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Bal masqué
Chap.4 Sec.12
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どこまで来たのか分からない。
異常なまでに広い屋敷を、誰に止められることなく端まで進んでいた。
フランソワの声を振り払って小部屋を飛び出してから、人あらざる仮面の生き物たちのあいだを抜け、頭のなかに残る光景から逃れようとしたけれども——
晒された胸もと。
ふたつの仮面の狭間で、合わさった唇。
わたし以外の肌に、手袋を外した彼の手が触れて——
——やめて。
耐えきれずに、叫んでしまっていた。
目を閉じると、涙があふれる。仮面の下の肌はすでに濡れていて、あごの下まで冷たくなっていた。隠された泣き顔に、誰も気づかない。気づくためのひともいない。たどり着いた端で逃げ込んだ部屋は、誰もいない温室だった。冬を越すための野菜が、咲き乱れる花の下で緑の葉を広げている。青い匂いが、今しがたまで世界を覆い尽くしていた香水の香りを掻き消した。
「ふ……うっ……うぅっ……」
何かを叫びたい。でも、叫ぶ気力もなく、嗚咽だけが落ちていく。あふれる涙と、締めつけるような痛みに、胸が哭く。
——愛しております。この世の誰よりも、私が、お嬢様をお慕いしております。
信じてなどいない。いなかった。いなかったのに、なぜ。
——本当に、私は、お嬢様だけを愛しく思っておりますよ。
闇色の世界で聞いたあの音が、あまりにも優しかったから。
嘘だと知っていても、〈優しいルネ〉の仮面だと分かっていても。
あの響きに、ひとかけらでも、真実があるのでは——と。
——この唇も、体も、誰にも与えるな。
彼が口にした言葉すべてから、自分に都合のいいものだけを掬い取るようにして、彼の真意を探していた。
——君は、彼の素顔を知りたい?
真実は、どうしようもないほど残酷だった。
のぞいたことを後悔しても、もう遅い。裏切りを知った心は黒く塗りつぶされていく。開かれたパンドラの箱のように、あふれ出した悪いものが、彼への無垢な恋心を殺していく。
——約束いたします。私はお嬢様を決して裏切りません。兄にはなれなくとも、お嬢様を護る騎士となりましょう。
あんなものは、始めから嘘だった。
開かれた箱の底に、希望などない。もう何も、信じられない——。
かちゃり、と。
絶望に染まる頭に、温室のドアノブが音を立てた。
ばっと、うつむいていた顔を上げた先に見えた髪が——記憶に結びついた気がしたけれど、違った。撫でつけられたダークブロンドの髪の下、黒の仮面に隠されていても歳を感じる肌が、記憶から離れていった。
いくぶん歳のいっている男が、開かれたドアのところに立っていた。
「おや……ここは今日、入室禁止だが……?」
セリフに、やはり記憶と繋がるものがあるが、誰か分からない。40代だろうかと思うが、その世代との交流はほとんど身内になる。しかし、思いつくひとはいない。
「……すみません、失礼いたしました」
謝罪して横をすり抜けようとしたが、彼はひらりと伸ばした腕で出口を塞いだ。
「……あの……?」
「——泣いているね?」
見上げた顔をのぞき込むように、黒の仮面が傾いた。言葉じりの掠れるような声が、耳のそばに寄る。出口を塞いだのとは反対の手で、ためらいなくわたしの顎に触れ、
「こんなに濡れて……どうしたのかな?」
塞いでいた手は、外される。その手はポケットを探り、ハンカチを手にわたしの顔へと。
流麗な動きで添えられた柔らかさに、反応が遅れてぼうぜんとしてしまってから、
「お気遣いなく……」
