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For Your Sake
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楽しい温泉も終わって、日常。
いっそリフレッシュ効果でやる気に満ちているならまだしも、出社する気力がすっかり失われたレイコは、通常運転で淡々と日々の仕事をこなしていた。
事件は、そんな折に起こった。
「——ティアくん!」
金曜日の夜、ティアの家に入ると同時に勢いよく名を呼んだ彼女に、ティアは思わず身を引いていた。
「えっ……どうしたの? なんかあった?」
「会社で……」
「会社で? ……あ、もしかして後輩のコがまた何か……」
「ちがう! そっちはとくに何も……いや、違うや。そこから始まるんだけど、」
「……?」
「……よし、とりあえず呑もう。酔って話す!」
「えぇぇ……?」
手には日本酒の瓶も抱えている。ぬかりはない。
テーブルに着いて、用意されていた酒器にそそぐのは『早瀬浦』。2千台で買える辛口純米吟醸で、コスパを重視するレイコの最推し。吟醸の味わい豊かな風味と奥深い旨みが——
「あ、これおいしいね?」
「そんなこといいから! 話を聞いて!」
冷やしてあった日本酒は、さらりと飲みやすい。しかし、ティアの感想そっちのけでレイコは話を始めた。
「会社で、みのりちゃんと話す機会があってね。なんだかんだ結局みのりちゃんも別れたらしくて、『先輩、一緒に恋活しましょう』なんて言ってさ、合コンみたいな呑み会? に誘われて……」
「この日本酒、いいね。辛口の概念変わるよね?」
「あれ? ちゃんと聞いてね? ……そしたら、たまたま近くにいた同期の……いま同じグループで隣の席のひとが、
——安井さん、彼氏いなかった?
——別れたんだよ。若い女の子と浮気されちゃってね。
——ひどいね。
——まあね。
この話題になった途端、みのりは非常に粛々と手を動かし、総会で使った大会議室の片付けをてきぱきと進めていた。
——安井さん、知らない人らと呑むくらいなら……俺と呑みに行かない?
——呑むのがメインじゃなくて、出会いがメインなんだよ。
——だから……そういう意味で。
——?
——彼氏いると思ってたから、諦めてた。でも、別れたなら……俺も、立候補していい? よかったら、今夜とか。日本酒の揃ってるお店があって……安井さん、好きだって話してたよね?
——って! 誘われたの!」
テンション高く報告したレイコの向かいで、ティアが大きく首をかしげる。
「……この話、いつの話?」
「今日だよ! めっちゃフレッシュな話だよ!」
「そうだよね、そんな感じだよね? ……じゃ、なんでレイちゃん今ここにいるの?」
「……?」
「今夜って誘われたのに、僕の前に今いるの……おかしくない?」
「今夜はティアくんと約束あったから? 断ったんだよ?」
「や、僕ら約束はしてないよ?」
「してないけど! 定番じゃん!」
「……うん、まぁ……そうだね?」
困惑ぎみのティアは、首をかしげたまま、
「僕が言うのもなんだけど、そっちを優先すべきだったんじゃ……?」
「えっ……」
「……男性って、一度断られると、次に誘うの……すごく勇気がいるんじゃないかな……?」
「………………」
「もう誘ってもらえないかも……?」
不穏な響きに、レイコがこっくりと黙り込む。
日本酒に口をつけて、ひとくち。
「……老後の独り身について、真剣に考えようと思う」
「うん、諦めが早い。もうちょっと頑張ろうか」
「でも! もう誘ってもらえないとか言うし!」
「や、冗談だからね。可愛くして、週明けにレイちゃんから提案してみて」
「可愛くっ?」
「……髪型と、ネイル?」
「あ、ちょうどヘアサロンは明日行くよ?」
「いいね。じゃ、ネイルは僕がしてあげよう」
「……え」
「爪と肌に優しいネイル用品の、紹介案件もらったんだ。シンプルなカラーだったから、『オフィスで使える、セルフジェルネイル』みたいな感じでやってみようと……今ひらめいた」
「利用されている!」
立ち上がったティアは、ネイルのカタログみたいな冊子を取って、レイコに手渡した。
柔らかなニュアンスカラーが並んでいる。たしかにオフィス向け。
「……そういえば、温泉旅行の写真と話を載せたら、レイちゃん好評だったよ。『計画から運転まで、優しい彼氏でいいなー』ってコメントもあった」
「嘘に嘘を重ねている……」
「僕は性別について何も言ってないんだけどね?」
「否定しなよ。せめて私の性別だけは訂正してよ」
