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嘘の始まりを教えて
Chap.1 Sec.6
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探ってみよう、とは決めたものの。何も行動できずに一日が終わろうとしていた。
平静を装って彼を観察していたが、別段かわったことはなく。いつもどおりの柔らかな笑顔は、地下室の記憶を薄れさせていく。薄れさせていくといっても、消えるわけではない。おやすみを交わしたあとのベッドの上で、わたしは息をころして時が経つのを待っていた。
住み込みの使用人たちも大半が眠り、屋敷が静まりかえるころ、そろりとベッドから足を落とした。
オイルランプはごくごく小ぶりのものを、あらかじめ用意しておいた。火を灯したランプを手に、寝室のドアを開けて、廊下をのぞいてみる。向かいの部屋のドアを四角く区切るように、薄い明かりがもれている。ひとの気配もある気がする。
(……今夜も、行くかしら……)
彼の考えなど分からない。ただ、明日には間違いなく父たちが帰ってくる。帰宅した父と一緒に入室して、彼が見ていた書物を確認するのが、彼のことを知るための安全策のひとつだとは思うが……父が見せてくれるだろうか。今までに、あんな羊皮紙の束があったなんて気づかなかった。本の中に隠されていたのだとしたら、それをわたしが見たいと言っても……見せてもらえるとは思えない。新たに隠されてしまうかも。
(そうなると……ルネが持ってるかもしれない鍵を借りれば……)
地下室に忍び込んで、何を見ていたのか確かめられる。
浮かんだアイディアは、なかなか現実的でよいのではないだろうか。問題は彼が鍵をどこに隠しているか。常に携帯していれば手出しできないが、本来の彼には所持する権限がない。どうやって手に入れたのか分からないが、うっかり落とすのを目撃されたり、誰かに拾われてしまったりしては大事になる。隠しているとしたら、彼の私室か、目の前の雑務の部屋……
考えていたところ、向かいのドアの明かりの一部が暗くなり、どきりとして寝室の中へと頭を引っ込めた。閉じたドア越しに耳をそばだてるが、防音が効いていて何も聞こえない。時間を置いてから、そっとドアを開け、隙間をつくった。遠くから、廊下を歩く音。その響きは彼のものに思えた。早足なのに靴音が響かない——彼の足音は、他の使用人に比べると極端に静かだった。
消え去っていく気配に、もういちど、ドアから顔を出してみる。のぞいた廊下は、しんとしていた。
……これはチャンスなのでは?
向かいの部屋に忍び込む絶好の機会に、思わず足が出た。しかし——ふと気になったのは、彼のゆくえ。彼が歩いていったと思われるのは、尖塔だった。私室に向かった可能性もあるが……ひょっとしたら。
「………………」
小さな明かりを手に、廊下の先を見つめる。尖塔につながる細い廊下へのドアは、閉められているかと思ったが——細く開いていた。
音を立てずに、廊下を歩いていく。昨日はあんなにあっさりと進んだ距離が、今日は遠く感じる。少しも縮まっていないように感じられたドアとの距離が、やっとなくなったときには、ランプを握る手にじんわりと汗をかいていた。
きい、と。ドアがきしむ。
ひと一人分の隙間を開けて、その先へと足を踏み入れる。細い廊下はひんやりとしている。見える先のドアに、明かりはない。もちろん、私室に戻った彼が眠っているのもありうるが、下に降りるための螺旋階段から、すうっと風が流れていた。
つま先から、熱が奪われるような寒気がする。しかし、心臓が早鐘を打つせいか、上体は緊張の熱が張りつめていた。
ひとつ、ひとつ。
自分の呼吸の音に震えながら、階段をおりていく。
永遠にも思えるほどの、長い時間。すべての階段をおりきって、地下への更なる階段にたどり着いたときには、張り詰めた糸が引きちぎれてしまいそうな緊張感につつまれていた。
(どうしよう……)
深く考えることなくここまで来てしまったが、床にぽっかりと空く、地下へと降りるための穴を目にしたら、急に足がすくんで動けなくなった。
——もし、彼がいたとしたら、どうするのか。
その答えを、考えていない。
もしかしたら、こんなにも思い詰めるほどのことではなく、本当にゲランから何か仕事を任されているだけなのかも。
