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プロローグ

Prol. Sec.1

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「——馬鹿だな」

 その一言を皮切りに、普段の穏やかな笑顔は消失した。
 執事としてわたしの名を優しく呼んでくれていた唇はあざけるようにをえがき、奏でる音色すら毒をはらんで冷たく響いた。
 一瞬で妖艶とした雰囲気をまとった彼は、唐突な変貌へんぼうほうけたように固まっていたわたしに向けてを進める。

 無意識のうちに逃げるよう後退あとずさりしたが、壁を背にしていたわたしの行き場などほとんどない。
 この部屋ゆいいつの逃げ道であるドアは彼の長躯ちょうくが塞いでいる。マホガニーのピアノを置くため広く作られたわたしの寝室。長い毛足の絨毯じゅうたんの上、彼の足は普段と同じようになめらかに進み距離を詰めてくる。

「——黙って知らない振りをしていたらよかったんだ」

 細められた彼の瞳。それを見つめて凍りつくわたしに、薄く微笑した彼がとろりとした甘い毒の声で言葉をつなげた。
 重なる視線の先に映るのは、いつものわたしじゃない。
 瞠目どうもくし、返す言葉を失って戦慄わななくことしかできない、脆弱ぜいじゃくな女。

(——どうして?)

 そう、その一言さえ音にできない。

(なぜ? なんのために? 誰かに雇われたの?)

 きたいことは、いくらだってあるはずなのに。
 「あなたは、誰なの」と。
 たった一言投げたかけた問いが、穏やかな彼の仮面をぎ——その仮面の下から現れた素顔が、すべての言葉をさらっていった。

 きちりと固められていた黒の前髪を、彼は無造作にき崩す。うっすらと掛かる黒の狭間はざまで、薄い色の眼が、細くわたしを見据えている。
 
「俺を疑って尾行なんかせずに、ただ盲目に信頼していれば……とりあえずは幸せでいられたのになぁ?」

 壁が、背に当たる。
 隙を与える気はない彼の左手が、わたしの顔の横の壁をゆっくりと押さえ、逃げ場を奪った。

 こちらを見下ろす瞳は、獣のようにわたしを獲物として捉えているのに、興奮する様子は一切ない。
 まるで、新しい玩具おもちゃを見つけた子供みたいに笑顔を浮かべながら、その瞳はただただ冷ややかだった。

「——さて、どうやって口止めしてほしい?」

 見たことのない彼を恐れて下を向いたが、自由なほうの彼の手によってあごを持ち上げられ、強引に視線を戻された。
 目の前には、残虐ざんぎゃくひずみをえがく青年。
 わたしの——しらない、かお。

 これだけ間近で見つめ合えることを、ずっと願っていたというのに。
 こんな叶い方をするなんて。

「選ばせてやるよ、——苦痛か、快楽か」

 選択を返す間もなく、恋い焦がれていた薄い唇によって、震えていた唇が塞がれる。
 触れた温度はひどく冷たくて、憧れていた愚かな恋心が砕け散ったのを、ようやく理解した。
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