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Bal masqué

Chap.4 Sec.11

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——あなた、うちへいらっしゃい。

 世にデュポン夫人の名で知られる女は、オペラ座で初対面のルネに、なんの脈絡なくそう告げた。
 面らうルネが当たりさわりなく応えるのに対しても、ふふふと柔らかく笑って動じることなく、み合わない勧誘を続けた。

——欲しいものはなんでもあげるわよ?
——欲しいものなどございません。
——あら、無欲なのね?
——わたくしの人生は、すべてお嬢様に捧げております。
——そう、それは敬虔けいけんな使用人だこと。……でもあなた、〈黄金のろば〉なのよね?
——……それが、なんでございましょう?
——何と言うほどのことではないわ。ただね、私はあそこに出資しているのよ? ご存知かしら、と思ってね。

 意味深い微笑みを浮かべる女の誘いに乗って、わざわざリスクの高い仮面舞踏会バル・マスケへと参加せざるを得なくなったのは、ひとえにルネの捜し物が〈黄金のろば〉に関わっているからであった。

 ——どうしても、が要る。
 手を尽くしてみたが、ルネの育った〈黄金のろば〉と呼ばれるの防犯は堅く、雇った人間は誰ひとり望む物を手に入れられなかった。もっと上の人間でなければならない。ルネが欲しい物は、正確には孤児院の中ではなく、裏の経営者が保管しているはず。その経営者も情報が隠されていて特定しきれていない。資金を提供している者たちが組織となって裏にいるのだろうが、確たる証拠はない。最終手段として、目星をつけた貴族に脅しをかけるかと——目論もくろんでいた矢先に、出資者だと名乗る女が現れた。
 都合がよすぎると、ルネも理解している。しかし、わなだとしても——この機会をのがすわけにはいかない。失うものなど無い。ふところに入ってしまえば、どうとでもできる。

——どこにも行くつもりはございません。お嬢様のそばにります。

 そんな口約束は、守ってられない。



「——こんばんは、ルネくん」

 別室で待機していたルネは、しばらくして呼び出されていた。連れてこられたのは、客間らしき部屋だった。赤いサテンの布を張った長ソファの上で、女はワインを飲んでいた。使用人はただの一人もいない。顔の大半はきらびやかな仮面に覆われ、残された肌のとがったあごをツンと持ち上げると、夫人は笑ってみせた。
 向かい合うルネもまた、指示どおり仮面を着けている。

「招待を受けてくれたということは、うちに来る気になったのかしら?」
「……いえ、まだ決めかねております」
「あら、そう?」
「報酬がはっきり致しませんことには、なんとも……」
「それはあなたが決めていいのよ?」

 透かし彫りのグラスが空になり、サイドテーブルに置かれたボトルを、夫人は手ずから取って中身を足していく。ラベルエチケットは、二匹の蝶。互いを追い求めながら舞うような幻想的な絵には、こぼれたワインが赤黒くみを作っている。
 夫人は短い黒髪を揺らして、吐息の笑みを鳴らした。

「ふふふ……正直に言うとね? あなたが欲しい物が何かなんて、私は知らないのよ。ただ——ここ最近、ちょろちょろしているネズミがいると、報告は受けていたの。始末しましょうか、なんてと話していたら……愛しい甥っ子が、ネズミのしっぽを捕まえて『見て見て』と掲げるものだから……芸ができるなら、飼ってみようかしら——と」

 くるりと回したグラスのふちに浅く唇を重ねて、緋色のワインにくちづける。仮面の奥の瞳は、絶えずルネを捕らえている。
 離れた唇が、濡れた赤をまとった。

「——好奇心ね。可愛い子はたくさんいるから、毛色の違う子が欲しくなったの」

 セリフとは裏腹に無邪気な笑顔を作ったのだろうが、仮面に覆われるせいでひどくいびつだった。にっこりとした唇に、ルネは淡白な声を返した。

「……さようでございますか」
「期待はずれかしら? ……でも、あなたの欲しい物は、私が近道ね?〈黄金のろば〉から何が欲しいの? ひと? 情報?」

 話していいものかどうか。
 判断つかないが、話さないことには得られるのかどうかも分からない。

わたくしの欲しい物は……しちでございます」
「あら、そんな物でいいの?」
「……そのお言葉は、容易に手に入ると捉えてもよろしいでしょうか?」
「ええ、そうね。その質が、あなたが〈黄金のろば〉へと入るために差し出した物を指すのなら……そう難しいことではないもの」
「………………」
「うちに来ると約束するなら、捜してあげましょう。持っているひとが誰であれ、あなたのもとに返ってくるよう私が交渉してあげるわ」
「……ありがたく存じます」
「——じゃあ、次はこちらの番ね?」

