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オペラ座の幻影

Chap.5 Sec.6

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——すぐにまた誘いに行くけど。

 たしかに言ってた。言ってたけども。

「……早い」

 小犬のような丸い黒眼を前に、わたしは隠すことなく思いっきり息を吐き出していた。にかっと笑う顔はたぶん褒め言葉と捉えている。だめだ、しっかり話さないと何も伝わらない。

「フィリップ様」
「ん?」
「あなた、ちょっと非常識だわ。昨日の今日で当たり前のように我が家のリビングに……しかも普通は先に連絡をよこすのよ。こんな遠方だというのに……なぜ早馬ではなくあなたが先に来るの?」
「早馬に俺が乗ってきてるから?」
「……嘘でしょう? あなたそれでも貴族なの?」
「そのほうが早いだろ? あとから馬車も来るし」
「……あなた、わたしのこと散々バカにしておきながら……」
「——それより、馬車が来たら出掛けるぞ。食事でもして、そのあとオペラ座に。ラウルが出るから、父上があんたと……あいつもどうか、と」

 フィリップの目をたどらなくても分かる。わたしの後ろに控えているルネのことを示している。
 使用人である彼を、ひょっとするとラウルと旧知の間柄ということで、わざわざ名指しで誘ってくれたのか。

「……どうせ連れてくんだろ?」

 ぼやくような言い方に、疑問をいだいてフィリップの顔を見る。彼は以前までルネを見下して「俺が連れてってやるぜ」みたいな感じだったかと思うのだが、今日はやけに乗り気じゃない。連れて行きたくない空気をひしひしと感じる。
 ——とはいえ、

「……もちろん」

 連れて行かないという選択肢は、わたしには無い。



 §



「いきなりの誘いで悪かったね……都合がついたようでよかったよ」
「いえ、こちらこそお招きいただきありがとうございます」

 オペラ座で再会したタレラン氏は、当然なのだが昨日ぶりなので変わりなく。昨日も上質な服を着ていたが、今夜はより華やかな装いだった。
 ウール地の黒に近いブラウンの燕尾服テールコート。中の黒のベストには全面に花模様の押し型があしらわれていて、オペラ座の照明を受け美しい光沢を見せている。フィリップも高価な物を着ているなと思うが、父のほうは本人の風格もあってより上等な物に感じられた。本来の貴族としての地位は我が父も変わらないというのに……権力と貧富の差を感じる。いや、父のへそくり宝石のせいなのか。

「ルネ君、といったね? ラウルから君のことも聞いているよ。あの子はずっと君に憧れていたらしい……君が来ることを先ほど伝えたら、とても喜んでいた。来てくれて本当に感謝するよ」
「いいえ……わたくしのような者にお声掛けくださり、恐縮至極でございます」
「そう気を張らなくても構わないからね。ラウルは家族のようなものだから……その友人である君も、家族の友人として扱わせておくれ」

 にこやかにルネへと話すタレラン氏に、ちょっと目が飛び出そうになった。
 フィリップの顔と、フィリップ父と思えないタレラン氏の顔を目で何度も往復する。親子と思えないこの対応。嘘だ。信じられない。
 わたしの目を受けたフィリップがじろりと見返してきた。

「……なんだよ、なんか文句あるか?」
「その返し……自覚はあるのね?」
「うるさい。使用人でも〈黄金のろば〉は別だ。ラウルだって使用人というよりも俺の遊び相手みたいなもんだった」
「そう、その〈黄金のろば〉について……もっとちゃんと訊かないといけないと思ってたのよ……」
「訊かれても答えられないぞ。あれ以上の情報は俺もない」
「……そうなの?」
「ああ。……訊いて回るのもやめとけよ? 俺の勘だけど、俺らのレベルで首を突っこんでいいものじゃない」
「……そんなこと言われると、よけい気になるわ……」
「やめとけ。。分をわきまえないと、厄介事を招くぞ」
「………………」
「……なんだ、その目は」
「あなた……賢いことも言うのね」
「ふん、まぁな。俺は頭もいいからな」

 そこも褒め言葉として受け取るのか。
 だんだん分かってきたのだが、彼はちょっとあほの子かもしれない。

 フィリップに唖然あぜんとした気持ちを送りながら、用意されていたイスに座った。
 ルネの分まで席が用意されていて、タレラン氏が自身の隣を勧めている。ルネは断りを入れたようだが、押しきられて席についていた。家族の友人と言われようが、一介の使用人であることに変わりはない。立場が上の者の言葉をそう何度も断れるはずがない。
 そうしてフィリップがわたしの横に座ると、わたしはタレラン親子に挟まれるかたちとなり……父側は多少の距離があるとしても、なんだか非常に居心地がわるい。

