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小犬のワルツ
Chap.3 Sec.9
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すこし前までは、馬車の時間は特別だった。狭い空間で、ルネと二人きりで、誰にも邪魔されない時間。その時間のために社交の場へ赴いていると言ってもいいくらい、待ち遠しく大切な時間だった。
それが、今では——
重く緊張の走る時間になっている。
「……今日は、巻き込んで……ごめんなさい」
馬車が鳴らすカコカコとした音にまぎらわせて、そろりと唱えた。
美食会は無事に終わっていた。
タレラン夫人は、あふれんばかりの笑顔で別れの挨拶をくれて、
——可愛いお嬢さん! あんなに美味しそうに食べる子は初めてよ。ぜひまたいらしてちょうだい!
熱い抱擁までくれた。フィリップは対照的に大人しく、シンプルに一言。
——またな。
フィリップの父であるタレラン氏は、急な仕事で間に合わず、最後まで会うことはなかった。
大きな問題なく終わった美食会であったが、馬車に乗り合わせたルネはひどく静かで、ピアノのことを怒っているのかもしれないと思い、わたしのほうから謝罪を口にしていた。
窓の外に向けられていた薄い色の眼が、わたしに向く。感情の見えない顔は、うっすらと笑みを纏った。
「いいえ、お役に立てて光栄でございます」
「……ほんとう?」
「はい。ダンジュー様にお褒めいただき、私の未熟な演奏が、ご関係に悪影響を及ぼさずに済んだことは、本当にありがたいことでございます」
「……それは……あなたの、本心から言っているの……?」
「………………」
微笑みは、ゆっくりと妖しさを帯びる。
「——何が、訊きたいのでございましょう?」
馬車の外に灯るランプの火が、ゆらりと瞳のなかで揺らめいた。
冷たい感覚が背を撫でる。言葉を返せずに黙すると、彼は微笑みを崩すことなく言葉を繋げた。
「タレラン様とは、随分と近しい距離でお話をなさっていましたね」
「……そうでもないわ。隣だったから、そう見えただけよ」
「いつものように、冷たくあしらわれるのかと思っておりましたので」
「……そんなに悪いひとでもなかったの」
クスリ、と。不敬な音が落ちる。
「容易く触れようとする、あの男が——お好みでございますか?」
不敬どころか、馬鹿にしたようなセリフを、穏やかな声色に包んだ。
悪意の棘が、チクリと頭を刺す。
「……違うわ」
「若者は、飢えておりますからね」
「——やめて。別にあのひと、何も思ってなかったのよ。そんなつもりで触ろうとしたわけじゃないの」
「そんなつもり——とは?」
「……わたしを、女性として見ていないのよ。女じゃないと言っていたもの」
「——お嬢様」
クツクツと喉が鳴るような笑い方のあと、彼は口を開いた。
「それは、あまりにも無知と言わざるを得ませんね……彼は、お嬢様ばかりを見ておりましたよ? 女性に向けるものとして、熱心な視線を注いでおりました」
「……嘘よ」
「そう思われるなら構いませんが……くれぐれも、お気をつけくださいませ。あの手の輩は、一度手に入れば飽きるものです。追うことが愉しいのでございますよ」
「…………婚姻が済めば、どうでもよくなると言うの」
「——いいえ、婚姻というよりも……抱いてしまえば興味が尽きる、というお話でございます」
子供向けの物語みたいに、ルネはゆっくりと諭してみせた。よくあるお話でございますよ、と。締めくくりの言葉までもつけて、他人事の響きを返した。
沈黙が降りる。速度のある馬車の音は、大きく細かい。規則正しく刻まれる音のなかで、ぽつりと訴えるように言葉がもれた。
「……だから、ルネも、わたしに冷たいの」
問いかけのかたちで、でも、尋ねるわけではなく。感情を言い知らせるためだけに発せられた言葉に、ルネは一時、思考を止めていた。
なんと言われたのか——フィリップについて話していたはずが、急激な進路変更をした訓戒が、ルネの許へと跳ね返っていた。しっとりと見つめる彼女の瞳は、複雑な色をしている。怒っているような、あきれているような、悲しんでいるような。
「……私の話ではございませんよ」
「若者は、飢えていると言ったわ」
「……あなた方の歳の者たちを指しております」
「すこし上なだけで、大きくは変わらないでしょう。あなただって若者に分類されるわ」
「……さようでございますね」
「いちど手に入ったら、もう要らない。追いかけることが愉しい……そういうことなの」
「——いいえ」
強く、短い否定が、馬のひづめの音にまさった。
いきなり出された明瞭な音に、びくりとして口を止める。口調は〈優しいルネ〉だったが、音は——
「……失礼いたしました」
驚かせたことを謝ったのか、それとも話の流れによる謝罪なのか。
そのあとに続く言葉が、前者であると告げた。
「私を……あの者と同程度に見なされるのは……おやめください。私がお嬢様に捧げてきた時間は、比べものにならないと……自負しておりますので」
弁明のセリフは、静かに紡がれた。執事として、〈優しいルネ〉として。建前でしかないような響きを取り戻していた。
しばらくの沈黙のあと、小さく言葉を返す。
「……あなたが、何を考えて、何を企んでいるのか……分からないけれど……あなたの献身は、はじめから、仕事だわ。……タレラン様が、あなたの言うように、ほんとうにわたしを想ってくれているなら……それが一瞬の愛であっても、そちらのほうを……わたしは望むわ」
「………………」
ルネは、もう何も言わなかった。
ひづめの打ち鳴らす音だけが、絶えまない責め苦のように響いている。
永遠の時を、刻むように。
それが、今では——
重く緊張の走る時間になっている。
「……今日は、巻き込んで……ごめんなさい」
馬車が鳴らすカコカコとした音にまぎらわせて、そろりと唱えた。
美食会は無事に終わっていた。
タレラン夫人は、あふれんばかりの笑顔で別れの挨拶をくれて、
——可愛いお嬢さん! あんなに美味しそうに食べる子は初めてよ。ぜひまたいらしてちょうだい!
