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Chap.6 この心臓を突き刺して
Chap.6 Sec.10
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普段よりも遅い夕食の時間ではあったが、食堂には全員が揃っていた。
窓側ラインにはメルウィンから始まり、ティア、彼女、ロキ、ハオロン。向かいの廊下側ラインは、メルウィンの前にセト、そこからイシャン、サクラ、アリア。
久方ぶりの光景に、ティアは(しっくりくる……)謎のフィット感を得ていた。
長らく失われていたこの感覚。しかし、ティアの感想に反して、右手に見えるセトの表情は微妙だった。帰宅後のセトとの会話からするに、彼はまだ迷っているようす。
自分勝手にハウスを出て行きながら、戻って来た——そんな引け目も察せられる。
それでも戻って来たということは、それなりの理由があるのだろう。推測するのはやめておいた。
各人が夕食のオーダーをしている。
ひとあし早く終えた彼女が、右手のティアに向けて、
「あの……まがりーは……?」
ひやりと、息を止めた。
動作が止まったのはティアのみでなく、メルウィンはあからさまに硬直し、目を他の兄弟に回していた。
誰も、真実を彼女に告げていない。
(……僕が話すの?)
例のごとく嫌な役回りを負わされたティアが、短く嘆息して口を開こうとしたが、テーブルには先に明るい声が響いた。
「ありすは知らんかったんかぁ? うちら、マガリーを送り届けたあとに襲撃されたんやよ?」
鮮やかな嘘に、メルウィンの目はハオロンへと流れる。メルウィンからハオロンは見えない。
セトが片眉を上げ、認識のずれに疑問を持っている。その他の者はハオロンに目を向けなかった。
彼女はロキ越しにハオロンを振り返り、
「まがりーは、ぶじだった?」
「無事やよ。ハウスに縁がないコミュニティやから、連絡は取れんけどの」
「ぶじなら、よかった」
ほっと息をつく彼女に、ハオロンは笑顔を返した。
あいだのロキは無言でテーブルを見ている。誰も何も言わなかった。
襲撃者たちがどうなったのか、ティアも知らない。訊こうとも思わない。無事に解放したのなら良いが、違うのなら……知りたくはない。
配膳をととのえるためのロボットが動いていく。
ティアはメルウィンに尋ねた。
「今日は合成肉じゃないお肉かな?」
「ぁ、うん。セトくんが、帰って来たから……」
「大喰らいのひとが帰ってくると、苦労が増えるね?」
ティアが笑うと、向かいのセトが何か文句を言おうと口を開けた——が、その口から文句が出ることはなかった。
ティアの隣で、ガタンっと。勢いよく立ち上がった彼女の姿が、セトの目を引いていた。
配膳の途中で急に席を立った彼女に、セトだけでなく全員の目が流れた。
「……どうした?」
問いかけたのは、セト。
その問いに応えることなく、彼女の目は、セトの隣にいたロボットに向いている。セトの尋常じゃないオーダーに従って、ローストビーフを大量に切り分けている——ロボット。
食肉から目を離さない彼女に、ティアは(外にいたから、天然のお肉が久しぶりで嬉しい……わけ、ないよね?) 呑気な答えを思いついたが、見上げる先の表情は険しい。
セトの質問を無視したまま、彼女はぎこちなくロボットに向けて歩いていく。顔つきが戸惑いに満ちていて、自分でも自分を理解していないような——。
「……ウサギ?」
セトの呼びかけにも、疑問の目を向ける誰にも、応えることなく。
ロボットに寄った彼女は、ロボットが手にしていたペティナイフを——不意に奪い取った。
「おい、何して——」
「うごかないでっ……」
