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ホメオスタシスの黒点
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「——いしゃん」
細く頼りない声が、エントランスホールに響いた。中央階段の上、ステンドグラスの映像の前にいたイシャンは、呼び声に振り返る。声から予想はついていたが、階下には彼女の姿があった。
「……どうかしただろうか?」
イシャンの表情に変化はない。問いかけに対して、彼女は答えながら階段を上がってくる。
「ありあから、うたのれんしゅう……ことわった、と、ききました」
つたない発音が紡ぐ言葉を、イシャンは慎重に聞いていた。ただでさえ理解しにくいそれは、取りこぼすと致命的な認識のずれを生む。身に染みている。
「歌の練習……か」
「はい、うたのれんしゅう。ありあが、とてもたのしみに……していて」
——よければ、一緒に練習しませんか? お姫様が観客になってくださるんですよ。節電が解除されるまで、イシャンさんも多少はお時間があるかと思いまして……ぜひ、昔のように……。
アリアの誘いを、イシャンは断っていた。
それについてアリアは何も言わなかった。理由を尋ねることもしなかった。なのに、彼女のほうから、
「……どうして、だめ?」
「………………」
「わたしが、いるから……?」
「…………そういうわけでは、ない」
「………………」
彼女の眉尻が下がる。イシャンの否定を、あまり信じていないように見える。
「……わたしは、いしゃんを、おこってない」
「……それは、私も、理解している」
「……それなら、いっしょに……」
階段を上がりきっても、彼女の眼の位置は低い。下から見上げてくる瞳は、ミヅキを彷彿とさせる。身長だけでなく、眼自体もよく似ている。
思い出を振り払うように、イシャンは一度目を閉じ、彼女の瞳を見つめ直して、
「貴方は……私を、赦すべきではない」
重なる視線の奥で、何かがゆれる。その感情が何か、イシャンには読み取れない。
開かれた唇は何も言葉を返さず、音を見つけられないように止まっている。会話が終わったと判断したイシャンが、背を向けようとしたが、
「——いしゃんは、」
未熟な発音が、しっかりとした強さを帯びて、呼び止めるように発せられた。
明確な意思の響き。イシャンの足を止めて、もう一度振り返らせるほどに、はっきりと。
振り返った先では、黒い瞳が、前を——イシャンだけを、見据えて、
「いしゃんは、きょうだいを、まもってる」
「………………」
「わたしは、だいじょうぶ。……りゆうが、わかったから……もう、こわくない」
「…………私は、できることなら、赦さないでほしい」
「……どうして?」
「赦されるべきでは——ない」
イシャンの頑なな意見に、彼女の眉は相変わらず困っていたが——彼女も譲れないらしい。瞳は逃げることなく、イシャンを捉えたまま、
「……くつを、くれた」
「………………」
「くすりも、うってくれた」
「………………」
「わたしが……にげたあとのことを、考えてくれたから……」
「……そんなことは、何にもならなかった。貴方を傷付けたことに……変わりない」
「でも、……もう、どこも、いたくない。……わたしを、うけいれてくれて……ありがとう」
くもりのない瞳が、真摯に向き合って、イシャンの主張を懸命に曲げようとしている。
「だから……れんしゅう、よかったら……」
「………………」
「……ありあの、ためにも」
「……貴方が、不快でないのなら」
「わたしは、いしゃんの〈ぴあの〉、すきです」
「……それは、光栄だ」
ふわりと、表情がやわらぐ。困り顔が、安心したように緩んだ。
「こんや、あいてますか?」
「——ああ」
ピアノの高音が残す、儚い余韻のような笑い顔。無理やり笑おうとしているのではないか——そう感じるのは、錯覚だろうか。
イシャンは、初めて見る彼女の笑顔に、強い苦手意識を覚えていた。
細く頼りない声が、エントランスホールに響いた。中央階段の上、ステンドグラスの映像の前にいたイシャンは、呼び声に振り返る。声から予想はついていたが、階下には彼女の姿があった。
「……どうかしただろうか?」
イシャンの表情に変化はない。問いかけに対して、彼女は答えながら階段を上がってくる。
「ありあから、うたのれんしゅう……ことわった、と、ききました」
つたない発音が紡ぐ言葉を、イシャンは慎重に聞いていた。ただでさえ理解しにくいそれは、取りこぼすと致命的な認識のずれを生む。身に染みている。
「歌の練習……か」
「はい、うたのれんしゅう。ありあが、とてもたのしみに……していて」
——よければ、一緒に練習しませんか? お姫様が観客になってくださるんですよ。節電が解除されるまで、イシャンさんも多少はお時間があるかと思いまして……ぜひ、昔のように……。
アリアの誘いを、イシャンは断っていた。
それについてアリアは何も言わなかった。理由を尋ねることもしなかった。なのに、彼女のほうから、
「……どうして、だめ?」
「………………」
「わたしが、いるから……?」
「…………そういうわけでは、ない」
「………………」
彼女の眉尻が下がる。イシャンの否定を、あまり信じていないように見える。
「……わたしは、いしゃんを、おこってない」
「……それは、私も、理解している」
「……それなら、いっしょに……」
階段を上がりきっても、彼女の眼の位置は低い。下から見上げてくる瞳は、ミヅキを彷彿とさせる。身長だけでなく、眼自体もよく似ている。
思い出を振り払うように、イシャンは一度目を閉じ、彼女の瞳を見つめ直して、
「貴方は……私を、赦すべきではない」
重なる視線の奥で、何かがゆれる。その感情が何か、イシャンには読み取れない。
開かれた唇は何も言葉を返さず、音を見つけられないように止まっている。会話が終わったと判断したイシャンが、背を向けようとしたが、
「——いしゃんは、」
未熟な発音が、しっかりとした強さを帯びて、呼び止めるように発せられた。
明確な意思の響き。イシャンの足を止めて、もう一度振り返らせるほどに、はっきりと。
振り返った先では、黒い瞳が、前を——イシャンだけを、見据えて、
「いしゃんは、きょうだいを、まもってる」
「………………」
「わたしは、だいじょうぶ。……りゆうが、わかったから……もう、こわくない」
「…………私は、できることなら、赦さないでほしい」
「……どうして?」
「赦されるべきでは——ない」
イシャンの頑なな意見に、彼女の眉は相変わらず困っていたが——彼女も譲れないらしい。瞳は逃げることなく、イシャンを捉えたまま、
「……くつを、くれた」
「………………」
「くすりも、うってくれた」
「………………」
「わたしが……にげたあとのことを、考えてくれたから……」
「……そんなことは、何にもならなかった。貴方を傷付けたことに……変わりない」
「でも、……もう、どこも、いたくない。……わたしを、うけいれてくれて……ありがとう」
くもりのない瞳が、真摯に向き合って、イシャンの主張を懸命に曲げようとしている。
「だから……れんしゅう、よかったら……」
「………………」
「……ありあの、ためにも」
「……貴方が、不快でないのなら」
「わたしは、いしゃんの〈ぴあの〉、すきです」
「……それは、光栄だ」
ふわりと、表情がやわらぐ。困り顔が、安心したように緩んだ。
「こんや、あいてますか?」
「——ああ」
ピアノの高音が残す、儚い余韻のような笑い顔。無理やり笑おうとしているのではないか——そう感じるのは、錯覚だろうか。
イシャンは、初めて見る彼女の笑顔に、強い苦手意識を覚えていた。
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