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オペラ座の幻影
Chap.5 Sec.9
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澄みわたる青空が高く晴れあがり、なびく風もめっきり冷たく……
などと時候の挨拶でだらだらと手紙の前面を埋めていく。そして謝罪、からのルネの状態、回復しました。あとは感謝の言葉と次のオペラの約束。
——四日後のラウル様のオペラを観劇しにまいります。
必要分を堅苦しく整えてから、最後にしぶしぶ『あなたを愛する……』そこまで書いておきながら、やっぱり名前ではなく家名にした。家族一同あなたを愛しております感を出してから、署名。
恋文とはなんだ。
罪悪感から書き綴れる予感があったはずだが全くもって愛を囁けなかった恋文(?)での予告どおり、かなり早い時間にオペラ座へとやってきていた。
手紙のやりとりはあったものの直接的な謝罪はしておらず、今日があれ以来の再会となるはずだったのだが、
「え、フィリップ様はいらっしゃらないの?」
「そうなのです……」
前回のことをラウルにも謝罪するため、支配人の計らいで待機場のようなダンスホワイエの横までやって来ていた。ダンスホワイエでは薄いチュールのスカートを穿いたダンサーたちが手脚をしなやかに伸ばしている。その手前で、ラウルを前にルネと並んでいた。
「フィリップ様も体調がすぐれず……」
「まあ……ルネの風邪がうつったのかしら?」
「かも知れませんね……」
ラウルと話していると、斜め後ろから「彼と接触した覚えはありませんよ」いくぶん敬意の軽いつぶやきがあった。
振り返ると、表情だけはにこやかな執事然としたルネが唇だけ素に近い空気で、
「いなくて残念でございますね」
「……あなた、思ってないのがバレバレよ。ラウル様に失礼……」
ぽそりと注意したが、目の前のラウルは声高に笑った。
「これは意外ですね? 主人に対してもルネがルネのままなんて……とても仲がよろしいのですね。まるで恋人のようですよ」
軽やかな笑い声に混ぜて、さらりと爆弾発言をする。誰も聞いていないけれど、仮にも使用人と主人だというのに……
「親子じゃないか? 子育ての半分は俺だからな」
「ああ! そんなふうにも見えますね?」
はははは。響く笑い声。
向かい合って笑い合う二人に、わたしの気持ちなんて分からないのだ。一瞬でも頬を染めて焦ったのに。取り返したい。
唇をむっとして黙っていたが、ルネと笑っていたラウルがわたしを見て、
「ああ、申し訳ありません。こんなに立派なマドモアゼルをルネと親子だなんて……冗談でも失礼をいたしました」
「……いえ、いいのよ」
「お詫びに、よければ舞台裏ツアーはいかがですか? 私はあとしばらく時間がございますから、時間の許すかぎりご案内いたしますよ」
「舞台裏……そんな所にわたしなんかが立ち入ってもいいの?」
「ええ、私と一緒であれば。……何人も連れていくことはできませんが、お嬢さん一人を15分ほど案内するだけなら何も言われません」
「それは……すこし興味があるけれど……」
ルネをちらりと振り返る。
彼は薄い吐息で笑った。
「どうぞ、お好きに。こちらでお待ちしております」
仮面半分、素顔半分。緩い空気で見送られ、ラウルの案内のもと女性ダンサーたちの横を過ぎていった。
「……わぁ、思ったよりも広いのね……?」
舞台裏の天井はかなり高く、ホールと同じくらい音が響きそうなほど広がりがあった。立て掛けられた演出のための背景板を、関係者らしき者たちが確認しては何か話し合っている。大道具を定位置に運ぶ者、歌手やダンサーのための細々とした物を用意している者など、それぞれ役割をもって動いていた。
そんな中を歩いていく。場違いな気がしたが、よくあることなのか誰も何も気にしていない。ラウルも気にすることなく各方向を示しながら説明をくれた。
「床下にも何かあるのね?」
「ええ、じつは地下には秘密の部屋がありまして……怪人が住まうともっぱらの噂なのです」
「えっ!」
床下にある空間を眺めていたが、思わず飛びのく。勢いよく跳ねたわたしにラウルはくすくすと笑って、
「冗談ですよ」
「……もう」
ため息でごまかしたが、地下に覚えた不信感は拭えない。今この瞬間でも誰かが下からのぞいているのでは……と。暗がりの床板にある節の穴に、人の眼がぱちりと見上げているのを想像してしまった。
すこし怯えたわたしの不安を払拭しようとしたのか、ラウルは明るい笑顔を浮かべる。
「できたばかりの建物に不審者が住み込んでいたら大事です。下は舞台装置の関係で一部スペースがあるのですよ」
「そうよね……」
進んでいくラウルの足を追いかけた。
「こちらは歌手の控え室ですね」
シンプルなドアが並ぶ通路には、ちらほらと人がいる。ラウルに続くわたしに挨拶をくれる者もいた。
「……以上ですね。さて、そろそろ戻りましょうか」
ニコリと振り返った彼にうなずいたが、ちょうど彼に用事があったらしい女性ダンサーが声を掛けてきた。少し待っていてくださいね、と。話し込む二人の様子に所在なく周囲を眺めつつ歩を進め、
(……あら?)