驚いたセトが立ち上がって手を伸ばそうとしたが、彼女は瞬時に身を下げていた。素早い動きで、懇願の声とともに。
ナイフを見つめていた瞳が、ぱっと跳ね上がった。蒼白の顔に、思い詰めた目が——混乱に染まっている。
ナイフを握る手が震え、その切先は、どこに向けるべきか分からないように宙をさまよっていた。
まるで泣きそうな顔つきに、動揺しながらもセトが近寄ろうとしたが、
「こないでっ!」
悲痛な制止が、大きく響いた。
「アリスさん……?」
近い位置にいたメルウィンも立ち上がろうとしたが、その動きを察した彼女が、反射的にナイフの先を自身の喉へと——
「ウサギ!」
セトの大きな声に、彼女の手がびくりと止まる。先端の触れた皮膚が、赤くじんわりと滲んだ。
中腰だったメルウィンは狼狽の表情で兄弟を見回し、兄弟の多くがメルウィンと同じタイミングで立ち上がっていたことを知った。
イシャンは装備のバトンに手を合わせているのが分かる。アリアは深刻な瞳を彼女に向けていて、ハオロンは困惑しながらも攻撃に転じる構えを見せている。ティアとサクラは席に着いたまま。
テーブルの上は、張り詰めた空気が支配していた。
「ウサちゃん、何やってんの……?」
立ち上がっていたロキが、普段よりも声量を落として問いかけた。
質問というよりは、自分自身の行動を確認させるための発言だった。慎重に様子をうかがうロキに、彼女の目がゆるりと向く。
混迷の瞳に、涙が浮いている。
「ロキ……」
「ナイフ、危ねェよ……? 離して下に置けねェ?」
「……はなせない」
「……なら、オレが取っていい?」
ナイフを首に合わせたまま、小さく首を振った。
「こないで。……きたら、ロキを……さしてしまう……」
血の気がなくなった唇が、震える声でこぼした言葉に、ロキは状況を掴んだようだった。
脳に埋められたチップによる、歪んだ衝動。
海上都市でやられたのか——今ごろ、どうして発動したのか。
答えは出ない。
ロキはセトと目を合わせた。
「(そっから止められる?)」
「(無理だ。踏み込んだら死ぬ気だ)」
彼女の握るナイフは、ためらいなく喉に突きつけられている。
近づく者を攻撃したくなる衝動なのだろうが、その衝動を抑え込むために自死を選ぼうとしていて、迷いながらも……決断しかけている。
動けずにいたティアが、かすれた声で彼女の名を呼んだ。
「……アリスちゃん、落ち着いて?」
「………………」
「せめてナイフを……もう少しだけ、離せないかな?」
彼女の耳にティアの言葉は届いているのか。開いた瞳孔は、細かく揺れている。
誰も動けない。
距離の近いメルウィンが、
「アリスさん……それは、だめです。ナイフを、離して……」
泣きそうな声で止めるが、彼女からの反応はない。唇だけが小さく動いて何か返した気がするが、音になっていない。謝罪だったかも知れない。
暗い眼には、何も映っていない。
切迫した空気に、音がなく。
絶望に似た沈黙のなか、ハオロンが訴えるように目を投げたのは——
「——誰も、動いてはいけないよ」
闇色の、静かな声。
そっと立ち上がったサクラに、動けない兄弟たちの目が集まった。
セトとロキが反応して、それぞれの顔に警戒を閃かせる。それらを牽制するように、サクラは視線を送った。
「あの子の命を救いたいなら、大人しくしていなさい」
微笑も冷笑もなく、色のない顔で言い聞かせてから、彼女に目を合わせた。
『——うさぎ』
掛けられたのは、柔らかな音だった。
共通語の強勢アクセントとは違い、穏やかな響きで発せられる、彼女の母国語。彼女に付けられたウサギではなく、彼女の知る言語での兎。
その音で彼女を呼ぶ者はいない。
しかし、記憶に深い言語を聞き取った彼女の瞳が、わずかに反応した。
『私の声が、聞こえているね?』
『……サクラ、さん……?』