戸惑いに、たしょう失礼な勢いで離れていた。見知らぬ男性とこんな近さで話すことはない。わたしが未婚の娘であるかなど、彼は知らないのだろうけれど……それでも、距離が近すぎた。
わたしが下がったため、ハンカチを持つ手が宙で居場所なく止まっている。わたしの反応を不快に思わなかったのか、彼の唇は微笑んでいた。
「——失礼、驚かせたようだね?」
「いえ……こちらこそ、失礼な態度を……温室への入室も、申し訳ありません……」
「いや、構わない。ここに駆け込む貴女を見かけて、気になったのでね……何かお困りごとかな?」
「……大したことでは、ありません。すこし、体調が……すぐれなくて……」
「——ほう? それは心配だ」
本当のことなど言えるはずもなく、しどろもどろで出まかせを口にしたところ、彼は驚いたようすで足を踏み出した。
「医師を呼ぼうか」
「い、いえっ……そこまででは……」
「そうかな? ——ならば、まずは私が見てあげよう」
「えっ……」
自然な流れで詰められた距離に、腕を取られた。空いたほうの手で、わたしの顔の輪郭をなぞるように撫で、首筋へと重ねる。脈拍をみるように——けれども、さわりと動く指先に、ぞくりと肌が粟立った。
「——じっとしていなさい」
震える体で身をよじろうとしたが、先んじて制された。不思議な声。低いような高いような、端が掠れるせいか吐息のような音をしている。頼りない音のようなのに、妙に迫力があった。うむを言わせぬ圧が、静かに込められている。
手は、首筋から動いた。ゆるりと這い回るような鈍さで、首の後ろまで——
「ふ……とてもいい子だね?」
笑みをこぼすような音とともに、彼の手が、ドレスのネックラインから中へと……
「——やめろ!」
突如、耳を突いた鋭い声に体が飛び跳ね、張り付いていた手が離れた。
囚われたように凍りついていた頭が、はっと意識を取り戻し、わたしから彼を引き離した誰かを捉え——
(今の声は……)
身に覚えのない、せっぱ詰まった感情。
乱暴な命令の響きは、聞いたことがないのに——長きにわたって、わたしの耳になじむ音。
「……ルネ……?」
ぽつりとこぼれ落ちた答えが、見知らぬ黒の仮面に向けて、わたしを護るように立ちはだかっていた。
異常なまでに広い屋敷を、誰に止められることなく端まで進んでいた。
フランソワの声を振り払って小部屋を飛び出してから、人あらざる仮面の生き物たちのあいだを抜け、頭のなかに残る光景から逃れようとしたけれども——
晒された胸もと。
ふたつの仮面の狭間で、合わさった唇。
わたし以外の肌に、手袋を外した彼の手が触れて——
——やめて。
耐えきれずに、叫んでしまっていた。
目を閉じると、涙があふれる。仮面の下の肌はすでに濡れていて、あごの下まで冷たくなっていた。隠された泣き顔に、誰も気づかない。気づくためのひともいない。たどり着いた端で逃げ込んだ部屋は、誰もいない温室だった。冬を越すための野菜が、咲き乱れる花の下で緑の葉を広げている。青い匂いが、今しがたまで世界を覆い尽くしていた香水の香りを掻き消した。
「ふ……うっ……うぅっ……」
何かを叫びたい。でも、叫ぶ気力もなく、嗚咽だけが落ちていく。あふれる涙と、締めつけるような痛みに、胸が哭く。
——愛しております。この世の誰よりも、私が、お嬢様をお慕いしております。
信じてなどいない。いなかった。いなかったのに、なぜ。
——本当に、私は、お嬢様だけを愛しく思っておりますよ。
闇色の世界で聞いたあの音が、あまりにも優しかったから。
嘘だと知っていても、〈優しいルネ〉の仮面だと分かっていても。
あの響きに、ひとかけらでも、真実があるのでは——と。
——この唇も、体も、誰にも与えるな。
彼が口にした言葉すべてから、自分に都合のいいものだけを掬い取るようにして、彼の真意を探していた。
——君は、彼の素顔を知りたい?