控え室が並ぶ通路の奥、小さなドアが中途半端に開いてドレスのような布が挟まっていた。
リボンとスパンコールがあしらわれた緋色のドレス。人がいるのかと思ったがそうではなく、衣装のひとつが意図せず引っ掛かっているようだった。放っておくのも忍びなく誰かに言いつけようとしたが、通路は奥まっていて戻ったところのラウルたちしかいない。
手袋をしているし、これくらいなら触れても平気かと思って、安易にドアを開ける。すると、その先は下に降りる階段になっていて、ドレスがするすると滑っていってしまった。
止めようとしたつもりだった。
とっさに開いたドアから中に足を入れて——数段。下がったせいで手から離れたドアがバタンっと閉まり、視界は真っ暗になっていた。
慌てて背後に身を戻したが、伸ばした手が掴んだドアノブはなぜか固く動かない。ドアを叩いてラウルの名を呼んでみるが……しんとしている。
(うそ……どうしよう)
血の気が引く思いで立ち尽くしたが、よく考えてみればこちらは下に続く階段があった。閉じ込め事件ではなく、どこかに抜ける場所があるかも知れない。
落ち着いて目をこらせば、光もうっすらだが見える気がする。
そろそろと階段をおりきって、少しばかり細い通路を進む。奥の正面の壁についたドアをノックするが返事はなく、しかし鍵はないようで簡単に開き……
ほっとした。中には人がいた。
「あの、すみません」
真っ赤なビロードが張られた室内。
オペラ座が外交で王族を招いたときのような、貴賓席のごとく豪華な内装に、ぼんやりと灯された明かり。
壁に掛けられた絵を眺めていたようなその紳士は、呼び声にゆっくりと振り返った。
「おや……こんなところに迷い子かな?」
あっ、と。口から失礼な音がこぼれる。
仄明かりに浮かんだのは、タレラン家の当主——フィリップの父であった。
見知った顔に出会えた安心から駆け寄って、挨拶と先日の非礼を詫びると、彼は唇からいつもの端が掠れるような音で笑い声をこぼした。
「——困ったね」
脈絡なく、つぶやく。
彼の意味するところが分からずに首を傾けると、ルネに似た長い指先が——まるで垂れ下がる細い枝のような——そら恐ろしい雰囲気を纏って、わたしの肩を掴んだ。
「今、君は皿の上にいるのだが……どうやら気づいていないようだね……?」
「……あ、の?」
「迷い込んだ先で見つけたものは、救いではない。……私は捕獲者だよ。そして、捕らえたものは美味しく頂かなくてはいけないと思っていてね……?」
クスリと鳴る音が、冷たく背筋を撫でる。
見上げた先で細まる目は、鋭く狙いを定めていた。
「理解したね? ——そう、君が獲物だ」
首筋をチクリと刺したものが何か。
考えるまでもなく、無理やり払った手が痺れ始め——
(ルネっ……)
助けを求める声は、赤いビロードの影に呑み込まれた。
などと時候の挨拶でだらだらと手紙の前面を埋めていく。そして謝罪、からのルネの状態、回復しました。あとは感謝の言葉と次のオペラの約束。
——四日後のラウル様のオペラを観劇しにまいります。
必要分を堅苦しく整えてから、最後にしぶしぶ『あなたを愛する……』そこまで書いておきながら、やっぱり名前ではなく家名にした。家族一同あなたを愛しております感を出してから、署名。
恋文とはなんだ。
罪悪感から書き綴れる予感があったはずだが全くもって愛を囁けなかった恋文(?)での予告どおり、かなり早い時間にオペラ座へとやってきていた。
手紙のやりとりはあったものの直接的な謝罪はしておらず、今日があれ以来の再会となるはずだったのだが、
「え、フィリップ様はいらっしゃらないの?」
「そうなのです……」
前回のことをラウルにも謝罪するため、支配人の計らいで待機場のようなダンスホワイエの横までやって来ていた。ダンスホワイエでは薄いチュールのスカートを穿いたダンサーたちが手脚をしなやかに伸ばしている。その手前で、ラウルを前にルネと並んでいた。