熱い抱擁までくれた。フィリップは対照的に大人しく、シンプルに一言。
——またな。
フィリップの父であるタレラン氏は、急な仕事で間に合わず、最後まで会うことはなかった。
大きな問題なく終わった美食会であったが、馬車に乗り合わせたルネはひどく静かで、ピアノのことを怒っているのかもしれないと思い、わたしのほうから謝罪を口にしていた。
窓の外に向けられていた薄い色の眼が、わたしに向く。感情の見えない顔は、うっすらと笑みを纏った。
「いいえ、お役に立てて光栄でございます」
「……ほんとう?」
「はい。ダンジュー様にお褒めいただき、私の未熟な演奏が、ご関係に悪影響を及ぼさずに済んだことは、本当にありがたいことでございます」
「……それは……あなたの、本心から言っているの……?」
「………………」
微笑みは、ゆっくりと妖しさを帯びる。
「——何が、訊きたいのでございましょう?」
馬車の外に灯るランプの火が、ゆらりと瞳のなかで揺らめいた。
冷たい感覚が背を撫でる。言葉を返せずに黙すると、彼は微笑みを崩すことなく言葉を繋げた。
「タレラン様とは、随分と近しい距離でお話をなさっていましたね」
「……そうでもないわ。隣だったから、そう見えただけよ」
「いつものように、冷たくあしらわれるのかと思っておりましたので」
「……そんなに悪いひとでもなかったの」
クスリ、と。不敬な音が落ちる。
「容易く触れようとする、あの男が——お好みでございますか?」
不敬どころか、馬鹿にしたようなセリフを、穏やかな声色に包んだ。
悪意の棘が、チクリと頭を刺す。
「……違うわ」
「若者は、飢えておりますからね」
「——やめて。別にあのひと、何も思ってなかったのよ。そんなつもりで触ろうとしたわけじゃないの」
「そんなつもり——とは?」
「……わたしを、女性として見ていないのよ。女じゃないと言っていたもの」
「——お嬢様」
クツクツと喉が鳴るような笑い方のあと、彼は口を開いた。
「それは、あまりにも無知と言わざるを得ませんね……彼は、お嬢様ばかりを見ておりましたよ? 女性に向けるものとして、熱心な視線を注いでおりました」
「……嘘よ」
「そう思われるなら構いませんが……くれぐれも、お気をつけくださいませ。あの手の輩は、一度手に入れば飽きるものです。追うことが愉しいのでございますよ」
「…………婚姻が済めば、どうでもよくなると言うの」
「——いいえ、婚姻というよりも……抱いてしまえば興味が尽きる、というお話でございます」
子供向けの物語みたいに、ルネはゆっくりと諭してみせた。よくあるお話でございますよ、と。締めくくりの言葉までもつけて、他人事の響きを返した。
沈黙が降りる。速度のある馬車の音は、大きく細かい。規則正しく刻まれる音のなかで、ぽつりと訴えるように言葉がもれた。
「……だから、ルネも、わたしに冷たいの」
問いかけのかたちで、でも、尋ねるわけではなく。感情を言い知らせるためだけに発せられた言葉に、ルネは一時、思考を止めていた。
なんと言われたのか——フィリップについて話していたはずが、急激な進路変更をした訓戒が、ルネの許へと跳ね返っていた。しっとりと見つめる彼女の瞳は、複雑な色をしている。怒っているような、あきれているような、悲しんでいるような。
「……私の話ではございませんよ」
「若者は、飢えていると言ったわ」
「……あなた方の歳の者たちを指しております」
「すこし上なだけで、大きくは変わらないでしょう。あなただって若者に分類されるわ」
「……さようでございますね」
「いちど手に入ったら、もう要らない。追いかけることが愉しい……そういうことなの」
「——いいえ」
強く、短い否定が、馬のひづめの音にまさった。
いきなり出された明瞭な音に、びくりとして口を止める。口調は〈優しいルネ〉だったが、音は——
「……失礼いたしました」
驚かせたことを謝ったのか、それとも話の流れによる謝罪なのか。
そのあとに続く言葉が、前者であると告げた。
「私を……あの者と同程度に見なされるのは……おやめください。私がお嬢様に捧げてきた時間は、比べものにならないと……自負しておりますので」
弁明のセリフは、静かに紡がれた。執事として、〈優しいルネ〉として。建前でしかないような響きを取り戻していた。
しばらくの沈黙のあと、小さく言葉を返す。
「……あなたが、何を考えて、何を企んでいるのか……分からないけれど……あなたの献身は、はじめから、仕事だわ。……タレラン様が、あなたの言うように、ほんとうにわたしを想ってくれているなら……それが一瞬の愛であっても、そちらのほうを……わたしは望むわ」
「………………」
ルネは、もう何も言わなかった。
ひづめの打ち鳴らす音だけが、絶えまない責め苦のように響いている。
永遠の時を、刻むように。
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