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オペラ座の幻影

Chap.5 Sec.10

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 遅いな。
 ルネが違和感を覚えたときには、すでにホールに客が入り始めていた。振り付けの確認をしていたダンサーたちも、ルネのようにホワイエまで挨拶に来た特別客も、時間を気にしたように移動し始めている。
 捜しに行くために誰か適当な者に声を掛けようとしたところ、ひとりの女性ダンサーがひらりと踊るように駆け寄った。

「——ルネ様ですね?」

 引っつめ髪にした頭に白い顔で、微笑んだまま小首をかしげる。

「ラウル様から案内するよう言われました。こちら、ロビーの方に」
「……こちらに戻っては来られないのですか?」
「時間が時間なので、お嬢さまを迎えにいきませんか?」
「…………そうですね」

 愛らしく笑う顔に悪意はない。
 ただ、どこかうっとりとするような恍惚こうこつの表情に見えて寒気がする。
 ルネに対してではなく、幻に囚われているような夢見のまなざし。

 憧れのプリマドンナになりたい。そんな可愛らしい夢をえがくようには見えない。

「こちらですよ」

 小さなベルを揺らすような声が、ロビーの方へ。
 ついて行くと関係者用の通路に案内され、こちらから入って奥のドアから階段を下りてくださいと言う。

「……案内をしてくださるのでは?」
「私もそろそろ舞台の用意をしなくちゃいけないんです」

 眉を下げて申し訳なさそうにしなをつくる姿は白々しい。
 疑いの目を向けるルネに、上目遣いで微笑むと、

「行かなくてもいいんですよ。……でも、お嬢さまはそちらにいます。タレラン様と、ご一緒に」

 その名前が出た瞬間、選択肢は消えた。さっと顔色を変えたルネは迷わず足を踏み出し、指示どおりの道を早足で進んでいた。
 硬い階段が靴底と当たって速い音を立てる。おりきった先の通路にはドアが並んでいたが、明かりがもれるのは最奥のみ。迷わずそのドアに手を掛けていた。

「——やあ、ルネ君」

 開いた先は、毒々しい赤の部屋だった。
 長ソファや足置きなど、家具の布地はすべて鮮血のような艶やかなビロード。
 床や壁までも贅沢にビロードで覆われ、敷かれたカーペットは金の刺繍。

 その中央で、ソファに座ってワインを飲んでいた男がルネへと声を掛けた。

 くらりと眩惑げんわくされる色彩に、ルネは止まることなく、

「——お嬢様!」

 壁の甲冑かっちゅうが護るように立つ奥のベッドに、彼女は横たわっていた。駆け寄ったルネの声に反応することなく、静かに目を閉じている。

「……心配は要らない。眠っているだけだよ」

 吐息のような声に振り返れば、ソファに座る男は微笑みを浮かべていた。目つきだけは鋭い。狩人のように獲物との距離を見定めている。

「……彼女に何をした」
「君が案じるようなことはしていない……まだ、ね」

 狂気を帯びる口許が笑みをこぼす。男はワインのグラスを置いて立ち上がった。

「——少し、話をしようか」

 ビロードの上をゆっくりと歩きながら、壁に飾られた絵を眺める。革命の混乱を描いた激動の絵画。
 オペラが始まったのか、頭上から重いオーケストラの音楽が低く響いた。

「黄金のろば——と呼ばれる施設ができた理由を、君は知っているね?」
「………………」
「隠し立てする必要はない。君が把握している程度のことは、噂にもあがっている」

 〈黄金のろば〉は、革命の混乱で学んだ貴族たちが、いざというときのために我が子の身代わりを作っている——。

 ルネは男を細く見返したまま答えた。

「……血を絶やさぬために、嫡男の身代わりとして差し出すことで、危機を回避する……処刑のための子を作る場だろう」
「噂は、そこまでだ」
「………………」
「その施設にいたのなら、疑問に思わなかったかな? 危機を乗りきるためだけにしては、教育に力が入りすぎていると……」
「仮にも貴族の嫡男に化けるんだ。それなりの存在でなくてはならないだろう」
「死ぬだけの存在に、そこまでの金と時間はかけないよ」

 フッと冷笑を浮かべた男の顔に、ルネは嫌悪を覚えた。
 人を人と思っていない。使用人のルネは、時折そんな視線にさらされる。革命がされてもなお、世間から人を見下す目つきは消えていない。

「知らないふりをいつまでするのかな? ……君は知っているのだろう? あそこに集められた子供たちが、なんなのか」

 ゆるりと回される首が、ルネに向く。

 ルネは目だけ合わせたが、話をしながら距離を測っていた。男との距離とドアまでの距離。男を攻撃することなく彼女を連れ出すのは困難だった。
 そもそも、国の権力者を攻撃したならば、どうなるか。
 ルネなどは問答無用で捕えられて首をねられる。

 ——解決策が見当たらない。
 彼女が起きてくれることを願うが……反応の無さから薬で眠っている可能性がある。
 時間の引き延ばしのためだけに会話を続けた。

「……不実の子、と……推測はしている」

 曖昧あいまいに答えたが確証は得ていた。施設に入る際に差し出されるは価値のある装飾品で、家名を示す物が多いらしい。外に作った妾の子であっても、自分の血を示したいのか、愛着があるのか……。

