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2-5.ゾンビも意外と役に立つ(相原颯太/パティシエ)

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 倉田さんは慣れた足取りでデザートワゴンを運んで行った。ソムリエの人より格段に安心感がある。だから僕はキッチンの奥にすっ飛んで戻って、作業の続きに取りかかった。いちばん気を遣う工程。だけど心落ち着く工程でもある。
 薄く流した生地の上に、栗の甘露煮を隙間なく並べる。その上に薄くスライスした林檎を、綺麗な層になるように重ねながら並べる。さらにその上にヘーゼルナッツ、アーモンドダイスとクッキークランチを散らす。そして抹茶のアパレイユを流し入れ、型ごと何度か作業台に打ち付けて空気を抜く。
 予熱したオーブンに型を入れ、タイマーをセットする。二巡目のコースのスープが出る頃には焼き上がるから、速攻で冷やせばじゅうぶん間に合う。はず。けどあのとき広瀬さんが出てきてくれなかったら僕は完全に詰んでた。それにシェフが様子を見に来てくれなかったら、やっぱり詰んでたかもしれない。
 すぐにでも休憩室に行ってあのふかふかソファにダイブしたかったけど、倉田さんがサービスしてくれている間はキッチンにいたほうがいいと思って、スツールに座ってしばらくぼんやりすることにした。
 そこで、洗い場が無音なのに気づいた。新人くん、というか斉藤くんがいない。
 シェフと広瀬さんが休憩なのは解るけど、この時間、洗い場はMAXで忙しいはず。
 自分のことで一杯すぎて外の物音を全部シャットアウトしていたから、状況が解らない。倉田さんはいちばん時間のかかるサービスに行ってるから当分キッチンには戻って来ない。鏑木くんはそのうち戻ってくるだろうけど鏑木くんがキッチンの動向を把握してるかどうか解らない。ゾンビのソムリエはゾンビのままだ。
 波多野さんに訊きに行こう、と思ってバーカウンターの方を伺うと、その波多野さんが一瞬で目の前を通り過ぎてホールに行ってしまった。
 客席で誰かおじさんが怒鳴っている。
 しばらくして波多野さんがまた一瞬で目の前を通り過ぎてバーに行ってしまい、今度はシェリーグラスをホールに運んでいき、鏑木くんを連れて戻って来た。仕事には優先順位ってゆうもんがあるやん、と、バーカウンターから波多野さんの関西弁のお説教が聞こえてきた。でも言いながら途中で笑い出している。
 鏑木くんが何かやらかして波多野さんがフォローした、ということらしい。
 そんでシェフと広瀬さんが戻って来た、と思ったら、その後から斉藤くんも戻って来た。
 三人とも何だか、狐につままれたような、というか、憑き物が落ちたような顔をしていた。
 斉藤くんはシェフに「無理はしないでね」と念を押されながら洗い場に立ち、普通に仕事を再開した。途中で体調が悪くなって休んでいたのかもしれない。シェフと広瀬さんはキッチンのいつもの立ち位置についた。でもそこに行くまでのあいだ、シェフの右手がずっと広瀬さんの左肩に乗っていた。
 二人にお礼を言いたかったけど邪魔をするような気がして、僕はキッチンの奥でできるだけ気配を消した。