「フィリップ様も体調がすぐれず……」
「まあ……ルネの風邪がうつったのかしら?」
「かも知れませんね……」
ラウルと話していると、斜め後ろから「彼と接触した覚えはありませんよ」いくぶん敬意の軽いつぶやきがあった。
振り返ると、表情だけはにこやかな執事然としたルネが唇だけ素に近い空気で、
「いなくて残念でございますね」
「……あなた、思ってないのがバレバレよ。ラウル様に失礼……」
ぽそりと注意したが、目の前のラウルは声高に笑った。
「これは意外ですね? 主人に対してもルネがルネのままなんて……とても仲がよろしいのですね。まるで恋人のようですよ」
軽やかな笑い声に混ぜて、さらりと爆弾発言をする。誰も聞いていないけれど、仮にも使用人と主人だというのに……
「親子じゃないか? 子育ての半分は俺だからな」
「ああ! そんなふうにも見えますね?」
はははは。響く笑い声。
向かい合って笑い合う二人に、わたしの気持ちなんて分からないのだ。一瞬でも頬を染めて焦ったのに。取り返したい。
唇をむっとして黙っていたが、ルネと笑っていたラウルがわたしを見て、
「ああ、申し訳ありません。こんなに立派なマドモアゼルをルネと親子だなんて……冗談でも失礼をいたしました」
「……いえ、いいのよ」
「お詫びに、よければ舞台裏ツアーはいかがですか? 私はあとしばらく時間がございますから、時間の許すかぎりご案内いたしますよ」
「舞台裏……そんな所にわたしなんかが立ち入ってもいいの?」
「ええ、私と一緒であれば。……何人も連れていくことはできませんが、お嬢さん一人を15分ほど案内するだけなら何も言われません」
「それは……すこし興味があるけれど……」
ルネをちらりと振り返る。
彼は薄い吐息で笑った。
「どうぞ、お好きに。こちらでお待ちしております」
仮面半分、素顔半分。緩い空気で見送られ、ラウルの案内のもと女性ダンサーたちの横を過ぎていった。
「……わぁ、思ったよりも広いのね……?」
舞台裏の天井はかなり高く、ホールと同じくらい音が響きそうなほど広がりがあった。立て掛けられた演出のための背景板を、関係者らしき者たちが確認しては何か話し合っている。大道具を定位置に運ぶ者、歌手やダンサーのための細々とした物を用意している者など、それぞれ役割をもって動いていた。
そんな中を歩いていく。場違いな気がしたが、よくあることなのか誰も何も気にしていない。ラウルも気にすることなく各方向を示しながら説明をくれた。
「床下にも何かあるのね?」
「ええ、じつは地下には秘密の部屋がありまして……怪人が住まうともっぱらの噂なのです」
「えっ!」
床下にある空間を眺めていたが、思わず飛びのく。勢いよく跳ねたわたしにラウルはくすくすと笑って、
「冗談ですよ」
「……もう」
ため息でごまかしたが、地下に覚えた不信感は拭えない。今この瞬間でも誰かが下からのぞいているのでは……と。暗がりの床板にある節の穴に、人の眼がぱちりと見上げているのを想像してしまった。
すこし怯えたわたしの不安を払拭しようとしたのか、ラウルは明るい笑顔を浮かべる。
「できたばかりの建物に不審者が住み込んでいたら大事です。下は舞台装置の関係で一部スペースがあるのですよ」
「そうよね……」
進んでいくラウルの足を追いかけた。
「こちらは歌手の控え室ですね」
シンプルなドアが並ぶ通路には、ちらほらと人がいる。ラウルに続くわたしに挨拶をくれる者もいた。
「……以上ですね。さて、そろそろ戻りましょうか」
ニコリと振り返った彼にうなずいたが、ちょうど彼に用事があったらしい女性ダンサーが声を掛けてきた。少し待っていてくださいね、と。話し込む二人の様子に所在なく周囲を眺めつつ歩を進め、
(……あら?)
