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小犬のワルツ

Chap.3 Sec.3

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 屋敷には2台のピアノがある。
 1台は2階に。訪問客が来る際に演奏家を呼んで披露させたり、身内ならわたしが弾いてみたり。低音から高音まで豊かに音を奏でるそれは、さながらオーケストラ。音のばらつきもなく、それぞれがしっかりと音を主張して音楽を生み出してくれる。

 一方、もう一台は
 わたしの寝室に置かれたマホガニー材のピアノは、低音の伸びはない。代わりに、高音を美しく。2階のピアノみたいに高音域をキラキラと飾るのではなく、メロディーを叙情的に奏で、心へと歌いかける。まるで舞台上の歌姫のように。
 ——ただ、それは。誰が弾いてもわけではなく。わたしが指を動かしたところで、何かが物足りない。
 が演奏することで、は歌うのだ。


「——お嬢様、何かリクエストはございますか?」

 歌姫のピアノに向かうルネが、隣に立つわたしに尋ねた。無言で首を振ると、彼は少しだけ考えてから、曲を弾き始めた。モーツァルトのピアノソナタ。簡単なもの。

「……なぜ、そんな簡単な曲なの?」
「そのセリフ、覚えておけよ」

 明るく澄んだ、軽やかなメロディー。奏で始めた彼は、シンプルな旋律にのせて久方ぶりに仮面を外した。
 自然と頬がこわばる。彼はピアノを弾く手は止めずに、横目でわたしを捉えている。

「確認したいことがある」
「……わたし、誰にも話してないわ」
「それは知ってる、俺の話じゃない。きたいのは——タレランの息子についてだ」
「……タレラン様? の、令息……この前の?」
「そう、君が遊んでた男」

 ふっと鼻で笑われ、思わずにらんでいた。

「遊んでなんかないわ」
「遊ばれてた、が正しいのか?」
「——ルネ」
「なんでございましょう?」

 厳しい声で名を呼んでも、穏やかな声色を作り、平然と受け流される。不敬な言葉をとがめることもできない。

「……タレラン様の令息が、なんだって言うの」

 怒りをにじませて、静かに問うた。
 いま理解したが、ピアノは無罪証明だ。防音の壁をこえて外にもれる高音が、わたしの寝室にいる彼への疑惑をかき消していく。
 そして、ピアノが鳴っていれば、誰も邪魔しに来ない。

「その息子が、君と結婚したいそうだ」
「…………なんて?」
「その息子から、君と婚姻を前提とした付き合いがしたい——と、申し入れがあった」

 数小節は無為むいに流れていったはず。聞き違いなのか何かの悪戯いたずらなのか、どちらにしても偽りだろうと思う。反抗の意思で無言のまま、鍵盤でおどる彼の指を見ていた。

「……たわむれに言ってるわけじゃない。身に覚えないのか?」
「あるわけないでしょう。彼と顔を合わせたのは、あの日が初めてなのよ?」
「——なら、唇ひとつで落としてみせたのか。やるじゃないか」
「……やめて。わたしに、そんなつもりは……なかったのに……」

 しなやかな指先が、高音で弾む。音が強く、たたかれたような錯覚がした。

「男と二人きりになれば、同じことだ。いやというほど教えてきたつもりだったが……足りなかったか?」

 めあげる目に、射すくめられる。唇は薄く曲がっていた。
 声も、出せない。
 笑っているようで、笑っていない。この目はひどく怖い。

「……俺の教育不足については、今後改善していくとして——その息子と、なぜ温室にいた? 君はエレアノール嬢のところへ行くはずだっただろう?」
「……違うわ、最初から追いかけるつもりだったのよ。ネ……エレアノールに、ひどいことを言ったから……一言いってやりたくて」
「一言告げるはずが、唇を奪われた——と」
「……違う」
「何が違う?」
「……あんなもの、くちづけじゃない。小犬にまれたようなものよ」
「それは面白い解釈だな?」
「愛がなければ、意味がない。……あなたも同じよ、ルネ」

 感情を乗せずにつぶやくと、彼はしばし言葉を切った。残された歌姫だけが、見えない楽譜をなぞっていく。

 『初心者のための小さなソナタ』を、ルネの指揮で、歌姫が柔らかに歌う。モーツァルトの指示どおりレガートなめらかに、そしてドルチェ甘美に
 指先が繊細に沈む動きは、じっと見ていると……ぞくりとする。
 あの指先が、わたしを、

「——君は、あの男とどうなりたい?」

 ふいに、とらわれかけていた思考がすくいあげられた。
 はたりと取り戻した意識で、ルネの言葉をくり返す。

「……どうなりたい? それは、何を問うているの?」
「婚姻を望むのか、望まないのか」
「望むわけないでしょう……あんなひと、絶対一緒になりたくないわ……」
「だったら話は早いな」
「……なにが、なの?」
「タレランの邸宅で、晩餐会をやるらしい。君がそれに招待されている。……が、息子のことは、いつもみたいにあしらってくれればいい。それで婚姻の話も流れるだろ」
「…………分からないのだけれど、どうして婚姻の話が出ているの? あちらから申し入れがあったって、本当なの?」
「俺が理由を知りたかったんだがな……君にも分からないということか」
「分からないわ……だって——」

 あの日だって、いつもどおりのわたしだった。
 いいえ、むしろ平常よりもさらに冷ややかで、同情すら覚えていたくらい。
 甘い空気はつゆほどもなく、どちらかといえば殺伐として。あちらは、今にもわたしをどうにかしてやろうと——鋭いきばいていた。

