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Bal masqué
Chap.4 Sec.3
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タイミングを見計らっていた父が娘に話を切りだすよりも、彼が動くほうが早かった。
クール家の令嬢であるエレアノールと、タレラン=ペリゴール家のフィリップは、奇しくも彼女の屋敷にて再会していた。
「………………」
「………………」
挨拶が交わされるべきであるというのに、互いに無言。
エレアノールは吊り上がった目で彼を見据えており、フィリップのほうは(なんか知ってるな? 誰だ?)記憶をさらっている。一方がすぐに思い出したのに対し、もう一方は思い出せない。母数の差ではなく、印象の差だと思われる。
そんな二人の中央で、彼女は困惑していた。訪問がかち合うことは間々あるが、こんなにも気まずい遭遇は今までにない。いちおう互いを紹介してみたが、彼女の説明はそこまで意味をなさなかった。エレアノールは相手を知っているし、フィリップは名前を聞いてもピンときていない。
ともあれ、先に口を開いたのはエレアノールだった。怒りの表情をきれいに収め、よそいきの声音で、
「初めまして、タレラン様」
にこりと笑ってみせる顔は、どこかルネに似ている。寒気を覚えつつ彼女はそんな感想をいだいた。
「ああ……初めまして(?)、クール嬢」
「あらやだわ、エレアノールと呼んでくださいな。今後は長いお付き合いになるかもしれませんものねっ?(噂の婚姻が成立したらの話だけど!)」
「(婚姻を認めてくれてる……?)だったら、こちらも名前で構わない」
「そぉ? では、よろしくフィリップ様」
「よろしく、エレアノール嬢」
交わされる会話はどこからか雷が差している気がするのだが、フィリップは平然としているので、あいだの彼女は口を閉ざしていた。
「——ところで、フィリップ様はこちらになんの用ですの? あたくし、彼女と楽しくお話をしていたのですけれども」
「ああ! そうだ、オペラに誘いに来たんだ。今夜、一緒に連れてってやるよ」
彼女を振り返ったフィリップの顔は明るく、断られると思っていないようす。エレアノールだけが胸中で小さく怒った。
フィリップに目を返す彼女は眉をきゅっと近寄らせて、
「困るわ……今夜はエレアノールがいるのよ」
「なら、エレアノール嬢も」
おまけのように付け加えられ、エレアノールの笑顔の仮面に、ひびが。
「わざわざ誘っていただかなくても、我が家にも契約の席はありますから……」
「どの席だ? 今夜はそこと違うとこに連れてく。契約は2階のボックス席で一番近いところだけど……好きなとこで見せてやるよ。どこがいい?」
「まぁ! ステージの2階席は初めてだわ!」
ぱっと表情を変えたエレアノールに、思わず、
「ちょっと、ネリー!」
「あら、なぁに?」
「オペラなんて今日は行かないでしょ?」
「いいえ、行きたいわ」
迷いのない返答に、返す言葉が出てこない。話が違う。先ほど婚約(もどき)のいきさつを話したときには、
——あんなひと! ぜったい良くないわ!
