【完結】好奇心に殺されたプシュケ

藤香いつき

文字の大きさ
上 下
40 / 72
Bal masqué

Chap.4 Sec.12

しおりを挟む
 どこまで来たのか分からない。
 異常なまでに広い屋敷を、誰に止められることなく端まで進んでいた。
 フランソワの声を振り払って小部屋を飛び出してから、人あらざる仮面の生き物たちのあいだを抜け、頭のなかに残る光景からのがれようとしたけれども——

 さらされた胸もと。
 ふたつの仮面の狭間はざまで、合わさった唇。
 わたし以外の肌に、手袋を外した彼の手が触れて——

——やめて。

 耐えきれずに、叫んでしまっていた。

 目を閉じると、涙があふれる。仮面の下の肌はすでに濡れていて、あごの下まで冷たくなっていた。隠された泣き顔に、誰も気づかない。気づくためのひともいない。たどり着いた端で逃げ込んだ部屋は、誰もいない温室だった。冬を越すための野菜が、咲き乱れる花の下で緑の葉を広げている。青い匂いが、今しがたまで世界を覆い尽くしていた香水の香りをき消した。

「ふ……うっ……うぅっ……」

 何かを叫びたい。でも、叫ぶ気力もなく、嗚咽おえつだけが落ちていく。あふれる涙と、締めつけるような痛みに、胸がく。

——愛しております。この世の誰よりも、わたくしが、お嬢様をお慕いしております。

 信じてなどいない。いなかった。いなかったのに、なぜ。

——本当に、私は、お嬢様だけを愛しく思っておりますよ。

 闇色の世界で聞いたあの音が、あまりにも優しかったから。
 嘘だと知っていても、〈優しいルネ〉の仮面だと分かっていても。
 あの響きに、ひとかけらでも、真実があるのでは——と。

——この唇も、体も、誰にも与えるな。

 彼が口にした言葉すべてから、自分に都合のいいものだけをすくい取るようにして、彼の真意を探していた。

——君は、彼の素顔を知りたい?

 真実は、どうしようもないほど残酷だった。
 のぞいたことを後悔しても、もう遅い。裏切りを知った心は黒く塗りつぶされていく。開かれたパンドラの箱のように、あふれ出した悪いものが、彼への無垢むくな恋心を殺していく。

——約束いたします。私はお嬢様を決して裏切りません。兄にはなれなくとも、お嬢様を護る騎士となりましょう。

 あんなものは、始めから嘘だった。
 開かれた箱の底に、希望などない。もう何も、信じられない——。

 かちゃり、と。
 絶望に染まる頭に、温室のドアノブが音を立てた。

 ばっと、うつむいていた顔を上げた先に見えた髪が——記憶に結びついた気がしたけれど、違った。撫でつけられたダークブロンドの髪の下、黒の仮面に隠されていても歳を感じる肌が、記憶から離れていった。
 いくぶん歳のいっている男が、開かれたドアのところに立っていた。

「おや……ここは今日、入室禁止だが……?」

 セリフに、やはり記憶と繋がるものがあるが、誰か分からない。40代だろうかと思うが、その世代との交流はほとんど身内になる。しかし、思いつくひとはいない。

「……すみません、失礼いたしました」

 謝罪して横をすり抜けようとしたが、彼はひらりと伸ばした腕で出口を塞いだ。

「……あの……?」
「——泣いているね?」

 見上げた顔をのぞき込むように、黒の仮面が傾いた。言葉じりのかすれるような声が、耳のそばに寄る。出口を塞いだのとは反対の手で、ためらいなくわたしの顎に触れ、

「こんなに濡れて……どうしたのかな?」

 塞いでいた手は、外される。その手はポケットを探り、ハンカチを手にわたしの顔へと。
 流麗な動きで添えられた柔らかさに、反応が遅れてぼうぜんとしてしまってから、

「お気遣いなく……」

 戸惑いに、たしょう失礼な勢いで離れていた。見知らぬ男性とこんな近さで話すことはない。わたしが未婚の娘であるかなど、彼は知らないのだろうけれど……それでも、距離が近すぎた。
 わたしが下がったため、ハンカチを持つ手が宙で居場所なく止まっている。わたしの反応を不快に思わなかったのか、彼の唇は微笑んでいた。

「——失礼、驚かせたようだね?」
「いえ……こちらこそ、失礼な態度を……温室への入室も、申し訳ありません……」
「いや、構わない。ここに駆け込む貴女を見かけて、気になったのでね……何かお困りごとかな?」
「……大したことでは、ありません。すこし、体調が……すぐれなくて……」
「——ほう? それは心配だ」

 本当のことなど言えるはずもなく、しどろもどろで出まかせを口にしたところ、彼は驚いたようすで足を踏み出した。

「医師を呼ぼうか」
「い、いえっ……そこまででは……」
「そうかな? ——ならば、まずは私が見てあげよう」
「えっ……」

 自然な流れで詰められた距離に、腕を取られた。空いたほうの手で、わたしの顔の輪郭りんかくをなぞるように撫で、首筋へと重ねる。脈拍をみるように——けれども、さわりと動く指先に、ぞくりと肌があわ立った。

「——じっとしていなさい」

 震える体で身をよじろうとしたが、先んじて制された。不思議な声。低いような高いような、端が掠れるせいか吐息のような音をしている。頼りない音のようなのに、妙に迫力があった。うむを言わせぬ圧が、静かに込められている。

 手は、首筋から動いた。ゆるりとい回るようなのろさで、首の後ろまで——

「ふ……とてもいい子だね?」

 笑みをこぼすような音とともに、彼の手が、ドレスのネックラインから中へと……

「——やめろ!」

 突如、耳を突いた鋭い声に体が飛び跳ね、張り付いていた手が離れた。
 とらわれたように凍りついていた頭が、はっと意識を取り戻し、わたしから彼を引き離した誰かを捉え——

(今の声は……)

 身に覚えのない、せっぱ詰まった感情。
 乱暴な命令の響きは、聞いたことがないのに——長きにわたって、わたしの耳になじむ音。

「……ルネ……?」

 ぽつりとこぼれ落ちた答えが、見知らぬ黒の仮面に向けて、わたしを護るように立ちはだかっていた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

処理中です...