 二巡目はスタッフの配置を変える、とシェフが言って、やっぱりデセールはパティシエが行け、と言われるのかと身構えていたら、波多野さんがソムリエの人の代わりにワインのサービスをする、という話だった。あと斉藤くんはシェフたちの補助に入って、斉藤くんの代わりにソムリエの人が洗い場に入る。
 誰からも特に異論は出なかった。ソムリエの人はむしろほっとしたみたいな顔をしていたから、今日はよっぽど駄目なんだな、と思った。
 その短いスタッフミーティングの後で僕は無事にシェフと広瀬さんにお礼を言い、それから倉田さんにもお礼を言った。
「いや、どうにかトラブルなく終わったけど、想像以上に大変だった。申し訳ないけど、リキュールは省略させてもらったよ」
 倉田さんはそう言って、共犯者の顔をして僕に目配せをして見せた。
「あれ北澤くんのアイデアだってね。颯太くんにしては派手な演出だなと思ってたら、テーブルに近づく前に北澤くんがすっと寄って来て、倉田さんこれやんなくていいですよ、俺がやりたかっただけなんで、って言って、アトマイザー二つとも持ってってくれたの。紅茶とコーヒー間違えないか不安だったから、ほんと助かった。北澤くん今日いちばんのファインプレーだよ」
「あ、そうだったんすか。それはまあ、良かった、です」
 ゾンビも意外と役に立つ。こともある。
 倉田さんは「とりあえず、二回目は不安もなくやれそうな手応えだったから、安心して」と、これまた神な言葉をくれた。
 僕の仕事はもうほとんど終わっていて、あとは二巡目のデザートワゴンをセットするのと、ガトー・インビジブルが焼き上がったら速やかに冷却する、というミッションだけになった。だから、オーブンの陰からキッチンの様子を観察する余裕ができた。
 シェフと広瀬さんはやっぱり、どこかのソムリエと違ってちゃんとした大人だった。自分たちの仕事に集中しつつ斉藤くんに的確な指示を出していて、斉藤くんもちゃんとついて行っていた。斉藤くんはシェフたちと何か喋って、笑顔を見せることもあった。というか、斉藤くんの笑顔がちょっとびっくりするくらい可愛い、ということに僕は初めて気づいた。
 斉藤くんて笑うとそうなるんだ、という感じ。顔の印象が一瞬で変わる感じ。
 ああ、あの人がそこに行っちゃうの解らなくもないな、と思える感じ。
 当の北澤さんはずっと洗い場で皿洗いをしていて、まさか洗い場で色気を発揮する機会なんかゼロだろうと思うのに、たまに肩越しに斉藤くんを見つめたりしている。もはやあの感じはラブロマンスじゃなくて完全にコメディだ。
 何でこの世界は、恋愛至上主義、みたいなことになってるんだろう。今まさに僕の目の前で、恋愛なんか面倒だし何より格好悪いよね、という僕の信念を全力で証明している人がいるのに。
 僕にとっては恋愛なんかより、この店での仕事のほうがずっと大事だ。バターとお砂糖と小麦粉と卵と、その他たくさんの幸せな匂いと一緒に過ごせるということ。僕には何ができて何が無理なのかを、ちゃんと理解してくれる人たちと働けるということ。僕が人とうまく喋れなくても、人の目を気にしてうまく動けなくても、この店は僕がつくるものの価値をただ純粋に評価して、僕の欠点を何でもないことのように受け入れてくれる。
 この店のスタッフは、倉田さんやシェフの人柄のおかげなのか、それとも採用基準として優しさ値が設定されているのか、みんな優しい。さっき鏑木くんに注意していた時の波多野さんだって、高圧的に言うのでも嫌味っぽく言うのでもなく、やんわり笑いながらたしなめる、っていう感じだった。
 本当は、それが当たり前じゃないといけない、と思う。完璧な人間なんてどこにもいないし、誰にだって多かれ少なかれ欠点はある(それを認めない人も多いけど)。だから、そういうことをお互いに許せる世界に、普通になればいいと思う。

 作業台の上から猫の鳴き声が聞こえた。にゃーん。にゃーん。僕は手を伸ばしてキッチンタイマーのスイッチを切った。どうでもいいことだけど、僕は自分の作業台に三種類のキッチンタイマーを置いていて、生地用(発酵とか冷蔵庫で寝かせるとかの時間)、焼成用(オーブンで焼く時間)、冷却用(ムースとかを冷やし固める時間)で使い分けている。
 猫の鳴き声は焼成用のタイマーだ。
 もちろんオーブンそのものが、焼き上がりには派手なビープ音で知らせて来るのだけど、僕はそのビープ音に驚かされるのが嫌なので、猫のタイマーを焼き上がりの一分前に設定するのが習慣になっている。
 オーブンからパン型を取り出して蓋を開け、作業台の上に逆さまに乗せて慎重に型を外す。上面に卵液を塗ってパートブリゼを乗せる。もう一度型を被せてひっくり返し、オーブンに戻して1分だけ追加で焼く。
 仕上がりは完璧だった。後は可及的速やかに冷却するのみ。
「あの、相原さん、これ使ってください。シェフからです」
 聞きなれない声がして、見ると斉藤くんの少しはにかんだ笑顔がそこにあった。氷水の入った寸胴なべマルミットを両手で抱えている。真空調理用の密封バッグまで用意してくれている。
 咄嗟に言葉が出なかったけど、目が合った瞬間、斉藤くんの笑顔が二割くらい増したような気がした。
「それじゃ、失礼します」
 斉藤くんはそう言って、鮮やかな笑顔の残像をのこして立ち去った。
 自分が気づいていない時に急に声を掛けられると僕は反射的にビクッとしてしまうのだけど、今そうならなかったな、と思った。
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