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オペラ座の幻影
Chap.5 Sec.4
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黄金のろばについて話してから、彼女の様子がおかしい。フィリップはうかがうように見ていたが、彼女は誰に話しかけられても上の空で、帰るときまで心ここにあらずの顔をしていた。
(大丈夫か……?)
父や母と別れの言葉を交わす彼女を気にしていると、彼女の使用人もまた同じような目で彼女を見ていることに気づいた。
「——おい」
「……私に何かご用でございますか?」
「あんた、あいつのこと見すぎだぞ。使用人ならもう少し控えろ」
「申し訳ございません。お嬢様のお体が心配でして……主人からも、常に見守るよう命じられておりますので」
丁寧な言葉遣いなのに、どことなく腹が立つ。慇懃無礼とは、まさにこの使用人のことをいうと思う。
とは言っても、もうあまり響きはしない。
「まあ……それも結婚までだな? 」
口の端を持ち上げてみせれば、微笑む顔がかすかに止まる。
「あいつには話したけど、なんならあんたも貰ってやろうか? 大事なお嬢様を末永く見守れるぞ」
「……それは、大変ありがたく存じますが、」
予想していた断りが入る前に、言葉を重ねた。
「閨の付き添いもあんたにしてやるよ。あいつの体が心配なんだろ? だったらあんたの前で抱いてやる。——好きなだけ見とけよ」
悪意に反応した使用人の目が、すっと細まった。それは一瞬のことで、すぐにいつもの人形めいた微笑へと戻ったが……
「……それは、大変に興味深いことでございますね?」
「あ?」
ふっと微笑む顔が、好戦的な色を帯びる。
「——私に見られることを恥じらうお嬢様は、さぞかし可愛らしいことでございましょう」
ふっかけられた喧嘩を流したうえで、自分を中心とした発言。使用人の立場など微塵もわきまえていない。
なかば呆然としたフィリップが何か言う前に、ルネは追いうちを掛けた。
「昔からお嬢様の笑顔は愛らしいですが、泣き顔もまた可愛らしく……ああ、ご存じないかも知れませんが」
「……てめぇ」
「——申し訳ございません。何か気にさわる言葉がございましたなら、お詫びを」
胸に手を当てて形ばかりの謝罪をしたルネに、フィリップが手を出すよりも、彼女が割って入るほうが早かった。
「——フィリップ様?」
呼び声に、胸ぐらを掴もうとした手が止まる。振り返れば、近寄ってきた彼女の不思議そうな目がフィリップを見ていた。
「どうかなさったの?」
「…………いや、べつに」
「そう? わたしはもう帰りますね? 今日は本当にありがとう。……父も母も、とても喜んでくれたわ。感謝してもしきれない……何か、わたしにしてほしいことがあったら言ってくださいね。できる限りお応えするわ」
「……してほしいこと?」
「……言ってみたけどパッと浮かばないわ。ハンカチにお名前の刺繍を入れる?」
「要らない……」
「でしょうね。……お好きなワインを用意する?」
「それはあんたがやることじゃないだろ。(なんなら酒の管理なんて使用人じゃないか)」
フィリップの指摘に、彼女の目が上を向く。
「……手紙を、書きましょうか?」
「手紙?」
「恋人どうしは手紙を交換するものでしょう? わたしは恋文というものを書いたことがないから……自信はないけれど」
「……男に手紙を書くのは初めてってことか?」
「ええ、まぁ」
「……そこの使用人は?」
「?」
「そいつに、手紙を書いたことはないのか?」
フィリップの目の先をたどって、彼女がルネを見る。
「……彼は屋敷に住み込みなのよ?」
同じ家に住むのに、なぜ手紙が要るの?
その反応を見て、それならば、と。
「分かった。だったら手紙を愉しみにしとく」
「え……期待されるほどの物が書けるかは……ちょっと、どうかしら?」
「書けよ。頑張ってあんた史上最高の恋文にしてくれ。……いくらでも待つから」
「……努力はするわ」
まじめな顔で応える彼女に、胸のうちにあった怒りが消える。
——だから、ここから先の行動は当てつけじゃない。
彼女の頬に手を添えて、その唇に軽いキスを。なるべく優しく、そっと触れるように。
驚きにみはる目を見つめて、離した唇で別れを告げた。
「じゃあな。……すぐにまた誘いに行くけど。とりあえず、おやすみ」
両親へもよろしくと伝えたが、動揺する彼女の耳に届いていたかどうか。
困りきったような顔は見たことのない表情で、
(たしかに泣き顔も可愛いのかもな……)
使用人の言葉を、多少は柔らかく受け止められそうだった。
(大丈夫か……?)