 仮面の下で、ルネは眉をひそめた。交渉は成立したかと思えたのに、にこやかに笑う夫人はさもたのしげに小首をかしげ、

「面接を致しましょうか。あなたの価値を見せてもらわないことには、雇えないものね?」
「……なんでも演奏いたしますが、私の演奏はそれほど素晴らしいものではございませんよ」

 試しに軽くいなしてみるが、好奇心にあふれる瞳がこちらを放すことはない。ルネはため息をついた。

「——あなたを抱けと?」
「あら、そちらが素顔なの? いいわね、とっても新鮮だわ」

 ふふふふふ。酔いの混じった笑い方を見下しつつ、ルネは夫人のそばまで近寄った。手袋を外しながら、表面的な敬意で声をかける。

「では、ご奉仕いたしましょう。ただし、先にくちづけを頂きますよ」
「キスをしてほしいの?」
「いえ、そうではなく……どこでも構いませんが、私の体に跡を残していただきます。後になって、私が無理に姦淫を犯したなどと訴えられては困りますので。何か問題が起こりましたら、夫人が私を襲ったと弁明させていただきます」
「まあ! キスマークひとつで私を脅すの!」

 何が面白いのか分からない。くつくつと喉を鳴らして笑う夫人は、ルネの理解の範疇はんちゅうをこえている。本来ならば関わりたくはないが、この程度で済むなら条件は悪くない。さっさと片付けてしまおうか。

 燕尾服テールコートだけ脱ぎ去り、別の一人掛けソファの背に乗せた。シャツのボタンを外してさらけ出した首の根に、女がり寄る。

「目立つところは避けていただきたいのですが?」
「わがままな子ね」
「よその家にお仕えする身でございますから」
「——今はまだ、ね」
「………………」

 吸いつく唇の感触を意識の外にして、時間の経過を考えていた。舞踏会——といっても通常と違ってダンスがメインではない。仮面を身につけての交流に重きがおかれる社交の場——が始まるまで、あとどれぐらいか。与えられた約束を守ってが大人しくしているとしても、小犬が絡まってくる可能性はある。必要な物がそろうまでは、婚姻を先延ばししておかなくてはならない。

 はやる気持ちから、わずかに乱暴な強さで夫人をソファに押し倒していた。しかし、夫人はルネの下で笑っている。すべてが新鮮で愉しいのだろう。自分を望まない男に抱かれることも、見下されることも。くるった女だな——とあきれていた。

「仮面はいかがいたしますか」
「せっかくだもの……このままで」

 唇を合わせる。ぶつかる仮面がうっとうしいが、顔が見えないメリットがある。この仮面の下にいるのが誰か、頭に入れずに済む。
 ワインの味が残る舌をからめ捕ろうとして、舌先を——

「やめてっ……」

 ガラスをたたく音に重ねて、ルネの耳にの泣き叫ぶような声が届いた。
 とっさに唇を離して顔を上げる。少し遠くから聞こえたかのような隔たりのあった声に、何かあったのかと危機感から反応したが——音源だと思われた右手の窓の外は暗く、何も見えない。なぜ外から彼女の声がしたのか——外?
 ルネの頭に、ここまで歩いた廊下とドアの並びが浮かびあがる。その壁は、外に面していただろうか。そちら側は、建物の内部になるのではないか?

 理解した瞬間、腕の下の女に目を向けていた。クスクスと笑う唇が、あやしく曲がっている。

「——俺をめたな?」
「これくらいしないと、あのお嬢さんはあなたを手放さないでしょう? 私も、報酬だけ持ち逃げされたら困るのよね……?」

 ルネの意図を読み透かした答えに、その体を拒むように立ち上がっていた。ソファの服を取り、流れるような動きで手を通す。迷いなく出て行こうとするルネに、背後から夫人が声をかけた。

「——どこへ行くの? あなたが欲しい物は、そちらでは手に入らないわよ?」

 ぴたりと、ルネの足が止まる。振り返る仮面の下、薄い色の眼を、夫人は眺めている。

「私はね、約束は破らないの。こう見えて義理堅い人間なのよ? ……だから、あなたが本当にこちらに来るなら、望む物をちゃんと手に入れてあげる」

 白い腕を、ルネへと伸ばして、

「面接は一度しかしないわ。さあ——こちらにいらっしゃい?」

 差し出された手が、たおやかにルネを招いていた。
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