上 下
55 / 72
オペラ座の幻影

Chap.5 Sec.9

しおりを挟む
 澄みわたる青空が高く晴れあがり、なびく風もめっきり冷たく……
 などと時候の挨拶でだらだらと手紙の前面を埋めていく。そして謝罪、からのルネの状態、回復しました。あとは感謝の言葉と次のオペラの約束。
 ——四日後のラウル様のオペラを観劇しにまいります。
 必要分を堅苦しく整えてから、最後にしぶしぶ『あなたを愛する……』そこまで書いておきながら、やっぱり名前ではなく家名にした。家族一同あなたを愛しております感を出してから、署名。
 恋文とはなんだ。

 罪悪感から書き綴れる予感があったはずだが全くもって愛を囁けなかった恋文(?)での予告どおり、かなり早い時間にオペラ座へとやってきていた。
 手紙のやりとりはあったものの直接的な謝罪はしておらず、今日があれ以来の再会となるはずだったのだが、

「え、フィリップ様はいらっしゃらないの?」
「そうなのです……」

 前回のことをラウルにも謝罪するため、支配人の計らいで待機場のようなダンスホワイエの横までやって来ていた。ダンスホワイエでは薄いチュールのスカートを穿いたダンサーたちが手脚をしなやかに伸ばしている。その手前で、ラウルを前にルネと並んでいた。

「フィリップ様も体調がすぐれず……」
「まあ……ルネの風邪がうつったのかしら?」
「かも知れませんね……」

 ラウルと話していると、斜め後ろから「彼と接触した覚えはありませんよ」いくぶん敬意の軽いつぶやきがあった。
 振り返ると、表情だけはにこやかな執事然としたルネが唇だけ素に近い空気で、

「いなくて残念でございますね」
「……あなた、思ってないのがバレバレよ。ラウル様に失礼……」

 ぽそりと注意したが、目の前のラウルは声高に笑った。

「これは意外ですね? 主人あるじに対してもルネがルネのままなんて……とても仲がよろしいのですね。まるで恋人のようですよ」

 軽やかな笑い声に混ぜて、さらりと爆弾発言をする。誰も聞いていないけれど、仮にも使用人と主人だというのに……

「親子じゃないか? 子育ての半分は俺だからな」
「ああ! そんなふうにも見えますね?」

 はははは。響く笑い声。
 向かい合って笑い合う二人に、わたしの気持ちなんて分からないのだ。一瞬でも頬を染めて焦ったのに。取り返したい。

 唇をむっとして黙っていたが、ルネと笑っていたラウルがわたしを見て、

「ああ、申し訳ありません。こんなに立派なマドモアゼルをルネと親子だなんて……冗談でも失礼をいたしました」
「……いえ、いいのよ」
「お詫びに、よければ舞台裏ツアーはいかがですか? 私はあとしばらく時間がございますから、時間の許すかぎりご案内いたしますよ」
「舞台裏……そんな所にわたしなんかが立ち入ってもいいの?」
「ええ、私と一緒であれば。……何人も連れていくことはできませんが、お嬢さん一人を15分ほど案内するだけなら何も言われません」
「それは……すこし興味があるけれど……」

 ルネをちらりと振り返る。
 彼は薄い吐息で笑った。

「どうぞ、お好きに。こちらでお待ちしております」

 仮面半分、素顔半分。緩い空気で見送られ、ラウルの案内のもと女性ダンサーたちの横を過ぎていった。


「……わぁ、思ったよりも広いのね……?」

 舞台裏の天井はかなり高く、ホールと同じくらい音が響きそうなほど広がりがあった。立て掛けられた演出のための背景板を、関係者らしき者たちが確認しては何か話し合っている。大道具を定位置に運ぶ者、歌手やダンサーのための細々こまごまとした物を用意している者など、それぞれ役割をもって動いていた。
 そんな中を歩いていく。場違いな気がしたが、よくあることなのか誰も何も気にしていない。ラウルも気にすることなく各方向を示しながら説明をくれた。

「床下にも何かあるのね?」
「ええ、じつは地下には秘密の部屋がありまして……怪人ファントームが住まうともっぱらの噂なのです」
「えっ!」

 床下にある空間を眺めていたが、思わず飛びのく。勢いよく跳ねたわたしにラウルはくすくすと笑って、

「冗談ですよ」
「……もう」

 ため息でごまかしたが、地下に覚えた不信感はぬぐえない。今この瞬間でも誰かが下からのぞいているのでは……と。暗がりの床板にあるふしの穴に、人の眼がぱちりと見上げているのを想像してしまった。

 すこしおびえたわたしの不安を払拭しようとしたのか、ラウルは明るい笑顔を浮かべる。

「できたばかりの建物に不審者が住み込んでいたら大事おおごとです。下は舞台装置の関係で一部スペースがあるのですよ」
「そうよね……」

 進んでいくラウルの足を追いかけた。

「こちらは歌手の控え室ですね」

 シンプルなドアが並ぶ通路には、ちらほらと人がいる。ラウルに続くわたしに挨拶をくれる者もいた。
 
「……以上ですね。さて、そろそろ戻りましょうか」

 ニコリと振り返った彼にうなずいたが、ちょうど彼に用事があったらしい女性ダンサーが声を掛けてきた。少し待っていてくださいね、と。話し込む二人の様子に所在なく周囲を眺めつつ歩を進め、

(……あら?)