「——私は、自分の分身のようでどの子も可愛いがね……?」

 ルネの心を読んだかのように、男は答えてみせた。

「フィリップも、ラウルも……他の子たちも。私の血を引く者は、その成長を見ているだけで温かな気持ちになれるね?」

 ——嘘をつけ。
 悪態は、思うだけにとどめた。

 語る男の顔は穏やかではない。
 ルネのよく知る——子を想う父親の顔ではない。

「……それが、なんだって言うんだ。貴方は俺に何を言いたい?」
「——では、本題に入ろうか」

 男の手が、ひらりと掲げられる。
 人さし指だけが立てられ、ほかの指は軽く曲げられた不思議な手つきが、宙にぴたりと止まる。

「……君は、なんだろうね?」
「………………」
「施設の正体は噂にすぎない。ムシュー・パピヨンは何も知らず、君がみずから望んであの家に推薦を提出したらしいが……それは、何故だろう?」
「……働きやすそうな家だと思ったからだ」
「そのように詰まらない言い訳をしないでおくれ……そこにいる娘が、あっさりとわれてしまうよ?」

 見据える目が、ギラリと光った。
 反射的に伸びたルネの手が、かばうように彼女の体にかざされる。

「……彼女は関係ないだろう。俺に用があるなら、まずは彼女を解放してくれ」
「その娘はみずから私の手に落ちてきたのだよ。……二度も見逃しはしない。……それに彼女も、君の問題とは無関係ではないがね……?」
「彼女は関係ない」
「ほう……?」

 男は服の内側に手を入れると、何かを取り出してルネの目につくように上げて見せた。

「君の捜し物は……これではないのかな?」

 差し上げられたのは、ひとつの指輪。
 家紋が大きく入った太く立派な作りで、ランプの光を受けたそれはおごそかにきらめいた。

 ルネの目が、わずかに見開かれる。
 男はそれを見逃すことなく、慈しむような微笑みを浮かべた。

「かつて……私は、彼に会ったことがあるのだ。今ではムシュー・パピヨンと呼ばれる……あの家の当主が、幼き頃に」
「………………」
「革命よりも前に、まだ互いに幼い身ではあったが……私は記憶力がよくてね? 今でも鮮明に思い出せるよ……」

 注がれる視線は、ルネの淡い眼に。

「——印象的な、灰色の眼。どこか彼方かなたを見ているような、不思議な瞳……そう、まるで君のような」

 動揺に、ルネの目が瞬く。

「……奇妙だね? ムシュー・パピヨンも、近しい色をしているが……印象が、まったく違う。話してみれば、よく分かる。あれは違う……だ」

 男は指輪を仔細しさいに眺めつつ、指先でもてあそぶ。

「では——はどこへ?」

 流された目は、ルネを貫いた。

「調べてみれば、あの家の前の当主には妾がいた。前の当主はその子を溺愛していたそうでね……ひょっとしたら、混乱の最中さなかで身代わりと言いながら……本当に入れ替えてしまったのではないかと……馬鹿げた想像をしてしまったのだよ……」
「……それはまた……詰まらない物語だな」

 男はクツクツと喉を鳴らして笑った。

「そうだね……その詰まらない物語では、正統な子は始末されるべきだったのだが……手違いか、慈悲か……行方をくらましてしまった。……そして、長い時を経て何を思ったのか……噂を聞きつけたのか……〈黄金のろば〉へとやってくる。病にかかり、残り幾ばくもない自分の代わりに……幼い子へと報復を託した。……『私の代わりに、あの家の全てを奪え——いや、取り戻せ』と……家紋の指輪と引き換えに」

 男の声に、ルネの幼い記憶が脳裏で弾けた。

——私の犠牲のうえで安穏を貪る奴らを、ひとり残らず殺してくれ。当主も、妻も……生まれてくる子もすべて。偽りの血など根絶やしにしろ——!

 証拠もなく、名乗り出ることすらできないほど落ちぶれていたその父親がルネに命じたのは、男の指摘とは異なっていた。
 真実は、物語よりも惨虐ざんぎゃくを望んでいる。

「……ルネ君、いろいろと誤解があるようだが……私はね、君の味方になりたいと思っているのだよ。もし、君が望むなら……あの家を取り戻してやってもいいと……それくらいの気持ちでいる」
「……そんなものは信用できない」
「信用なんてものは要らない。君が〈黄金のろば〉について嗅ぎ回る必要がなくなり……有用な君を無駄に始末する必要もなくなる。こちらにもメリットがあるのだよ」
「……貴方の手助けなどは求めていない。協力してくれるなら、その指輪だけ寄越してくれればいい」
「指輪だけとは……謙虚だね? まぁ、よい。渡してあげようか。…………ああ、言い忘れていたが……その娘はここに置いていきなさい」

 眉を寄せたルネに、男は薄く笑った。

「言ったろう? 二度も見逃しはしない。……その娘は、私の獲物だよ?」
「……冗談だろう。彼女は貴方の義理の娘になる。今後も関係が生まれる娘だ」
「なるほど、息子の婚約者というのは初めて味わうね……どんな味だろうか?」
「……狂ってる」
「君ほどではない。……憎む娘を、さも愛しているかのように育ててみせる……これこそ狂人の所業ではないか?」

 弓なりに弧をえがく唇に、ルネは言葉を返せなかった。

「——指輪が欲しいなら、引き換えにその娘を置いていきなさい。オペラが終わるころには返してあげよう……本人の口も塞いでおくから、君が主人あるじに咎められることはない……普段どおりに帰ればいい」

 掠れる声が、悪魔の囁きを唱えた。

「——さて、どうする?」
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