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囚われの蝶々
Chap.2 Sec.3
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温かな紅茶のアロマが、室内に立ち込めていた。
手許の薄いティーカップは蒼黒の夜空色で、金彩が美しく縁取っている。セーヴル焼きのクラウデッド・ブルー。薄雲の浮かんだ夜空のカップを眺めながら、ぼんやりとしていて——向かいから、甲高い声が。
「ねえ! 聞いているのっ?」
頭に響く、ソプラノの声質。
顔を向けると、友人のエレアノールが、ぱっちりとしたブラウンの眼を吊り上げていた。編み込まれた栗毛色の髪はパーマが強く、ぴょこぴょこと飛び出ていて、額で可愛くカールしている。
怒る顔つきは、感情に反して愛らしい。
ため息を隠すようにティーカップへと口をつけ、ひとくち飲んでから応えた。
「……聞いてる。この前の舞踏会が散々だった——でしょう? ……でもね、この話はもう毎度のことだから。わたしの返事は要らないと思うの」
「まぁぁ! 可愛い幼なじみであるあたくしの話を、そんなふうに言うの!」
「………………」
声が、頭のなかで反響する。ここ最近の睡眠不足のせいか、彼女の声がじつに響く。こめかみに指先を当てて頭痛を乗りきろうとしていると、隣に座っていたもうひとりの友人——ジョゼフィーヌが、眉尻を下げ、ふんわりとした声で、
「ネリー、おちついて。声が大きすぎるわ……何事かしらと、メイドが戻ってきちゃう」
〈ネリー〉とは、エレアノールの幼少期からの愛称である。ちなみにジョゼフィーヌは〈ジョゼット〉。兄弟のいないわたしにとって、幼い頃から付き合いのある彼女たちの存在は、姉であり妹であり——優しい友人。あるいは、やかましい友人だった。
せっかく追い出した彼女の家のメイドが戻ってきては困る。エレアノールは声量を抑えるように肩を縮めた。
「……だって、ぜんぜん話を聞いてくれてないんだもの。毎度のことなんて言って……ひどいわ。あたしは真剣なのに……」
力の入った眉頭に、うるりと濡れる、つぶらな瞳。ジョゼフィーヌからの横目もあり、カップをソーサーへと戻して、まじめに、
「ごめんなさい、失礼な態度だったわ。わたし、すこし寝不足で……話が、きちんと頭に入ってこないのよ。……ゆるして?」
首を傾けてみせると、エレアノールの態度が軟化した。
「謝るほどのことでは……ないわ。あたしのほうこそ……はしたなく大声を出して……ごめんなさい。頭、痛かった? ……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
「……寝不足って、なにか悩みでも?」
ぎくりとしてしまった。
わずかな動揺は、横にいたジョゼフィーヌが気づいてしまい、「悩みがあるの? よかったら……話してみて」優しい声で促される。
無言でふたりの顔を見比べてから、
——執事と姦淫を犯してしまったの。しかも脅されているのよ、どうしたらいい?
(……なんて、言えるわけない……)
1秒の検討の後に、大きく息を吐いて、
「……お母様の調子が、よくないの」
もうひとつの気掛かりである問題について、口にした。
ふたりは、「あぁ……」と。すでに知っている内容であったことに安堵しつつ、同情の響きで声を返す。エレアノールのほうは、申し訳ないような表情に。
「ごめんなさい……そうよね、あたしの話どころじゃなかったのに……」
ごまかそうと口にした話題が、思ったよりも暗い影を落とし、あわてて首を振った。
「違うの、いいのよ! ネリーの明るい声を聞いていたほうが、わたしも気持ちが明るくなるわ!」
「……ほんとうに?」
「ええ!」
「……でも、あたしの恋愛のお話なんて、つまらないでしょ?」
「ちっとも!」
勢いよく否定してから、ニコッと笑う彼女の顔に——あら? なんか騙された?——乗せられた自分を悟ったが、もう遅かった。
「じゃ、しっかり聞いてちょうだいね? 明日の舞踏会なんだけど——」
嬉々として会話を再開した彼女の笑顔に、思わず閉口してジョゼフィーヌに横目を流していた。綺麗に結わえられた陽だまりのような金の髪。透き通りそうな白い肌の上、彼女はブルーの眼を細めて笑っていた。
(あきらめて、しっかり聞いてあげるしかないね?)
