  

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった

たけむら
BL
「思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった」 大学の同期・仁島くんのことが好きになってしまった、と友人・佐倉から世紀の大暴露を押し付けられた名和 正人(なわ まさと)は、その後も幾度となく呼び出されては、恋愛相談をされている。あまりのしつこさに、八つ当たりだと分かっていながらも、友人が好きになってしまったというお相手への怒りが次第に募っていく正人だったが…?

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

運命を知っているオメガ

riiko
BL
初めてのヒートで運命の番を知ってしまった正樹。相手は気が付かないどころか、オメガ嫌いで有名なアルファだった。 自分だけが運命の相手を知っている。 オメガ嫌いのアルファに、自分が運命の番だとバレたら大変なことになる!? 幻滅されたくないけど近くにいたい。 運命を悟られないために、斜め上の努力をする鈍感オメガの物語。 オメガ嫌い御曹司α×ベータとして育った平凡Ω 『運命を知っているアルファ』というアルファ側のお話もあります、アルファ側の思考を見たい時はそちらも合わせてお楽しみくださいませ。 どちらかを先に読むことでお話は全てネタバレになりますので、先にお好みの視点(オメガ側orアルファ側)をお選びくださいませ。片方だけでも物語は分かるようになっております。 性描写が入るシーンは ※マークをタイトルにつけます、ご注意くださいませ。 物語、お楽しみいただけたら幸いです。 コメント欄ネタバレ全解除につき、物語の展開を知りたくない方はご注意くださいませ。 表紙のイラストはデビュー同期の「派遣Ωは社長の抱き枕~エリートαを寝かしつけるお仕事~」著者grottaさんに描いていただきました!

代わりでいいから

氷魚彰人
BL
親に裏切られ、一人で生きていこうと決めた青年『護』の隣に引っ越してきたのは強面のおっさん『岩間』だった。 不定期に岩間に晩御飯を誘われるようになり、何時からかそれが護の楽しみとなっていくが……。 ハピエンですがちょっと暗い内容ですので、苦手な方、コメディ系の明るいお話しをお求めの方はお気を付け下さいませ。 他サイトに投稿した「隣のお節介」をタイトルを変え、手直ししたものになります。

処理中です...