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オペラ座の幻影

Chap.5 Sec.8

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 熱に浮かされた脳に、くもりのない声がどこまでも広がっていく。

——復讐の炎は
——地獄のように我が心に燃え

 低く澄んだ音は厄介なほど明瞭めいりょうな響きで鳴り続け、増幅された眩暈めまいは思考にまで影響を及ぼしていく。

 ——頭が痛い。
 自分が今どこに立っているのかも分からない。

 揺れる暗闇のなか、いつまでも鳴り止まない音の反響にさいなまれていると……ふと、ひんやりとした何かが肌を撫でた。
 冷たく心地のよい感触が、濁った意識の輪郭を取り戻そうとする。

——ルネがいいの。ルネじゃなきゃだめなの。

 暗闇に、うわごとのような声がいとけなく響いた。
 立ちくらむ音の渦を払って、その声だけが、まっすぐに。

 その声を護るために、すべて諦めて目をつぶってしまおうかと思うのに——
 できない。呪いの歌が、暗闇に引きずり込もうとする。

——ここは魔の巣窟そうくつだ。一度でも手放せば、闇にわれてしまうよ?

 ……いっそのこと手放せるなら。
 あの小さな手を、過去に一度でも振り払っていたら——もっと冷酷でいられただろうか。



 §



「………………?」

 開いた目が映したのは、自室の天井だった。
 しかし、ここで眠ることなど数える程しかなかったルネにとって、記憶に結びつくまでしばし時間を要した。
 屋敷にある尖塔せんとうの、3階に位置するプライベート空間。着替えで使うくらいのその場所は、ベッドとクローゼットしか家具がなく、必要ともしていない。

 いつ眠ってしまったのかと考えながら体を起こそうとして、ひょこりと。
 視界に顔を出した彼女が、

「起きたの?」
「………………」

 まだまともに動いていない脳が、完全に停止する。
 理解のないまま、ルネは口を開いていた。

「お嬢様……ここで何を?」
「……看病、ですけど」
「看病?」
「……覚えてないの? あなた、屋敷についてすぐに倒れたのよ。従僕長のバローさんが運んでくれて……お医者様が言うには、診断は風邪だけど、過労からくるものでしょう……と。それもそうよね、あなた働きすぎだもの。父も衝撃を受けて落ち込んでるし、ゲランさんも気づけなかったことから自責の念にかられてるわ。いま屋敷中があなたへの同情の気持ちでいっぱいな感じ」
「……お戯れでございますよね?」
「いいえ、全部ほんとの話よ」

 むくりと起き上がろうとしたルネの体を、彼女は強制的に押し戻した。

「——ダメよ、起きないで。お医者様は丸一日は絶対安静と言っていたわ。まだ朝にもなってないのよ、起きる資格ないわ」
「もう回復いたしましたから、どうぞお気になさらず……」
「ダメ。あなたの言葉は当てにならない。仕事のことだって……あなたも悪いのよ。次々と引き受けるから、みんなあなたに頼ってしまったの。無理なら無理と言って……誰かに回さなくては。それに応えられないほどこの屋敷のみんなは無能ではないし、冷たくもないはずよ」
「………………」

 上体を起こそうとするルネの肩を押さえ込み、彼女は強く言い放った。
 目の端をり上げて怒る顔に、ルネは小さく苦笑する。
 彼女に諭される日がくるとは。時の流れとは実に早いものだと感じていた。

「……状況は理解いたしましたが……お嬢様がここにいる理由にはなっておりませんね?」
「……どういうこと?」
「どうしてお嬢様がここにいらっしゃるのでしょう?」
「……わたしが看病を申し出たから。お父様にお願いしたのよ」
「よく通りましたね?」
「それくらい落ち込んでいたのよ。あなたが余裕そうに振るまったせいなんだから……責任とってちゃんと休んでちょうだい」
「……大したことではありませんよ。眩暈がしていたところに、タイミング悪くオペラ座の照明が負担となっただけでございます」
「だったらもっと早く言って。オペラの付き添いなんてあなたでなくてもいいんだから……」
「さようでございますか」

 起き上がるのは諦めたのか、ルネはベッドに横たわったまま笑って目を閉じた。
 微笑んではいたが、どこか突き放すような響きの言葉に彼女が止まっていると、

「もう看病は必要ありませんから……どうぞ、お嬢様もお休みくださいませ」

 ともされた明かりから顔をそらすようにして、ルネは首を横に回す。
 顔の見えなくなったルネの表情を追うように流れた彼女の目は、動かなくなったルネの後頭部を見つめて困惑していた。出て行けというニュアンスを感じたが……そばを離れたくない。

 そんな彼女の心を読んだルネは、声だけ素に戻し、

「君が俺の心配をするのはおかしいな。むしろこの機会に俺を追い込むべきじゃないか?」
「……そんなことするわけないでしょう」
「何故? 俺がこの屋敷に破滅を招くと分かっているのに?」
「……あなたと戦う気なんてない。言ったはずよ」
「君が戦えないのは〈優しいルネ〉だろう? そんなものは偽りだと知っていながら……いつまで幻影にとらわれてるんだ?」 
「………………」
「君が好きだったルネは最初からいない。家族を本当に護りたければ、俺の看病なんてせず見殺しにしたほうが建設的だと思うがな」

