上 下
27 / 72
小犬のワルツ

Chap.3 Sec.9

しおりを挟む
 すこし前までは、馬車の時間は特別だった。狭い空間で、ルネと二人きりで、誰にも邪魔されない時間。その時間のために社交の場へ赴いていると言ってもいいくらい、待ち遠しく大切な時間だった。
 それが、今では——
 重く緊張の走る時間になっている。


「……今日は、巻き込んで……ごめんなさい」

 馬車が鳴らすカコカコとした音にまぎらわせて、そろりと唱えた。
 美食会は無事に終わっていた。
 タレラン夫人は、あふれんばかりの笑顔で別れの挨拶をくれて、

——可愛いお嬢さん! あんなに美味しそうに食べる子は初めてよ。ぜひまたいらしてちょうだい!

 熱い抱擁ほうようまでくれた。フィリップは対照的に大人しく、シンプルに一言。

——またな。

 フィリップの父であるタレラン氏は、急な仕事で間に合わず、最後まで会うことはなかった。
 大きな問題なく終わった美食会であったが、馬車に乗り合わせたルネはひどく静かで、ピアノのことを怒っているのかもしれないと思い、わたしのほうから謝罪を口にしていた。
 窓の外に向けられていた薄い色の眼が、わたしに向く。感情の見えない顔は、うっすらと笑みをまとった。

「いいえ、お役に立てて光栄でございます」
「……ほんとう?」
「はい。ダンジュー様にお褒めいただき、わたくしの未熟な演奏が、ご関係に悪影響を及ぼさずに済んだことは、本当にありがたいことでございます」
「……それは……あなたの、本心から言っているの……?」
「………………」

 微笑みは、ゆっくりとあやしさを帯びる。

「——何が、訊きたいのでございましょう?」

 馬車の外にともるランプの火が、ゆらりと瞳のなかで揺らめいた。
 冷たい感覚が背を撫でる。言葉を返せずに黙すると、彼は微笑みを崩すことなく言葉を繋げた。

「タレラン様とは、随分と近しい距離でお話をなさっていましたね」
「……そうでもないわ。隣だったから、そう見えただけよ」
「いつものように、冷たくあしらわれるのかと思っておりましたので」
「……そんなに悪いひとでもなかったの」

 クスリ、と。不敬な音が落ちる。

容易たやすく触れようとする、あの男が——お好みでございますか?」

 不敬どころか、馬鹿にしたようなセリフを、穏やかな声色に包んだ。
 悪意のとげが、チクリと頭を刺す。

「……違うわ」
「若者は、えておりますからね」
「——やめて。別にあのひと、何も思ってなかったのよ。そんなつもりで触ろうとしたわけじゃないの」
「そんなつもり——とは?」
「……わたしを、女性として見ていないのよ。女じゃないと言っていたもの」
「——お嬢様」

 クツクツと喉が鳴るような笑い方のあと、彼は口を開いた。

「それは、あまりにも無知と言わざるを得ませんね……彼は、お嬢様ばかりを見ておりましたよ? 女性に向けるものとして、熱心な視線を注いでおりました」
「……嘘よ」
「そう思われるなら構いませんが……くれぐれも、お気をつけくださいませ。あの手のやからは、一度手に入れば飽きるものです。追うことがたのしいのでございますよ」
「…………婚姻が済めば、どうでもよくなると言うの」
「——いいえ、婚姻というよりも……抱いてしまえば興味が尽きる、というお話でございます」

 子供向けの物語みたいに、ルネはゆっくりと諭してみせた。よくあるお話でございますよ、と。締めくくりの言葉までもつけて、他人事ひとごとの響きを返した。
 沈黙が降りる。速度のある馬車の音は、大きく細かい。規則正しく刻まれる音のなかで、ぽつりと訴えるように言葉がもれた。

「……だから、ルネも、わたしに冷たいの」

 問いかけのかたちで、でも、尋ねるわけではなく。感情を言い知らせるためだけに発せられた言葉に、ルネは一時、思考を止めていた。
 なんと言われたのか——フィリップについて話していたはずが、急激な進路変更をした訓戒が、ルネのもとへと跳ね返っていた。しっとりと見つめる彼女の瞳は、複雑な色をしている。怒っているような、あきれているような、悲しんでいるような。