 控え室が並ぶ通路の奥、小さなドアが中途半端に開いてドレスのような布が挟まっていた。
 リボンとスパンコールがあしらわれた緋色のドレス。人がいるのかと思ったがそうではなく、衣装のひとつが意図せず引っ掛かっているようだった。放っておくのも忍びなく誰かに言いつけようとしたが、通路は奥まっていて戻ったところのラウルたちしかいない。
 手袋をしているし、これくらいなら触れても平気かと思って、安易にドアを開ける。すると、その先は下に降りる階段になっていて、ドレスがするすると滑っていってしまった。

 止めようとしたつもりだった。
 とっさに開いたドアから中に足を入れて——数段。下がったせいで手から離れたドアがバタンっと閉まり、視界は真っ暗になっていた。

 慌てて背後に身を戻したが、伸ばした手が掴んだドアノブはなぜか固く動かない。ドアをたたいてラウルの名を呼んでみるが……しんとしている。

(うそ……どうしよう)

 血の気が引く思いで立ち尽くしたが、よく考えてみればこちらは下に続く階段があった。閉じ込め事件ではなく、どこかに抜ける場所があるかも知れない。
 落ち着いて目をこらせば、光もうっすらだが見える気がする。

 そろそろと階段をおりきって、少しばかり細い通路を進む。奥の正面の壁についたドアをノックするが返事はなく、しかし鍵はないようで簡単に開き……
 ほっとした。中には人がいた。

「あの、すみません」

 真っ赤なビロードが張られた室内。
 オペラ座が外交で王族を招いたときのような、貴賓席のごとく豪華な内装に、ぼんやりとともされた明かり。
 壁に掛けられた絵を眺めていたようなその紳士は、呼び声にゆっくりと振り返った。

「おや……こんなところに迷い子かな?」

 あっ、と。口から失礼な音がこぼれる。
 ほの明かりに浮かんだのは、タレラン家の当主——フィリップの父であった。

 見知った顔に出会えた安心から駆け寄って、挨拶と先日の非礼を詫びると、彼は唇からいつもの端がかすれるような音で笑い声をこぼした。

「——困ったね」

 脈絡なく、つぶやく。
 彼の意味するところが分からずに首を傾けると、ルネに似た長い指先が——まるで垂れ下がる細い枝のような——そら恐ろしい雰囲気を纏って、わたしの肩を掴んだ。

「今、君は皿の上にいるのだが……どうやら気づいていないようだね……?」
「……あ、の?」
「迷い込んだ先で見つけたものは、救いではない。……私は捕獲者だよ。そして、捕らえたものは美味しく頂かなくてはいけないと思っていてね……?」

 クスリと鳴る音が、冷たく背筋を撫でる。
 見上げた先で細まる目は、鋭く狙いを定めていた。

「理解したね? ——そう、君が獲物だ」

 首筋をチクリと刺したものが何か。
 考えるまでもなく、無理やり払った手がしびれ始め——

(ルネっ……)

 助けを求める声は、赤いビロードの影に呑み込まれた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

お見合い相手はお医者さん!ゆっくり触れる指先は私を狂わせる。

すずなり。
恋愛
母に仕組まれた『お見合い』。非の打ち所がない相手には言えない秘密が私にはあった。「俺なら・・・守れる。」終わらせてくれる気のない相手に・・私は折れるしかない!? 「こんな溢れさせて・・・期待した・・?」 (こんなの・・・初めてっ・・!) ぐずぐずに溶かされる夜。 焦らされ・・焦らされ・・・早く欲しくてたまらない気持ちにさせられる。 「うぁ・・・気持ちイイっ・・!」 「いぁぁっ!・・あぁっ・・!」 何度登りつめても終わらない。 終わるのは・・・私が気を失う時だった。 ーーーーーーーーーー 「・・・赤ちゃん・・?」 「堕ろすよな?」 「私は産みたい。」 「医者として許可はできない・・!」 食い違う想い。    「でも・・・」 ※お話はすべて想像の世界です。出てくる病名、治療法、薬など、現実世界とはなんら関係ありません。 ※ただただ楽しんでいただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 それでは、お楽しみください。 【初回完結日2020.05.25】 【修正開始2023.05.08】

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...