それなら、いつもみたいに気にせず、部屋に戻って眠ってしまえばいい。最近の彼の仕事なんて、わたしは全然把握していない。気づいたら屋敷の管理と人事はルネがしているな、と思ったくらいで、わたしの身の回りのこまごましたことは基本すべてメイドがおこなっていて、今朝みたいに会いに来てくれることもない。社交に関しての付き添いだけ、父からの指示もあって、彼がずっとついてくれているが……成人してから、彼との距離は開く一方だった。
このまま離れていくのだろうと、理解している。
できることなら——くちづけだけでも。
彼にねだって、一度でいいから、もらえたなら——この憧れは、生涯しまっておこう。
婚姻相手が決まり、ゆいいつの願いを口にする日が来るのを待つだけだった。
……だから、今さら彼の行動を気にして、探る必要なんて……ない。盗みを疑う気持ちもないのに、ここから先を追求して何になるのか。たぶん、怒られるだけだ。ベッドを抜け出して何をしていらっしゃるのですか? お風邪を召されたいのございますか? 彼の声で幻聴が聞こえてきそうだ。
想像から、ふっとこぼれた笑みが、全身のこわばりを解いていく。
——戻ろう。
落ち着いた心に、足は、もと来た道のりを帰ろうとしていた。の、だが、
——ゆらり。
手許で揺れた、火が——脳裏に、彼の冷たい目をえがいてしまった。
暗がりに浮かびあがった、細く冷たい——見たこともない、顔を。
思わず恐怖に駆られた——別人のような顔つきを。
「………………」
沈黙のまま、目をそらしていた地下への入り口へと、視線を戻した。
疑いは無い。
彼の行動について、探ろうという気持ちもない。
ただ胸にあるのは——彼の瞳が、わたしの見間違いではなかったのか、という、純粋な疑問だった。
長く時を共にし、彼のことならわたしが一番よく分かっている気でいたが……わたしの知らない顔が、彼にもあるのだろうか。
あるのなら、見てみたいような気も。
……それはきっと、寝顔を見たいのと同じ程度の興味だった。
緊張の解けた胸に残った——好奇心が、わたしの足を動かしていた。
平静を装って彼を観察していたが、別段かわったことはなく。いつもどおりの柔らかな笑顔は、地下室の記憶を薄れさせていく。薄れさせていくといっても、消えるわけではない。おやすみを交わしたあとのベッドの上で、わたしは息をころして時が経つのを待っていた。
住み込みの使用人たちも大半が眠り、屋敷が静まりかえるころ、そろりとベッドから足を落とした。
オイルランプはごくごく小ぶりのものを、あらかじめ用意しておいた。火を灯したランプを手に、寝室のドアを開けて、廊下をのぞいてみる。向かいの部屋のドアを四角く区切るように、薄い明かりがもれている。ひとの気配もある気がする。
(……今夜も、行くかしら……)
彼の考えなど分からない。ただ、明日には間違いなく父たちが帰ってくる。帰宅した父と一緒に入室して、彼が見ていた書物を確認するのが、彼のことを知るための安全策のひとつだとは思うが……父が見せてくれるだろうか。今までに、あんな羊皮紙の束があったなんて気づかなかった。本の中に隠されていたのだとしたら、それをわたしが見たいと言っても……見せてもらえるとは思えない。新たに隠されてしまうかも。
(そうなると……ルネが持ってるかもしれない鍵を借りれば……)
地下室に忍び込んで、何を見ていたのか確かめられる。
浮かんだアイディアは、なかなか現実的でよいのではないだろうか。問題は彼が鍵をどこに隠しているか。常に携帯していれば手出しできないが、本来の彼には所持する権限がない。どうやって手に入れたのか分からないが、うっかり落とすのを目撃されたり、誰かに拾われてしまったりしては大事になる。隠しているとしたら、彼の私室か、目の前の雑務の部屋……
考えていたところ、向かいのドアの明かりの一部が暗くなり、どきりとして寝室の中へと頭を引っ込めた。閉じたドア越しに耳をそばだてるが、防音が効いていて何も聞こえない。時間を置いてから、そっとドアを開け、隙間をつくった。遠くから、廊下を歩く音。その響きは彼のものに思えた。早足なのに靴音が響かない——彼の足音は、他の使用人に比べると極端に静かだった。
消え去っていく気配に、もういちど、ドアから顔を出してみる。のぞいた廊下は、しんとしていた。
……これはチャンスなのでは?