父や母と別れの言葉を交わす彼女を気にしていると、彼女の使用人もまた同じような目で彼女を見ていることに気づいた。
「——おい」
「……私に何かご用でございますか?」
「あんた、あいつのこと見すぎだぞ。使用人ならもう少し控えろ」
「申し訳ございません。お嬢様のお体が心配でして……主人からも、常に見守るよう命じられておりますので」
丁寧な言葉遣いなのに、どことなく腹が立つ。慇懃無礼とは、まさにこの使用人のことをいうと思う。
とは言っても、もうあまり響きはしない。
「まあ……それも結婚までだな? 」
口の端を持ち上げてみせれば、微笑む顔がかすかに止まる。
「あいつには話したけど、なんならあんたも貰ってやろうか? 大事なお嬢様を末永く見守れるぞ」
「……それは、大変ありがたく存じますが、」
予想していた断りが入る前に、言葉を重ねた。
「閨の付き添いもあんたにしてやるよ。あいつの体が心配なんだろ? だったらあんたの前で抱いてやる。——好きなだけ見とけよ」
悪意に反応した使用人の目が、すっと細まった。それは一瞬のことで、すぐにいつもの人形めいた微笑へと戻ったが……
「……それは、大変に興味深いことでございますね?」
「あ?」
ふっと微笑む顔が、好戦的な色を帯びる。
「——私に見られることを恥じらうお嬢様は、さぞかし可愛らしいことでございましょう」
ふっかけられた喧嘩を流したうえで、自分を中心とした発言。使用人の立場など微塵もわきまえていない。
なかば呆然としたフィリップが何か言う前に、ルネは追いうちを掛けた。
「昔からお嬢様の笑顔は愛らしいですが、泣き顔もまた可愛らしく……ああ、ご存じないかも知れませんが」
「……てめぇ」
「——申し訳ございません。何か気にさわる言葉がございましたなら、お詫びを」
胸に手を当てて形ばかりの謝罪をしたルネに、フィリップが手を出すよりも、彼女が割って入るほうが早かった。
「——フィリップ様?」
呼び声に、胸ぐらを掴もうとした手が止まる。振り返れば、近寄ってきた彼女の不思議そうな目がフィリップを見ていた。
「どうかなさったの?」
「…………いや、べつに」
「そう? わたしはもう帰りますね? 今日は本当にありがとう。……父も母も、とても喜んでくれたわ。感謝してもしきれない……何か、わたしにしてほしいことがあったら言ってくださいね。できる限りお応えするわ」
「……してほしいこと?」
「……言ってみたけどパッと浮かばないわ。ハンカチにお名前の刺繍を入れる?」
「要らない……」
「でしょうね。……お好きなワインを用意する?」
「それはあんたがやることじゃないだろ。(なんなら酒の管理なんて使用人じゃないか)」
フィリップの指摘に、彼女の目が上を向く。
「……手紙を、書きましょうか?」
「手紙?」
「恋人どうしは手紙を交換するものでしょう? わたしは恋文というものを書いたことがないから……自信はないけれど」
「……男に手紙を書くのは初めてってことか?」
「ええ、まぁ」
「……そこの使用人は?」
「?」
「そいつに、手紙を書いたことはないのか?」
フィリップの目の先をたどって、彼女がルネを見る。
「……彼は屋敷に住み込みなのよ?」
同じ家に住むのに、なぜ手紙が要るの?
その反応を見て、それならば、と。
「分かった。だったら手紙を愉しみにしとく」
「え……期待されるほどの物が書けるかは……ちょっと、どうかしら?」
「書けよ。頑張ってあんた史上最高の恋文にしてくれ。……いくらでも待つから」
「……努力はするわ」
まじめな顔で応える彼女に、胸のうちにあった怒りが消える。
——だから、ここから先の行動は当てつけじゃない。
彼女の頬に手を添えて、その唇に軽いキスを。なるべく優しく、そっと触れるように。
驚きにみはる目を見つめて、離した唇で別れを告げた。
「じゃあな。……すぐにまた誘いに行くけど。とりあえず、おやすみ」
両親へもよろしくと伝えたが、動揺する彼女の耳に届いていたかどうか。
困りきったような顔は見たことのない表情で、
(たしかに泣き顔も可愛いのかもな……)
使用人の言葉を、多少は柔らかく受け止められそうだった。
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