薄い色の唇が、そんなことを唱えていた。
「——で、明日の舞踏会は、ダンジュー様が主催でしょう? すこし遠いから、馬車の時間が憂鬱だけど……首都での舞踏会だもの、きっと素敵なひとがいるわ。ふたりとも、どんなドレスにするか、もう決めた?」
キラキラとした瞳は、父との思い出を語るときの母に似ている。
夢みる少女の瞳に向けて、
「わたしは、ライトブルーのドレスよ。薄いレースを重ねた……見たことがあるでしょ?」
「あぁ、あれね! ちょっと地味なドレスね!」
「……ええ、そう。(もっと言い方があると思うけれど、たしかに)地味なドレスよ」
「もっと華やかな物にしたらいいのに。ちょっと時代遅れよ?」
「……そうね、次のオーダーの参考に、考えておくわ……」
「ジョゼットは? 何を着るの?」
「わたしは……明日は、ミントグリーンのドレスかな?」
「新しく作った、袖と裾にたっぷりとレースがあるドレスねっ? あれは可愛くて素敵だわ!」
「ありがとう」
「あたしも新しいドレスにしようかと思うの! ペールピンク! ネックラインの装飾が、リボンとレースで……とってもとっても可愛いの! 明日、ぜったい見て!」
流行に敏感で、オシャレに余念がないエレアノール。こまめに美容院へと行く彼女は、いつだって可愛くてぴっかぴか。
そんな彼女の努力の矛先は、すべて『ロマンティックな恋』に集約される。
「みんな、ドレスは被らなさそうでよかったわ! きっと明日こそ、あたしの王子様に会えるはずなの。だからね、協力してねっ?」
うきうきとするエレアノールに、わたしは首をかしげて、
「協力も何も——ダンジューの様のところから、もう連絡が来てるでしょ? ネリーはパートナーの希望を出してないの?」
「あら、出したわよ。でも、それはお母様が選んだひとだもの、またハズレだわ。だからね——明日は、あたしが自分で捜すのよ。運命のひとを!」
壮大なオーケストラの音楽が聴こえた気がする。ベートーヴェンの『運命』。心臓を叩くような最初の4音とか……胸中で例えを出したが、(あれは恋愛ではないかも?)違うような気がして解釈を吟味する。
そんなわたしの考え込む表情に、エレアノールは何を勘違いしたのか、
「〈運命〉なんて——と、バカにしてるわね? あなたはそれがダメなのよ! 恋を求めて、もっと周りに目を向けてちょうだい! 執事ばかりに囚われていたら、婚期をのがすわよ!」
——これはさすがに、ぎくりどころではなく。ハッと思考を止めて、ブラウンの眼を見返していた。
エレアノールが、わたしの切迫した表情に気圧されたのか、勢いを落とした。
「な、なんなのっ……そんな怖い顔をして……」
「ネリー、あなた今、なんて?」
「……執事ばかりに囚われては、ダメよ……って、言ったのよ」
「わたしが、彼に囚われている? あなた、どういう意味で言ってるの?」
「どうって……だってあなた、出会うひとみんな、彼と比べてばかりじゃない。……好きなんでしょう? 彼のことが……昔から」
驚愕で固まるわたしは、ぎこちなく横に顔を向けた。ジョゼフィーヌにも知れていたらしく、彼女は驚きのない顔で小さく肩をすくめた。
「ごめんなさいね? でも……あなた、分かりやすいの」
申し訳なさそうに言っているけれど、ちょっと非難を含んでいる。わたしが勝手に情報を振りまいていたみたいな言いぶり。
囚われる——という表現から深読みしてしまったが、彼女たちの胸にあったのは、まったく種類の違うわたしの秘密だった。
「わたし……そんなに分かりやすいの……?」
エレアノールとジョゼフィーヌが、ぴたりと目を合わせる。吐息まで重ねて、わたしに目を戻し、
「とっても」
「ええ、とても」
——お嬢様は素直でいらっしゃいますからね。
……やっぱり、頭が痛い。
悩み事だらけの脳みそを、放り投げてしまいたくなった。