向かいの部屋に忍び込む絶好の機会に、思わず足が出た。しかし——ふと気になったのは、彼のゆくえ。彼が歩いていったと思われるのは、尖塔だった。私室に向かった可能性もあるが……ひょっとしたら。
「………………」
小さな明かりを手に、廊下の先を見つめる。尖塔につながる細い廊下へのドアは、閉められているかと思ったが——細く開いていた。
音を立てずに、廊下を歩いていく。昨日はあんなにあっさりと進んだ距離が、今日は遠く感じる。少しも縮まっていないように感じられたドアとの距離が、やっとなくなったときには、ランプを握る手にじんわりと汗をかいていた。
きい、と。ドアがきしむ。
ひと一人分の隙間を開けて、その先へと足を踏み入れる。細い廊下はひんやりとしている。見える先のドアに、明かりはない。もちろん、私室に戻った彼が眠っているのもありうるが、下に降りるための螺旋階段から、すうっと風が流れていた。
つま先から、熱が奪われるような寒気がする。しかし、心臓が早鐘を打つせいか、上体は緊張の熱が張りつめていた。
ひとつ、ひとつ。
自分の呼吸の音に震えながら、階段をおりていく。
永遠にも思えるほどの、長い時間。すべての階段をおりきって、地下への更なる階段にたどり着いたときには、張り詰めた糸が引きちぎれてしまいそうな緊張感につつまれていた。
(どうしよう……)
深く考えることなくここまで来てしまったが、床にぽっかりと空く、地下へと降りるための穴を目にしたら、急に足がすくんで動けなくなった。
——もし、彼がいたとしたら、どうするのか。
その答えを、考えていない。
もしかしたら、こんなにも思い詰めるほどのことではなく、本当にゲランから何か仕事を任されているだけなのかも。
それなら、いつもみたいに気にせず、部屋に戻って眠ってしまえばいい。最近の彼の仕事なんて、わたしは全然把握していない。気づいたら屋敷の管理と人事はルネがしているな、と思ったくらいで、わたしの身の回りのこまごましたことは基本すべてメイドがおこなっていて、今朝みたいに会いに来てくれることもない。社交に関しての付き添いだけ、父からの指示もあって、彼がずっとついてくれているが……成人してから、彼との距離は開く一方だった。
このまま離れていくのだろうと、理解している。
できることなら——くちづけだけでも。
彼にねだって、一度でいいから、もらえたなら——この憧れは、生涯しまっておこう。
婚姻相手が決まり、ゆいいつの願いを口にする日が来るのを待つだけだった。
……だから、今さら彼の行動を気にして、探る必要なんて……ない。盗みを疑う気持ちもないのに、ここから先を追求して何になるのか。たぶん、怒られるだけだ。ベッドを抜け出して何をしていらっしゃるのですか? お風邪を召されたいのございますか? 彼の声で幻聴が聞こえてきそうだ。
想像から、ふっとこぼれた笑みが、全身のこわばりを解いていく。
——戻ろう。
落ち着いた心に、足は、もと来た道のりを帰ろうとしていた。の、だが、
——ゆらり。
手許で揺れた、火が——脳裏に、彼の冷たい目をえがいてしまった。
暗がりに浮かびあがった、細く冷たい——見たこともない、顔を。
思わず恐怖に駆られた——別人のような顔つきを。
「………………」
沈黙のまま、目をそらしていた地下への入り口へと、視線を戻した。
疑いは無い。
彼の行動について、探ろうという気持ちもない。
ただ胸にあるのは——彼の瞳が、わたしの見間違いではなかったのか、という、純粋な疑問だった。
長く時を共にし、彼のことならわたしが一番よく分かっている気でいたが……わたしの知らない顔が、彼にもあるのだろうか。
あるのなら、見てみたいような気も。
……それはきっと、寝顔を見たいのと同じ程度の興味だった。
緊張の解けた胸に残った——好奇心が、わたしの足を動かしていた。
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