 舞台は前と同じでとびきり近く、照明も熱かった。舞台はすでに始まっていたが、もともと社交の場であるオペラを、最初から最後まで集中して見る者なんて少ない。
 ラウルが出てくるまではタレラン氏もそこまで興味がないのか、ルネに何か話しかけていた。話の内容は聞こえないが、雰囲気をみるにラウルについて話しているように思う。

「……あなたのお父様、お優しいのね」
「表向きはな」

 軽い感想を述べただけだったのだが、フィリップから冷淡な切り返しがきて、ぱっと振り返っていた。こちらに横目を流した彼が、

「あんたの目にどう映ってるのか知らないが、俺の父は優しくなんかない。せいぜい自分の身内だけだ。あんたの父親とは違うぞ」
「……そんな、自分の父親のことを悪く言うなんて……」

 言いながら、ふと脳裏にルネの警告がよぎった。

——タレランに気をつけろ。

 ……すっかり忘れていたが、あれはいつだったか。ピアノを弾いていた? そうだ、ルネに邪魔されて……いや、邪魔されたのは、そのあと……? なんでそんな話になったのだったか……

 どうしよう、ぜんぜん思い出せない。
 たぶん余計な記憶が思い出すのを妨害している。

 悩んでいると、フィリップが鼻で笑った。

「あんたは呑気のんきそうでいいよな」
「いいえ。……わたしは悩みだらけよ」
「……母親のことか?」
「……そうね」

 それだけではなかったが、一番は母と言える。
 フィリップはしばらく口を閉じていたが、静かに、考えを述べるように、

「……あんたは最善を尽くしてると思う。母親も、あんたの父親に愛されて……幸せそうだった。別れがじきに来るのかもしれないけど……最期まで夫にも娘にも愛されて終われるなら……充分だろ」

 思いがけない言葉に、胸が、ぎゅっとつかまれたような痛みが走った。
 痛みだと感じたけれど、それはすぐに解けて、じんわりとみていく。
 泣きそうになったのは、単に言葉が胸を打ったからではなく——

「……フィリップ様、わたし、」
「様は、もういらないな。フィリップでいい」

 言いかけた真実が、彼の言葉に遮られて言葉にならなかった。
 言わなくてはいけないと——その瞬間は思い立ったのに、そのわずかな時間だけで意思はき消えてしまった。

 言葉のないわたしに、彼は顔ごと振り返る。

「……どうした?」
「……いえ」
「? ……お、次からやっとラウルの見せ場だな」


 長い前置きに飽きあきしていたフィリップは、明るく告げ、彼女の手を取った。
 以前はルネがいなくなったことを知ったうえで捕まえたが、もう逃げることはないだろうと思い、軽い気持ちで。
 ——しかし、フィリップの予想に反して彼女は手を引き抜くと、かたくなな声で囁いた。

「……困ります。婚姻の日までは……みだりに触らないで」
「…………これくらい別にいいだろ」
「いいえ、わたしは、厳しく教育されてきたから……受け入れられないわ」
「………………」

 フィリップにとって強い貞操観念は望ましいものであったはずだが、いざそれが自分に向くと不満が生まれる。
 逃げられた不快感からも何か言おうとしたが、奇妙なこわばりを見せる彼女の表情を目にして、言葉なく前を向いた。そこまで思い詰めた顔をするなんて、自分が悪かっただろうか——と。

 照明は暗く落とされ、舞台にはラウルの歌声が響き始める。
 子に復讐を促す、夜の王の歌。

『奴に死の苦しみを! ——それができぬなら、お前はもはや我が子ではない』

 オペラ座に響きわたるようなラウルの歌声は、聞き慣れたフィリップですら、怖気づくような恐ろしい迫力があった。彼女の肩も小さく震えていて、フィリップはその手を握ってやろうかと思ったが、二度伸ばす気にはならない。

(泣いたりはしないよな……?)

 心配ではなく、ルネに挑発された影響でよこしまな興味をもってして眺めていたのだが、はからずしもその奥で立ち上がったルネのほうに目がいってしまった。

 ——青白い顔で、今にも倒れそうな。

 そのまま外へと出ていってしまった彼に、フィリップがあっけに取られていると……気づいたらしい彼女も、「ルネ……?」と彼のゆくえを追って目を後ろに回し、いないと分かると立ち上がっていた。

「……おい」

 フィリップの呼び声など聞こえていない。
 前回のこともあって、自分に黙ってルネがいなくなることの不吉さを知っている彼女は、迷いなく追いかけていた。
 とっさにフィリップも後を追い——

 残るひとりだけが、唇の端で笑っていた。
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