アンチフィリップを掲げて怒っていたというのに。変わり身のなんて早いことか。
誘いに乗る気たっぷりのエレアノールに、フィリップも機嫌よく笑った。
「俺の友人も来るから、エレアノール嬢はそいつと見たらいいんじゃないか?」
「ご友人?」
「フランソワ・ダンジュー」
「まぁ! ダンジュー家の!」
「いいやつだぞ。仲良くしてやってくれ」
「こちらこそ!」
裏切りとは、こういうことを言う。じっとりとした目で見つめているのに、エレアノールは気づいてすらくれない。目がすでにハートになってきている。だめだ、エレアノールはすでにあちら側についた。
「タレラン様、困るわ……」
「なんでだ? ……というか、あんたもフィリップでいい」
「……いえ、タレラン様で」
「家名はあまり好きじゃない。名前で呼んでくれよ」
「……フィリップ様」
満足げに笑う顔が幼い。
今日はどうもおかしい。以前まであった険悪な空気がなく、親しみが強かった。そんなに仲良くなった覚えはこちらにないのだが……
——何があっても、最期まで一緒にいてやる。
あの言葉は、胸に残っているけれども。
本気にはしていない。
「今やってる『アラジン』はもう見たか? 」
ニコラ・イズアール作の『アラジン、または魔法のランプ』は、先日上演が始まったところで、まだ見ていない。エレアノールも同じらしい。
「俺はけっこう好きだった。あんたも気に入ると思うぞ。……行くだろ?」
言葉の最後だけ、彼はすこし瞳に不安をのせた。断られるのだろうか。そんな心配を映す目は、エレアノールの(行きましょう? ねぇ、いいでしょう?)うるうるとした瞳と並ぶと、まるで二匹の小犬。
黙って返事を待つ二人に、根負けして、
「…………そうね」
「よし、行こう!」
「うれしい!」
承諾に喜ぶ二人の背後に、おそろいの尻尾が見えた気がした。
ため息がこぼれそうになるのを我慢していると、フィリップがふと思い出したように、近くで控えていたルネを振り返った。フィリップをこの部屋まで連れてきたのはルネだったが、彼は気配なく静かにしていた。
「おい、あんたも来るんだろ?」
下げられていた目線が、フィリップへと上がる。そこには人形のような安定した笑みが彫られている。
「——はい、お嬢様の行かれる先には、いつでもお供いたします」
「だろうな。あんたも連れてってやるつもりだから……用意しといてくれ」
「……かしこまりました」
作り物のような微笑に、フィリップは観察するような目をしばらく向けていたが、エレアノールに話しかけられ中断した。
「フィリップ様、ひとつお聞きしたいのですけれども……」
「なんだ?」
「あたくしのこと、まっったく覚えてらっしゃらない、ということで、よろしいのですよね?」
「——え?」
きょとりとした二つの黒に、エレアノールは、ただにっこりと笑い返した。
「あら、ごめんなさい、なんでもないんですの。あたくしの勘違いでしたわ。——そんなことより、座って『アラジン』の見どころでも教えてくださいな」
いまだ立ったままでいることに気づき、フィリップとエレアノールがソファへと移る。
ひとり遅れた彼女だけは、そろりとルネに目を流し——微笑みに見つめ返されて、戸惑うように目を外していた。
見つめられると、体に残る熱が、呼応する。
——愛しております。
甘い残響が、耳鳴りのように響いていた。
クール家の令嬢であるエレアノールと、タレラン=ペリゴール家のフィリップは、奇しくも彼女の屋敷にて再会していた。
「………………」
「………………」
挨拶が交わされるべきであるというのに、互いに無言。
エレアノールは吊り上がった目で彼を見据えており、フィリップのほうは(なんか知ってるな? 誰だ?)記憶をさらっている。一方がすぐに思い出したのに対し、もう一方は思い出せない。母数の差ではなく、印象の差だと思われる。
そんな二人の中央で、彼女は困惑していた。訪問がかち合うことは間々あるが、こんなにも気まずい遭遇は今までにない。いちおう互いを紹介してみたが、彼女の説明はそこまで意味をなさなかった。エレアノールは相手を知っているし、フィリップは名前を聞いてもピンときていない。
ともあれ、先に口を開いたのはエレアノールだった。怒りの表情をきれいに収め、よそいきの声音で、
「初めまして、タレラン様」
にこりと笑ってみせる顔は、どこかルネに似ている。寒気を覚えつつ彼女はそんな感想をいだいた。
「ああ……初めまして(?)、クール嬢」
「あらやだわ、エレアノールと呼んでくださいな。今後は長いお付き合いになるかもしれませんものねっ?(噂の婚姻が成立したらの話だけど!)」
「(婚姻を認めてくれてる……?)だったら、こちらも名前で構わない」
「そぉ? では、よろしくフィリップ様」
「よろしく、エレアノール嬢」
交わされる会話はどこからか雷が差している気がするのだが、フィリップは平然としているので、あいだの彼女は口を閉ざしていた。
「——ところで、フィリップ様はこちらになんの用ですの? あたくし、彼女と楽しくお話をしていたのですけれども」
「ああ! そうだ、オペラに誘いに来たんだ。今夜、一緒に連れてってやるよ」
彼女を振り返ったフィリップの顔は明るく、断られると思っていないようす。エレアノールだけが胸中で小さく怒った。
フィリップに目を返す彼女は眉をきゅっと近寄らせて、
「困るわ……今夜はエレアノールがいるのよ」
「なら、エレアノール嬢も」
おまけのように付け加えられ、エレアノールの笑顔の仮面に、ひびが。
「わざわざ誘っていただかなくても、我が家にも契約の席はありますから……」
「どの席だ? 今夜はそこと違うとこに連れてく。契約は2階のボックス席で一番近いところだけど……好きなとこで見せてやるよ。どこがいい?」
「まぁ! ステージの2階席は初めてだわ!」
ぱっと表情を変えたエレアノールに、思わず、
「ちょっと、ネリー!」
「あら、なぁに?」
「オペラなんて今日は行かないでしょ?」
「いいえ、行きたいわ」
迷いのない返答に、返す言葉が出てこない。話が違う。先ほど婚約(もどき)のいきさつを話したときには、
——あんなひと! ぜったい良くないわ!