 かすかに熱を帯びた脳でつらつらと述べると、一度ルネは言葉を切った。ふいに頭の奥を刺した痛みに、自然と手を側頭部へとかざしていた。
 彼女が反応する。

「……痛いの?」
「いや……」
「冷やす?」
「必要なら自分でやるよ。君は早く眠ってくれ。ひとりのほうが頭に音が響かない」
「…………黙っているから、そばにいてはいけない?」
「君はあまり俺の話を聞いていないな」
「……聞いてるわ」
「出ていけと言わないと伝わらないのか?」
「……何かあったら心配だから、そばにいたいの」

 ルネの手と頭のあいだを縫うように、彼女の手がそろりと差し込まれる。

「……熱も、まだ少しあるみたい」

 あきれたのか面倒になったのか、ルネは返事をしない。
 桶の中で濡らした布をきゅっと絞り、反対を向くルネの側頭部へと当てる。彼はため息をもらした。

 ほてるルネの肌を感じながら、彼女はぼんやりと記憶をたどっていた。

「……昔と、逆ね」

 壁が円をえがく室内に、彼女の声が小さく響く。

「わたしが体調を崩したときは……ルネが一晩中わたしを見てくれたわ……」
「……自主的にしたわけじゃない。君が俺に一晩中いるよう命じたんだ」
「……え、わたしが?」
「記憶にないか。過去の君は、体調が悪いと幼児化して俺に命じてくる子だった」
「わたし、ルネに命令なんてしたこと……ないと思ってるんだけど……」
「俺からしたらお願いも命令と同じだな」
「…………そう、なの」

 ひんやりとした空気に、沈黙が降りる。
 時間を置いて、ルネの口から深い息が吐き出された。

「出ていってもらえないか? 許可が出てるとしても、一晩中、本当に君に看病させるわけにはいかない。使用人にそんなことはしなくていい」
「……わたしは昨日眠ったから平気よ」
「そんなことは心配してない」
「………………」
「見張りが必要なら、君じゃなくて他の使用人を付けてくれ。巡回の者でもいい」
「……あなたの看病なら、希望が出てたけれど……」
「ならその者でいいだろ。代わってくれ」
「……最近入ったメイドだから……いろいろと分からないことも多いかもしれないし……」
「どんな者でも使用人なら君よりは仕事慣れしてる。俺が最初に指導したんだから、心配は要らない」
「……指導?」
「採用したときに説明はしてる。……ああ、希望してるのはココか?」
「……ココ?」
「コレット・メルシエ。入ったばかりだが、仕事は正確にしてくれる。なんの問題もないから、彼女に任せて君は早く……」

 一向に動く気配のない彼女に、ルネは顔を戻して強めの声で告げようとしたが、言葉を言い終える前に彼女の手によって唇を押さえられた。傷ひとつない柔らかな手が、ぎゅっとルネの唇を覆っていた。

 眉をひそめたルネが目を上げると、泣きそうな瞳とぶつかり、

「……もう、喋らないで。わたしも喋らないから……ルネは元気になることだけ考えて」

 押さえる手を払うためにルネは手を出したが、掴んでどかしても、その手は小さく抵抗してくる。

「……君が部屋に戻れば、俺も休める」
「どうしてわたしではだめなの」
「使用人をみる主人がどこにいるんだ」
「ここにいるわ。お父様もいいって言ってくれたのよ」
「……そういう話じゃないだろ。疲れているのに共にいれば、君までうつる。君が眠れていないのを誰も知らないから……」

 ルネの言葉は、途切れた。
 押さえられた手の代わりに、くちづけがその唇を封じた。
 すぐに離れはしたが、泣きそうな瞳は声までもうるませて、

「うつしていいから……そばにいさせて」
「……君にうつれば俺の立場がない」
「お願いも命令だと言ったわ。望まなくともあなたは聞くべきでしょう」

 熱の残る唇が拒絶を口にできないよう、もういちど唇を重ねて吐息を呑み込む。
 抵抗はないが、彼女が伸ばした舌をルネがすくい取ることはない。
 それが悲しくて彼女が涙をこぼすと、冷たい雫がぽたりとルネの頬を濡らし……

 下から伸びた手が、彼女の後頭部に回される。
 彼女がその手に気づいたときには、ぐっと引き寄せられ、舌ごと深く交わっていた。

 掌も、舌先も、合わさる皮膚も。
 すべてがいつもよりも熱く、境界があいまいに溶ける。
 こぼれる吐息が、どちらのものかも分からない。

「……朝まで、いてもいい?」
「明日の夜は必ず休むと約束するなら」
「するわ。絶対に休むから」

 囁かれる誓いに、ルネの口からもう咎めの言葉はなかった。
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