『ああ。……私は今から、お前の近くまで進むが、ナイフの届く距離には足を入れない。そのままでいなさい』
『……でも』
『視覚が正常に機能していないね? 動いては危険だろう?』
『………………』
ゆっくりと、音を立てずにサクラが歩を進めた。
テーブルから離れて、彼女は壁に背が当たる距離まで下がっていた。立ち上がっていたセトやメルウィンよりも距離を詰めたサクラに、ナイフを握る手の力が強まる。彼女の揺れる瞳が、のろのろとサクラに向いた。
その瞳を見つめて、サクラは問いかけた。
『——私を殺したいか?』
すぐさま彼女が首を振った。
刃先が喉の皮膚をわずかに切ったせいで、目にしたセトが動きそうになったが、サクラの流し目によってとどまった。
即座に否定した彼女の応えに、サクラは淡く微笑みを浮かべた。
『そうか? お前には、私を殺す動機があるように思うが……?』
首を振る彼女の目は、正常ではない。開ききった瞳孔が、ぽっかりと空いた穴のように虚空を映している。
『ころしたくない、のに……ころさないと……あたまが、いたくて……おかしくなる……』
喉に張りつくようなカサカサとした声が訴え、黒い虚空から、涙がするりと流れ落ちた。
その涙を目で追ったサクラは、一瞬だけ微笑を収めたが——やわく唇を曲げて、もう一度、笑ってみせ、
『——そのナイフを、私に向けなさい』
彼女の目許が、ひくりと引き攣る。
サクラは、その目に向けて穏やかな声で諭した。
『お前が感じている衝動は、脳に埋められたチップによるものだ。私は似た状態を知っている。気が狂いそうなほど強い衝動だろうが——それは脳が錯覚しているだけで、お前の精神から来るものではない。強力な信号は、一度目的を達成すれば消えるだろう。一度でいい——私に向けて突き刺せば、脳が錯覚してその衝動は解ける』
『…………でも、』
『重傷にならないよう私が調整する。訓練を受けているのは、お前も知っているだろう? 私がお前に殺されることはないよ』
『…………でも、もし、』
『——私を信じられないか?』
開かれた唇が、何か言いたげに戦慄いた。
信じる——なんて、できない。わからない。あなたを知らない。
そんな答えは、サクラも理解している。
『——なら、私が家族を思う気持ちなら?』
『………………』
『私が、この子たちを残して死ぬと思うか? この子たちの前で? ミヅキを亡くしたときと同じような——絶望を、この子たちに与えると思うか?』
思い悩む表情のまま、しかし彼女は、小さく首を振ってみせた。
サクラが微笑む。まるで抱擁を待つかのように、彼はそっと両手を差し出した。
『——おいで』
闇に馴染むような声が、甘く——何よりも優しく、誘った。
激しい痛みと、死の選択に追い込まれた彼女の頭のなかで。
その優しい響きだけが、救いの手を差していた。
窓側ラインにはメルウィンから始まり、ティア、彼女、ロキ、ハオロン。向かいの廊下側ラインは、メルウィンの前にセト、そこからイシャン、サクラ、アリア。
久方ぶりの光景に、ティアは(しっくりくる……)謎のフィット感を得ていた。
長らく失われていたこの感覚。しかし、ティアの感想に反して、右手に見えるセトの表情は微妙だった。帰宅後のセトとの会話からするに、彼はまだ迷っているようす。
自分勝手にハウスを出て行きながら、戻って来た——そんな引け目も察せられる。
それでも戻って来たということは、それなりの理由があるのだろう。推測するのはやめておいた。
各人が夕食のオーダーをしている。
ひとあし早く終えた彼女が、右手のティアに向けて、
「あの……まがりーは……?」
ひやりと、息を止めた。
動作が止まったのはティアのみでなく、メルウィンはあからさまに硬直し、目を他の兄弟に回していた。
誰も、真実を彼女に告げていない。
(……僕が話すの?)