アンチフィリップを掲げて怒っていたというのに。変わり身のなんて早いことか。
誘いに乗る気たっぷりのエレアノールに、フィリップも機嫌よく笑った。
「俺の友人も来るから、エレアノール嬢はそいつと見たらいいんじゃないか?」
「ご友人?」
「フランソワ・ダンジュー」
「まぁ! ダンジュー家の!」
「いいやつだぞ。仲良くしてやってくれ」
「こちらこそ!」
裏切りとは、こういうことを言う。じっとりとした目で見つめているのに、エレアノールは気づいてすらくれない。目がすでにハートになってきている。だめだ、エレアノールはすでにあちら側についた。
「タレラン様、困るわ……」
「なんでだ? ……というか、あんたもフィリップでいい」
「……いえ、タレラン様で」
「家名はあまり好きじゃない。名前で呼んでくれよ」
「……フィリップ様」
満足げに笑う顔が幼い。
今日はどうもおかしい。以前まであった険悪な空気がなく、親しみが強かった。そんなに仲良くなった覚えはこちらにないのだが……
——何があっても、最期まで一緒にいてやる。
あの言葉は、胸に残っているけれども。
本気にはしていない。
「今やってる『アラジン』はもう見たか? 」
ニコラ・イズアール作の『アラジン、または魔法のランプ』は、先日上演が始まったところで、まだ見ていない。エレアノールも同じらしい。
「俺はけっこう好きだった。あんたも気に入ると思うぞ。……行くだろ?」
言葉の最後だけ、彼はすこし瞳に不安をのせた。断られるのだろうか。そんな心配を映す目は、エレアノールの(行きましょう? ねぇ、いいでしょう?)うるうるとした瞳と並ぶと、まるで二匹の小犬。
黙って返事を待つ二人に、根負けして、
「…………そうね」
「よし、行こう!」
「うれしい!」
承諾に喜ぶ二人の背後に、おそろいの尻尾が見えた気がした。
ため息がこぼれそうになるのを我慢していると、フィリップがふと思い出したように、近くで控えていたルネを振り返った。フィリップをこの部屋まで連れてきたのはルネだったが、彼は気配なく静かにしていた。
「おい、あんたも来るんだろ?」
下げられていた目線が、フィリップへと上がる。そこには人形のような安定した笑みが彫られている。
「——はい、お嬢様の行かれる先には、いつでもお供いたします」
「だろうな。あんたも連れてってやるつもりだから……用意しといてくれ」
「……かしこまりました」
作り物のような微笑に、フィリップは観察するような目をしばらく向けていたが、エレアノールに話しかけられ中断した。
「フィリップ様、ひとつお聞きしたいのですけれども……」
「なんだ?」
「あたくしのこと、まっったく覚えてらっしゃらない、ということで、よろしいのですよね?」
「——え?」
きょとりとした二つの黒に、エレアノールは、ただにっこりと笑い返した。
「あら、ごめんなさい、なんでもないんですの。あたくしの勘違いでしたわ。——そんなことより、座って『アラジン』の見どころでも教えてくださいな」
いまだ立ったままでいることに気づき、フィリップとエレアノールがソファへと移る。
ひとり遅れた彼女だけは、そろりとルネに目を流し——微笑みに見つめ返されて、戸惑うように目を外していた。
見つめられると、体に残る熱が、呼応する。
——愛しております。
甘い残響が、耳鳴りのように響いていた。
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