ふふふ、と笑うティア。
訂正する気がないのは、レイコの目にも明らかだった。
いっそリフレッシュ効果でやる気に満ちているならまだしも、出社する気力がすっかり失われたレイコは、通常運転で淡々と日々の仕事をこなしていた。
事件は、そんな折に起こった。
「——ティアくん!」
金曜日の夜、ティアの家に入ると同時に勢いよく名を呼んだ彼女に、ティアは思わず身を引いていた。
「えっ……どうしたの? なんかあった?」
「会社で……」
「会社で? ……あ、もしかして後輩のコがまた何か……」
「ちがう! そっちはとくに何も……いや、違うや。そこから始まるんだけど、」
「……?」
「……よし、とりあえず呑もう。酔って話す!」
「えぇぇ……?」
手には日本酒の瓶も抱えている。ぬかりはない。
テーブルに着いて、用意されていた酒器にそそぐのは『早瀬浦』。2千台で買える辛口純米吟醸で、コスパを重視するレイコの最推し。吟醸の味わい豊かな風味と奥深い旨みが——
「あ、これおいしいね?」
「そんなこといいから! 話を聞いて!」
冷やしてあった日本酒は、さらりと飲みやすい。しかし、ティアの感想そっちのけでレイコは話を始めた。
「会社で、みのりちゃんと話す機会があってね。なんだかんだ結局みのりちゃんも別れたらしくて、『先輩、一緒に恋活しましょう』なんて言ってさ、合コンみたいな呑み会? に誘われて……」
「この日本酒、いいね。辛口の概念変わるよね?」
「あれ? ちゃんと聞いてね? ……そしたら、たまたま近くにいた同期の……いま同じグループで隣の席のひとが、
——安井さん、彼氏いなかった?
——別れたんだよ。若い女の子と浮気されちゃってね。
——ひどいね。
——まあね。
この話題になった途端、みのりは非常に粛々と手を動かし、総会で使った大会議室の片付けをてきぱきと進めていた。
——安井さん、知らない人らと呑むくらいなら……俺と呑みに行かない?
——呑むのがメインじゃなくて、出会いがメインなんだよ。
——だから……そういう意味で。
——?
——彼氏いると思ってたから、諦めてた。でも、別れたなら……俺も、立候補していい? よかったら、今夜とか。日本酒の揃ってるお店があって……安井さん、好きだって話してたよね?
——って! 誘われたの!」
テンション高く報告したレイコの向かいで、ティアが大きく首をかしげる。
「……この話、いつの話?」
「今日だよ! めっちゃフレッシュな話だよ!」
「そうだよね、そんな感じだよね? ……じゃ、なんでレイちゃん今ここにいるの?」
「……?」
「今夜って誘われたのに、僕の前に今いるの……おかしくない?」
「今夜はティアくんと約束あったから? 断ったんだよ?」
「や、僕ら約束はしてないよ?」
「してないけど! 定番じゃん!」
「……うん、まぁ……そうだね?」
困惑ぎみのティアは、首をかしげたまま、
「僕が言うのもなんだけど、そっちを優先すべきだったんじゃ……?」
「えっ……」
「……男性って、一度断られると、次に誘うの……すごく勇気がいるんじゃないかな……?」
「………………」
「もう誘ってもらえないかも……?」
不穏な響きに、レイコがこっくりと黙り込む。
日本酒に口をつけて、ひとくち。
「……老後の独り身について、真剣に考えようと思う」
「うん、諦めが早い。もうちょっと頑張ろうか」
「でも! もう誘ってもらえないとか言うし!」
「や、冗談だからね。可愛くして、週明けにレイちゃんから提案してみて」
「可愛くっ?」
「……髪型と、ネイル?」
「あ、ちょうどヘアサロンは明日行くよ?」
「いいね。じゃ、ネイルは僕がしてあげよう」
「……え」
「爪と肌に優しいネイル用品の、紹介案件もらったんだ。シンプルなカラーだったから、『オフィスで使える、セルフジェルネイル』みたいな感じでやってみようと……今ひらめいた」
「利用されている!」
立ち上がったティアは、ネイルのカタログみたいな冊子を取って、レイコに手渡した。
柔らかなニュアンスカラーが並んでいる。たしかにオフィス向け。
「……そういえば、温泉旅行の写真と話を載せたら、レイちゃん好評だったよ。『計画から運転まで、優しい彼氏でいいなー』ってコメントもあった」
「嘘に嘘を重ねている……」
「僕は性別について何も言ってないんだけどね?」
「否定しなよ。せめて私の性別だけは訂正してよ」
ふふふ、と笑うティア。
訂正する気がないのは、レイコの目にも明らかだった。
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