例のごとく嫌な役回りを負わされたティアが、短く嘆息して口を開こうとしたが、テーブルには先に明るい声が響いた。
「ありすは知らんかったんかぁ? うちら、マガリーを送り届けたあとに襲撃されたんやよ?」
鮮やかな嘘に、メルウィンの目はハオロンへと流れる。メルウィンからハオロンは見えない。
セトが片眉を上げ、認識のずれに疑問を持っている。その他の者はハオロンに目を向けなかった。
彼女はロキ越しにハオロンを振り返り、
「まがりーは、ぶじだった?」
「無事やよ。ハウスに縁がないコミュニティやから、連絡は取れんけどの」
「ぶじなら、よかった」
ほっと息をつく彼女に、ハオロンは笑顔を返した。
あいだのロキは無言でテーブルを見ている。誰も何も言わなかった。
襲撃者たちがどうなったのか、ティアも知らない。訊こうとも思わない。無事に解放したのなら良いが、違うのなら……知りたくはない。
配膳をととのえるためのロボットが動いていく。
ティアはメルウィンに尋ねた。
「今日は合成肉じゃないお肉かな?」
「ぁ、うん。セトくんが、帰って来たから……」
「大喰らいのひとが帰ってくると、苦労が増えるね?」
ティアが笑うと、向かいのセトが何か文句を言おうと口を開けた——が、その口から文句が出ることはなかった。
ティアの隣で、ガタンっと。勢いよく立ち上がった彼女の姿が、セトの目を引いていた。
配膳の途中で急に席を立った彼女に、セトだけでなく全員の目が流れた。
「……どうした?」
問いかけたのは、セト。
その問いに応えることなく、彼女の目は、セトの隣にいたロボットに向いている。セトの尋常じゃないオーダーに従って、ローストビーフを大量に切り分けている——ロボット。
食肉から目を離さない彼女に、ティアは(外にいたから、天然のお肉が久しぶりで嬉しい……わけ、ないよね?) 呑気な答えを思いついたが、見上げる先の表情は険しい。
セトの質問を無視したまま、彼女はぎこちなくロボットに向けて歩いていく。顔つきが戸惑いに満ちていて、自分でも自分を理解していないような——。
「……ウサギ?」
セトの呼びかけにも、疑問の目を向ける誰にも、応えることなく。
ロボットに寄った彼女は、ロボットが手にしていたペティナイフを——不意に奪い取った。
「おい、何して——」
「うごかないでっ……」
驚いたセトが立ち上がって手を伸ばそうとしたが、彼女は瞬時に身を下げていた。素早い動きで、懇願の声とともに。
ナイフを見つめていた瞳が、ぱっと跳ね上がった。蒼白の顔に、思い詰めた目が——混乱に染まっている。
ナイフを握る手が震え、その切先は、どこに向けるべきか分からないように宙をさまよっていた。
まるで泣きそうな顔つきに、動揺しながらもセトが近寄ろうとしたが、
「こないでっ!」
悲痛な制止が、大きく響いた。
「アリスさん……?」
近い位置にいたメルウィンも立ち上がろうとしたが、その動きを察した彼女が、反射的にナイフの先を自身の喉へと——
「ウサギ!」
セトの大きな声に、彼女の手がびくりと止まる。先端の触れた皮膚が、赤くじんわりと滲んだ。
中腰だったメルウィンは狼狽の表情で兄弟を見回し、兄弟の多くがメルウィンと同じタイミングで立ち上がっていたことを知った。
イシャンは装備のバトンに手を合わせているのが分かる。アリアは深刻な瞳を彼女に向けていて、ハオロンは困惑しながらも攻撃に転じる構えを見せている。ティアとサクラは席に着いたまま。
テーブルの上は、張り詰めた空気が支配していた。
「ウサちゃん、何やってんの……?」
立ち上がっていたロキが、普段よりも声量を落として問いかけた。
質問というよりは、自分自身の行動を確認させるための発言だった。慎重に様子をうかがうロキに、彼女の目がゆるりと向く。
混迷の瞳に、涙が浮いている。
「ロキ……」
「ナイフ、危ねェよ……? 離して下に置けねェ?」
「……はなせない」
「……なら、オレが取っていい?」
ナイフを首に合わせたまま、小さく首を振った。
「こないで。……きたら、ロキを……さしてしまう……」
血の気がなくなった唇が、震える声でこぼした言葉に、ロキは状況を掴んだようだった。
脳に埋められたチップによる、歪んだ衝動。
海上都市でやられたのか——今ごろ、どうして発動したのか。
答えは出ない。
ロキはセトと目を合わせた。
「(そっから止められる?)」
「(無理だ。踏み込んだら死ぬ気だ)」
彼女の握るナイフは、ためらいなく喉に突きつけられている。