——痛めつけられたいのか。

 どう思い出してみても、あそこから婚姻につながらない。誰かと勘違いしているのだとしたら……再会するのは、どうなのか。しかも、あちらは婚姻を申し入れるほどの女性と間違っている。波乱しかない気がする。

「——それと、もうひとつ。だ」

 跳ねる指先が、むちのよう。
 動物をしつける、サーカスの調教師。

「タレランに気をつけろ。息子ではなく、父親だ」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
「タレラン様に失礼のないよう、気をつけろ、と言っているの?」
「——いや、タレランに隙を見せるなと言ってる。軽く調べたが、あれは厄介やっかいだ。……身内にも手を出す。俺がいるとしても、警戒しておけ」

 重要なことをきつく言われていると思うが、それよりも気になることがあって、自然と眉を寄せていた。

「…………ルネが、一緒に来るの?」
「俺以外に誰が行くんだ?」
「……付き添いくらい、他の使用人でもいいでしょう? ……往復の道のりも長いし、あなただって、暇じゃないんだから……」
「俺の存在は、常に君が最優先だ」

 とくりと鳴らされる心は、何にゆれたのか。
 ——それは、仕事だから。
 そんなこと、分かりきっている。

「……でも、ルネはずっとわたしを見張るだけで、何かするわけじゃない。……その程度のこと、あなたじゃなくても、」
「——俺から、そんなに離れたいか?」

 否定しようとしたが、ちょうど弾き終えた音楽がぴたりと余韻なく止まった。ルネが立ち上がったせいで、急に高くなった目線に怖気おじけづく。近くで見下げるように目を送られると、身が震える。昔はかがんで目線を下げてくれていたのに——。

「……交代いたしましょうか」
「え……?」
「どうぞ、お嬢様」

 わたしの腕を引き、イスの前から身を横へとずらす。肩へと手を置かれ、うむを言わせぬ力で座らせられた。戸惑うわたしの耳許に、上体を傾けたルネの吐息が、

「同じ曲を、ぜひお嬢様にもご披露いただきたく存じます」
「……あなたが弾いたものを、もう一度?」
「ええ」

 耳にこもる熱から意識をそらして、鍵盤に指をのせる。
 指先に力を入れ——

「……っ?」

 声にならない声が、喉からこぼれ落ちた。
 弾き始めれば離れると思ったルネの体は、離れることなく寄り添い、わたしの頬に唇で触れた。
 動揺した指は鍵盤の上でつまずき、細やかな動きでトリルを刻むはずが、失敗して音が抜ける。くすりと笑う音。

「どうした、簡単な曲なんだろ?」

——なぜ、そんな簡単な曲なの?
——そのセリフ、覚えておけよ。

 手を離そうとしたが、跳ね返ってきた自分の発言に、つい意地になってその先をうまく弾こうと集中する。

 彼女は、ルネの術中におちいっていることなど気づいていない。真剣な顔をする彼女に、ルネが笑っていることも。
 丁寧に音を拾っていく彼女の手をくるわせようと、ルネの手が彼女の首筋を撫でた。

「ルネっ……」
「これくらいで意識を乱すな。愛がなければ意味がない——だろ?」

 またしても、自分のセリフに縛られる。首をなぞる指先に、音がぎこちなく固まっていく。
 背筋をたどって落ちていく指先の感触が、頭のなかの楽譜を散らした。

「そこはさっき弾いたろ?」

 似通った音形のせいで、いま自分がどこを弾いているのか、もう分からない。歌姫どころか、たどたどしい幼児の歌声みたいな……もっとひどいかも。
 それでも曲を弾ききろうと、手を動かす意思に、近寄ったルネの声が絡みつく。

「あの男のキスは、よかったか?」

 問いかけに答えるまでもなく、背後から回されたルネの指先が、べにを引くように唇をなぞった。
 ——ぞくっと、全身がわななく。
 思い出したのは、タレランの息子ではなく、ルネの、

「——俺よりも?」

 記憶を重ねるように、同じ唇によって答えを塞がれた。
 掬うように上げられた顔はルネに向いてしまい、鍵盤で転んだ指たちが、もう戻れない。合わさった唇のなかで、舌がやわらかく吸い付いた。
 触れ合ったまま深く深く沈もうとする舌に、空いた手で強く抵抗したが、離れようとしない。頭を引いて逃げようとした体が、イスから落ちかけ——落ちてもいいと思った——それすらも読んでいたのか、ルネの腕によって押さえ込まれた。
 逃げられない舌が、なぶられていく。閉じていた目を開けると、グレーの眼が、細くわたしを見ていた。
 ——反応を見られている。
 かっと熱を帯びる頭で、無理やりにでも顔をそらそうとすると——いきなり、あっさりと解放された。

 遊ばれている。
 そう思って、ルネを睨みつけた。
 離れた顔は、笑っているかと思ったが——そこにあったのは、笑みのない唇と、まっすぐな瞳だった。

「……もうひとつ、警告しよう」

 白い手袋に覆われた手が、わたしの顎をそっと持ち上げる。

「今の君は、俺のものだ。俺のさじ加減で、君ら家族の生涯しょうがいが決まると思え。繰り返すが——脅しているのは、俺なんだよ」

 微笑みを乗せずに、目を離すことなく。
 顎に掛けた手から伸ばされた親指で、わたしの唇をたどる。

「この唇も、体も、誰にも与えるな。……次、誰かに許したら——」

 ふっと降りてきた薄い唇は、わたしの耳に呪いをかける。

——俺が、君の人生を壊す。
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