控え室が並ぶ通路の奥、小さなドアが中途半端に開いてドレスのような布が挟まっていた。
リボンとスパンコールがあしらわれた緋色のドレス。人がいるのかと思ったがそうではなく、衣装のひとつが意図せず引っ掛かっているようだった。放っておくのも忍びなく誰かに言いつけようとしたが、通路は奥まっていて戻ったところのラウルたちしかいない。
手袋をしているし、これくらいなら触れても平気かと思って、安易にドアを開ける。すると、その先は下に降りる階段になっていて、ドレスがするすると滑っていってしまった。
止めようとしたつもりだった。
とっさに開いたドアから中に足を入れて——数段。下がったせいで手から離れたドアがバタンっと閉まり、視界は真っ暗になっていた。
慌てて背後に身を戻したが、伸ばした手が掴んだドアノブはなぜか固く動かない。ドアを叩いてラウルの名を呼んでみるが……しんとしている。
(うそ……どうしよう)
血の気が引く思いで立ち尽くしたが、よく考えてみればこちらは下に続く階段があった。閉じ込め事件ではなく、どこかに抜ける場所があるかも知れない。
落ち着いて目をこらせば、光もうっすらだが見える気がする。
そろそろと階段をおりきって、少しばかり細い通路を進む。奥の正面の壁についたドアをノックするが返事はなく、しかし鍵はないようで簡単に開き……
ほっとした。中には人がいた。
「あの、すみません」
真っ赤なビロードが張られた室内。
オペラ座が外交で王族を招いたときのような、貴賓席のごとく豪華な内装に、ぼんやりと灯された明かり。
壁に掛けられた絵を眺めていたようなその紳士は、呼び声にゆっくりと振り返った。
「おや……こんなところに迷い子かな?」
あっ、と。口から失礼な音がこぼれる。
仄明かりに浮かんだのは、タレラン家の当主——フィリップの父であった。
見知った顔に出会えた安心から駆け寄って、挨拶と先日の非礼を詫びると、彼は唇からいつもの端が掠れるような音で笑い声をこぼした。
「——困ったね」
脈絡なく、つぶやく。
彼の意味するところが分からずに首を傾けると、ルネに似た長い指先が——まるで垂れ下がる細い枝のような——そら恐ろしい雰囲気を纏って、わたしの肩を掴んだ。
「今、君は皿の上にいるのだが……どうやら気づいていないようだね……?」
「……あ、の?」
「迷い込んだ先で見つけたものは、救いではない。……私は捕獲者だよ。そして、捕らえたものは美味しく頂かなくてはいけないと思っていてね……?」
クスリと鳴る音が、冷たく背筋を撫でる。
見上げた先で細まる目は、鋭く狙いを定めていた。
「理解したね? ——そう、君が獲物だ」
首筋をチクリと刺したものが何か。
考えるまでもなく、無理やり払った手が痺れ始め——
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助けを求める声は、赤いビロードの影に呑み込まれた。
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