手許の薄いティーカップは蒼黒の夜空色で、金彩が美しく縁取っている。セーヴル焼きのクラウデッド・ブルー。薄雲の浮かんだ夜空のカップを眺めながら、ぼんやりとしていて——向かいから、甲高い声が。
「ねえ! 聞いているのっ?」
頭に響く、ソプラノの声質。
顔を向けると、友人のエレアノールが、ぱっちりとしたブラウンの眼を吊り上げていた。編み込まれた栗毛色の髪はパーマが強く、ぴょこぴょこと飛び出ていて、額で可愛くカールしている。
怒る顔つきは、感情に反して愛らしい。
ため息を隠すようにティーカップへと口をつけ、ひとくち飲んでから応えた。
「……聞いてる。この前の舞踏会が散々だった——でしょう? ……でもね、この話はもう毎度のことだから。わたしの返事は要らないと思うの」
「まぁぁ! 可愛い幼なじみであるあたくしの話を、そんなふうに言うの!」
「………………」
声が、頭のなかで反響する。ここ最近の睡眠不足のせいか、彼女の声がじつに響く。こめかみに指先を当てて頭痛を乗りきろうとしていると、隣に座っていたもうひとりの友人——ジョゼフィーヌが、眉尻を下げ、ふんわりとした声で、
「ネリー、おちついて。声が大きすぎるわ……何事かしらと、メイドが戻ってきちゃう」
〈ネリー〉とは、エレアノールの幼少期からの愛称である。ちなみにジョゼフィーヌは〈ジョゼット〉。兄弟のいないわたしにとって、幼い頃から付き合いのある彼女たちの存在は、姉であり妹であり——優しい友人。あるいは、やかましい友人だった。
せっかく追い出した彼女の家のメイドが戻ってきては困る。エレアノールは声量を抑えるように肩を縮めた。
「……だって、ぜんぜん話を聞いてくれてないんだもの。毎度のことなんて言って……ひどいわ。あたしは真剣なのに……」
力の入った眉頭に、うるりと濡れる、つぶらな瞳。ジョゼフィーヌからの横目もあり、カップをソーサーへと戻して、まじめに、
「ごめんなさい、失礼な態度だったわ。わたし、すこし寝不足で……話が、きちんと頭に入ってこないのよ。……ゆるして?」
首を傾けてみせると、エレアノールの態度が軟化した。
「謝るほどのことでは……ないわ。あたしのほうこそ……はしたなく大声を出して……ごめんなさい。頭、痛かった? ……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
「……寝不足って、なにか悩みでも?」
ぎくりとしてしまった。
わずかな動揺は、横にいたジョゼフィーヌが気づいてしまい、「悩みがあるの? よかったら……話してみて」優しい声で促される。
無言でふたりの顔を見比べてから、
——執事と姦淫を犯してしまったの。しかも脅されているのよ、どうしたらいい?
(……なんて、言えるわけない……)
1秒の検討の後に、大きく息を吐いて、
「……お母様の調子が、よくないの」
もうひとつの気掛かりである問題について、口にした。
ふたりは、「あぁ……」と。すでに知っている内容であったことに安堵しつつ、同情の響きで声を返す。エレアノールのほうは、申し訳ないような表情に。
「ごめんなさい……そうよね、あたしの話どころじゃなかったのに……」
ごまかそうと口にした話題が、思ったよりも暗い影を落とし、あわてて首を振った。
「違うの、いいのよ! ネリーの明るい声を聞いていたほうが、わたしも気持ちが明るくなるわ!」
「……ほんとうに?」
「ええ!」
「……でも、あたしの恋愛のお話なんて、つまらないでしょ?」
「ちっとも!」
勢いよく否定してから、ニコッと笑う彼女の顔に——あら? なんか騙された?——乗せられた自分を悟ったが、もう遅かった。
「じゃ、しっかり聞いてちょうだいね? 明日の舞踏会なんだけど——」
嬉々として会話を再開した彼女の笑顔に、思わず閉口してジョゼフィーヌに横目を流していた。綺麗に結わえられた陽だまりのような金の髪。透き通りそうな白い肌の上、彼女はブルーの眼を細めて笑っていた。
(あきらめて、しっかり聞いてあげるしかないね?)