「……私の話ではございませんよ」
「若者は、飢えていると言ったわ」
「……あなた方の歳の者たちを指しております」
「すこし上なだけで、大きくは変わらないでしょう。あなただって若者に分類されるわ」
「……さようでございますね」
「いちど手に入ったら、もう要らない。追いかけることが愉しい……そういうことなの」
「——いいえ」

 強く、短い否定が、馬のひづめの音にまさった。
 いきなり出された明瞭めいりょうな音に、びくりとして口を止める。口調は〈優しいルネ〉だったが、音は——

「……失礼いたしました」

 驚かせたことを謝ったのか、それとも話の流れによる謝罪なのか。
 そのあとに続く言葉が、前者であると告げた。

「私を……あの者と同程度に見なされるのは……おやめください。私がお嬢様に捧げてきた時間は、比べものにならないと……自負しておりますので」

 弁明のセリフは、静かに紡がれた。執事として、〈優しいルネ〉として。建前でしかないような響きを取り戻していた。
 しばらくの沈黙のあと、小さく言葉を返す。

「……あなたが、何を考えて、何を企んでいるのか……分からないけれど……あなたの献身は、はじめから、仕事だわ。……タレラン様が、あなたの言うように、ほんとうにわたしを想ってくれているなら……それが一瞬の愛であっても、そちらのほうを……わたしは望むわ」
「………………」

 ルネは、もう何も言わなかった。
 ひづめの打ち鳴らす音だけが、絶えまない責め苦のように響いている。
 永遠の時を、刻むように。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寵愛の檻

枳 雨那
恋愛
《R18作品のため、18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。》 ――監禁、ヤンデレ、性的支配……バッドエンドは回避できる?  胡蝶(こちょう)、朧(おぼろ)、千里(せんり)の3人は幼い頃から仲の良い3人組。胡蝶は昔から千里に想いを寄せ、大学生になった今、思い切って告白しようとしていた。  しかし、そのことを朧に相談した矢先、突然監禁され、性的支配までされてしまう。優しくシャイだった朧の豹変に、翻弄されながらも彼を理解しようとする胡蝶。だんだんほだされていくようになる。  一方、胡蝶と朧の様子がおかしいと気付いた千里は、胡蝶を救うために動き出す。 *表紙イラストはまっする(仮)様よりお借りしております。

母の日 母にカンシャを

れん
恋愛
母の日、普段は恥ずかしくて言えない、日ごろの感謝の気持ちを込めて花束を贈ったら……まさか、こうなるとは思わなかった。 ※時事ネタ思いつき作品です。 ノクターンからの転載。全9話。 性描写、近親相姦描写(母×子)を含みます。 苦手な方はご注意ください。 表紙は画像生成AIで出力しました

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

【R18】隣のデスクの歳下後輩君にオカズに使われているらしいので、望み通りにシてあげました。

雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向け33位、人気ランキング146位達成※隣のデスクに座る陰キャの歳下後輩君から、ある日私の卑猥なアイコラ画像を誤送信されてしまい!?彼にオカズに使われていると知り満更でもない私は彼を部屋に招き入れてお望み通りの行為をする事に…。強気な先輩ちゃん×弱気な後輩くん。でもエッチな下着を身に付けて恥ずかしくなった私は、彼に攻められてすっかり形成逆転されてしまう。 ——全話ほぼ濡れ場で小難しいストーリーの設定などが無いのでストレス無く集中できます(はしがき・あとがきは含まない) ※完結直後のものです。

【完結】Mにされた女はドS上司セックスに翻弄される

Lynx🐈‍⬛
恋愛
OLの小山内羽美は26歳の平凡な女だった。恋愛も多くはないが人並に経験を重ね、そろそろ落ち着きたいと思い始めた頃、支社から異動して来た森本律也と出会った。 律也は、支社での営業成績が良く、本社勤務に抜擢され係長として赴任して来た期待された逸材だった。そんな将来性のある律也を狙うOLは後を絶たない。羽美もその律也へ思いを寄せていたのだが………。 ✱♡はHシーンです。 ✱続編とは違いますが(主人公変わるので)、次回作にこの話のキャラ達を出す予定です。 ✱これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

処理中です...