近づく者を攻撃したくなる衝動なのだろうが、その衝動を抑え込むために自死を選ぼうとしていて、迷いながらも……決断しかけている。
動けずにいたティアが、かすれた声で彼女の名を呼んだ。
「……アリスちゃん、落ち着いて?」
「………………」
「せめてナイフを……もう少しだけ、離せないかな?」
彼女の耳にティアの言葉は届いているのか。開いた瞳孔は、細かく揺れている。
誰も動けない。
距離の近いメルウィンが、
「アリスさん……それは、だめです。ナイフを、離して……」
泣きそうな声で止めるが、彼女からの反応はない。唇だけが小さく動いて何か返した気がするが、音になっていない。謝罪だったかも知れない。
暗い眼には、何も映っていない。
切迫した空気に、音がなく。
絶望に似た沈黙のなか、ハオロンが訴えるように目を投げたのは——
「——誰も、動いてはいけないよ」
闇色の、静かな声。
そっと立ち上がったサクラに、動けない兄弟たちの目が集まった。
セトとロキが反応して、それぞれの顔に警戒を閃かせる。それらを牽制するように、サクラは視線を送った。
「あの子の命を救いたいなら、大人しくしていなさい」
微笑も冷笑もなく、色のない顔で言い聞かせてから、彼女に目を合わせた。
『——うさぎ』
掛けられたのは、柔らかな音だった。
共通語の強勢アクセントとは違い、穏やかな響きで発せられる、彼女の母国語。彼女に付けられたウサギではなく、彼女の知る言語での兎。
その音で彼女を呼ぶ者はいない。
しかし、記憶に深い言語を聞き取った彼女の瞳が、わずかに反応した。
『私の声が、聞こえているね?』
『……サクラ、さん……?』
『ああ。……私は今から、お前の近くまで進むが、ナイフの届く距離には足を入れない。そのままでいなさい』
『……でも』
『視覚が正常に機能していないね? 動いては危険だろう?』
『………………』
ゆっくりと、音を立てずにサクラが歩を進めた。
テーブルから離れて、彼女は壁に背が当たる距離まで下がっていた。立ち上がっていたセトやメルウィンよりも距離を詰めたサクラに、ナイフを握る手の力が強まる。彼女の揺れる瞳が、のろのろとサクラに向いた。
その瞳を見つめて、サクラは問いかけた。
『——私を殺したいか?』
すぐさま彼女が首を振った。
刃先が喉の皮膚をわずかに切ったせいで、目にしたセトが動きそうになったが、サクラの流し目によってとどまった。
即座に否定した彼女の応えに、サクラは淡く微笑みを浮かべた。
『そうか? お前には、私を殺す動機があるように思うが……?』
首を振る彼女の目は、正常ではない。開ききった瞳孔が、ぽっかりと空いた穴のように虚空を映している。
『ころしたくない、のに……ころさないと……あたまが、いたくて……おかしくなる……』
喉に張りつくようなカサカサとした声が訴え、黒い虚空から、涙がするりと流れ落ちた。
その涙を目で追ったサクラは、一瞬だけ微笑を収めたが——やわく唇を曲げて、もう一度、笑ってみせ、
『——そのナイフを、私に向けなさい』
彼女の目許が、ひくりと引き攣る。
サクラは、その目に向けて穏やかな声で諭した。
『お前が感じている衝動は、脳に埋められたチップによるものだ。私は似た状態を知っている。気が狂いそうなほど強い衝動だろうが——それは脳が錯覚しているだけで、お前の精神から来るものではない。強力な信号は、一度目的を達成すれば消えるだろう。一度でいい——私に向けて突き刺せば、脳が錯覚してその衝動は解ける』
『…………でも、』
『重傷にならないよう私が調整する。訓練を受けているのは、お前も知っているだろう? 私がお前に殺されることはないよ』
『…………でも、もし、』
『——私を信じられないか?』
開かれた唇が、何か言いたげに戦慄いた。
信じる——なんて、できない。わからない。あなたを知らない。
そんな答えは、サクラも理解している。
『——なら、私が家族を思う気持ちなら?』
『………………』
『私が、この子たちを残して死ぬと思うか? この子たちの前で? ミヅキを亡くしたときと同じような——絶望を、この子たちに与えると思うか?』
思い悩む表情のまま、しかし彼女は、小さく首を振ってみせた。
サクラが微笑む。まるで抱擁を待つかのように、彼はそっと両手を差し出した。
『——おいで』
闇に馴染むような声が、甘く——何よりも優しく、誘った。
激しい痛みと、死の選択に追い込まれた彼女の頭のなかで。
その優しい響きだけが、救いの手を差していた。
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