薄い色の唇が、そんなことを唱えていた。
「——で、明日の舞踏会は、ダンジュー様が主催でしょう? すこし遠いから、馬車の時間が憂鬱だけど……首都での舞踏会だもの、きっと素敵なひとがいるわ。ふたりとも、どんなドレスにするか、もう決めた?」
キラキラとした瞳は、父との思い出を語るときの母に似ている。
夢みる少女の瞳に向けて、
「わたしは、ライトブルーのドレスよ。薄いレースを重ねた……見たことがあるでしょ?」
「あぁ、あれね! ちょっと地味なドレスね!」
「……ええ、そう。(もっと言い方があると思うけれど、たしかに)地味なドレスよ」
「もっと華やかな物にしたらいいのに。ちょっと時代遅れよ?」
「……そうね、次のオーダーの参考に、考えておくわ……」
「ジョゼットは? 何を着るの?」
「わたしは……明日は、ミントグリーンのドレスかな?」
「新しく作った、袖と裾にたっぷりとレースがあるドレスねっ? あれは可愛くて素敵だわ!」
「ありがとう」
「あたしも新しいドレスにしようかと思うの! ペールピンク! ネックラインの装飾が、リボンとレースで……とってもとっても可愛いの! 明日、ぜったい見て!」
流行に敏感で、オシャレに余念がないエレアノール。こまめに美容院へと行く彼女は、いつだって可愛くてぴっかぴか。
そんな彼女の努力の矛先は、すべて『ロマンティックな恋』に集約される。
「みんな、ドレスは被らなさそうでよかったわ! きっと明日こそ、あたしの王子様に会えるはずなの。だからね、協力してねっ?」
うきうきとするエレアノールに、わたしは首をかしげて、
「協力も何も——ダンジューの様のところから、もう連絡が来てるでしょ? ネリーはパートナーの希望を出してないの?」
「あら、出したわよ。でも、それはお母様が選んだひとだもの、またハズレだわ。だからね——明日は、あたしが自分で捜すのよ。運命のひとを!」
壮大なオーケストラの音楽が聴こえた気がする。ベートーヴェンの『運命』。心臓を叩くような最初の4音とか……胸中で例えを出したが、(あれは恋愛ではないかも?)違うような気がして解釈を吟味する。
そんなわたしの考え込む表情に、エレアノールは何を勘違いしたのか、
「〈運命〉なんて——と、バカにしてるわね? あなたはそれがダメなのよ! 恋を求めて、もっと周りに目を向けてちょうだい! 執事ばかりに囚われていたら、婚期をのがすわよ!」
——これはさすがに、ぎくりどころではなく。ハッと思考を止めて、ブラウンの眼を見返していた。
エレアノールが、わたしの切迫した表情に気圧されたのか、勢いを落とした。
「な、なんなのっ……そんな怖い顔をして……」
「ネリー、あなた今、なんて?」
「……執事ばかりに囚われては、ダメよ……って、言ったのよ」
「わたしが、彼に囚われている? あなた、どういう意味で言ってるの?」
「どうって……だってあなた、出会うひとみんな、彼と比べてばかりじゃない。……好きなんでしょう? 彼のことが……昔から」
驚愕で固まるわたしは、ぎこちなく横に顔を向けた。ジョゼフィーヌにも知れていたらしく、彼女は驚きのない顔で小さく肩をすくめた。
「ごめんなさいね? でも……あなた、分かりやすいの」
申し訳なさそうに言っているけれど、ちょっと非難を含んでいる。わたしが勝手に情報を振りまいていたみたいな言いぶり。
囚われる——という表現から深読みしてしまったが、彼女たちの胸にあったのは、まったく種類の違うわたしの秘密だった。
「わたし……そんなに分かりやすいの……?」
エレアノールとジョゼフィーヌが、ぴたりと目を合わせる。吐息まで重ねて、わたしに目を戻し、
「とっても」
「ええ、とても」
——お嬢様は素直でいらっしゃいますからね。
……やっぱり、頭が痛い。
悩み事だらけの脳みそを、放り投げてしまいたくなった。
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