真実は、どうしようもないほど残酷だった。
のぞいたことを後悔しても、もう遅い。裏切りを知った心は黒く塗りつぶされていく。開かれたパンドラの箱のように、あふれ出した悪いものが、彼への無垢な恋心を殺していく。
——約束いたします。私はお嬢様を決して裏切りません。兄にはなれなくとも、お嬢様を護る騎士となりましょう。
あんなものは、始めから嘘だった。
開かれた箱の底に、希望などない。もう何も、信じられない——。
かちゃり、と。
絶望に染まる頭に、温室のドアノブが音を立てた。
ばっと、うつむいていた顔を上げた先に見えた髪が——記憶に結びついた気がしたけれど、違った。撫でつけられたダークブロンドの髪の下、黒の仮面に隠されていても歳を感じる肌が、記憶から離れていった。
いくぶん歳のいっている男が、開かれたドアのところに立っていた。
「おや……ここは今日、入室禁止だが……?」
セリフに、やはり記憶と繋がるものがあるが、誰か分からない。40代だろうかと思うが、その世代との交流はほとんど身内になる。しかし、思いつくひとはいない。
「……すみません、失礼いたしました」
謝罪して横をすり抜けようとしたが、彼はひらりと伸ばした腕で出口を塞いだ。
「……あの……?」
「——泣いているね?」
見上げた顔をのぞき込むように、黒の仮面が傾いた。言葉じりの掠れるような声が、耳のそばに寄る。出口を塞いだのとは反対の手で、ためらいなくわたしの顎に触れ、
「こんなに濡れて……どうしたのかな?」
塞いでいた手は、外される。その手はポケットを探り、ハンカチを手にわたしの顔へと。
流麗な動きで添えられた柔らかさに、反応が遅れてぼうぜんとしてしまってから、
「お気遣いなく……」
戸惑いに、たしょう失礼な勢いで離れていた。見知らぬ男性とこんな近さで話すことはない。わたしが未婚の娘であるかなど、彼は知らないのだろうけれど……それでも、距離が近すぎた。
わたしが下がったため、ハンカチを持つ手が宙で居場所なく止まっている。わたしの反応を不快に思わなかったのか、彼の唇は微笑んでいた。
「——失礼、驚かせたようだね?」
「いえ……こちらこそ、失礼な態度を……温室への入室も、申し訳ありません……」
「いや、構わない。ここに駆け込む貴女を見かけて、気になったのでね……何かお困りごとかな?」
「……大したことでは、ありません。すこし、体調が……すぐれなくて……」
「——ほう? それは心配だ」
本当のことなど言えるはずもなく、しどろもどろで出まかせを口にしたところ、彼は驚いたようすで足を踏み出した。
「医師を呼ぼうか」
「い、いえっ……そこまででは……」
「そうかな? ——ならば、まずは私が見てあげよう」
「えっ……」
自然な流れで詰められた距離に、腕を取られた。空いたほうの手で、わたしの顔の輪郭をなぞるように撫で、首筋へと重ねる。脈拍をみるように——けれども、さわりと動く指先に、ぞくりと肌が粟立った。
「——じっとしていなさい」
震える体で身をよじろうとしたが、先んじて制された。不思議な声。低いような高いような、端が掠れるせいか吐息のような音をしている。頼りない音のようなのに、妙に迫力があった。うむを言わせぬ圧が、静かに込められている。
手は、首筋から動いた。ゆるりと這い回るような鈍さで、首の後ろまで——
「ふ……とてもいい子だね?」
笑みをこぼすような音とともに、彼の手が、ドレスのネックラインから中へと……
「——やめろ!」
突如、耳を突いた鋭い声に体が飛び跳ね、張り付いていた手が離れた。
囚われたように凍りついていた頭が、はっと意識を取り戻し、わたしから彼を引き離した誰かを捉え——
(今の声は……)
身に覚えのない、せっぱ詰まった感情。
乱暴な命令の響きは、聞いたことがないのに——長きにわたって、わたしの耳になじむ音。
「……ルネ……?」
ぽつりとこぼれ落ちた答えが、見知らぬ黒の仮面に向けて、わたしを護るように立ちはだかっていた。
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