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Chap.15 A Mad T-Party
Chap.15 Sec.2
しおりを挟むひらめいた瞬間は、これしかないと思った。共に逃げてしまえば、毒を飲むことも、セトを犠牲にすることもない。これ以上の手段なんてないと思えた。——あの瞬間は。
——ウサギちゃん、愛してるって言って?
地球の眼をした彼のことなんて、頭になかった。セトが本当に逃げてくれるかどうかや、ハウスから逃げることはできるのか、そもそもセトは、私のせいで逃げるくらいなら私を犠牲にしたいと思うのでは……そんな根本的な問題より、セトを連れ出してしまうことがロキにとってどんな意味を持つか。知っているつもりだったのに、あんな提案をした。助けてもらっているのに、裏切るようなことを——。
私は所詮、自分のことばかりだ。
「——お口に合いませんでしたか?」
小さなカップに収まったエスプレッソを見ていた。黒い水面に浮かぶ、柔らかなクリームのような細やかな泡。かけられた声に顔を上げると、透きとおるビー玉に似た眼がこちらを見ていた。
「いいえ、……おいしいです」
答えて、おままごとみたいなサイズのカップに口をつけた。斜め位置に座るアリアが、唇を優しく曲げて微笑んだ。今夜はアリアの順番だった。
あれからセトとは二人きりになっていない。翌朝、食堂で顔を合わせたときに何か言いたげだったが……訊かれてはいない。ごまかせたのか分からないが、その後もセトが言及してこなかった理由のひとつとして、彼は現在ハウスにいない。サクラも、加えてハオロンも。2日前から彼らは外に出ている。たぶん例のマンボウみたいな車で。出発の日にハウスのすぐ外に停まっていて、ロボットが物を運んでいるのを見かけている。食卓では外出の話がときおり出ていたので、そう珍しいことではないらしい。ぎりぎりまでイシャンも行くかどうか話し合っていた。行かなかったのは、私を警戒しているからだと思う。それくらいは、会話の端々から察せられた。
「……何かお悩みでも?」
砂糖の入ったエスプレッソを飲みきると、アリアの気遣う目がこちらをうかがっていた。
「もしよければ……話してみませんか? 解決しなくとも、話すだけで楽になることもありますから」
「……〈なやみ〉は、なにも、ないです」
「……私ではお役に立てませんか?」
光を取り込んだ、きららかな眼。ひかえめな哀しみを帯びると、何か悪いことをしたような気持ちにさせられる。
しばらくのあいだ迷っていたが、見つめられているのに耐えられず、
「わたしは、じぶんのことばかり……それが、」
言葉が分からなくて、止まる。情けない? ふがいない? しっくりくる単語をどう言うべきか分からず、「きらい……です」幼児のような言葉しか出てこなかった。いつもながら会話の程度が低い。時間のあるときは勉強しているが、圧倒的に語彙が足りない。
幼い言葉を、アリアは笑うことなく考えてくれている。
「自己中心的な自分が嫌いだと? お姫様は、そのことで悩んでいるのですか?」
「……はい」
悩んでいることは他にもあるけれど、話せない。しかし、すべてを突き詰めるとそこにいき着くかも知れない。追い込まれると、逃げたくなる。そういうとき、私は自分のことしか考えられない。
「自己中心……それは、いけないことですか?」
「……?」
「世界がどれほど変わっても、私たちは自分自身を中心に生きていますよ。——けれども、それは、それほど赦されない行為でもないはずです」
アリアが首を傾けると、暗い色をした髪がさらりと揺れる。綺麗な髪に、つい目がいってしまう。
「自分のことばかり——と言いましたが、自分を大切に思うことは、生きるうえで大事ですよ」
「………………」
「それに、自分を大切にすることが、他者を大切にできることに繋がりませんか?」
「……わたしは、だれかを、たいせつに……できて、ない」
「そうでしょうか?」
「……?」
「私には、お姫様が誰かを大切にしているようすを、見る機会がありましたよ」
やわらかく微笑したアリアの、明るいブルーの眼が細まった。
「メルウィンさんが、ロキさんから責められていたとき——お姫様は、護ろうとしましたよね?」
「……ぱんの、じっけんの……とき?」
「はい、そのときですね」
「………………」
「私は、お姫様とあまり時を共にしていません。——ですから、私が知らないだけで、もっと沢山あるはずです。貴方が、誰かを護ろうとしたときが……きっと」
「……おおきなことは……できて、ない」
「ささやかでもいいと思いますよ。私たちは、出会ってまだ日が浅いのですから」
「………………」
優しくいたわりのある言葉が、アリアの低く澄んだ声にのって胸に届いてくる。彼らを大切にしたい、護りたい——なんて、思っていないつもりだった。セトを護りたい気持ちはあったけれど、何もできていない。護れるほどの立場でもない。
「……納得いっていないようですね?」
困ったようなアリアの顔に、同じような顔を返していた。いたたまれず、空になったカップに目を落とす。茶色の泡がこびりついている。
「では……とっておきの、“おまじない”を」
聞き慣れない単語に目を上げると、いたずらっぽい笑みが、くすりと。アリアはゆっくりと立ち上がって、離れたところにあった棚へと進んだ。上に置かれていた小箱を開き、きらりと光るネックレスのようなものを手にした。私の目が彼の手中に向いていることに気づいて、
「これを……ご存知ですか?」
革紐の先が、ぶら下がる。10センチには満たないサイズ感。雪の結晶に見える、透明な氷のようなペンダント。知っているかと訊かれた。もちろん雪は知っているが……
「……ご存知ないようですね? 実はこれは、このハウスに持ち込んではいけない物なのです」
「……だめな、もの?」
「ハウスでは、神様を信じてはいけないのですよ」
「……かみさま」
「それに準ずるものも、然りです。ですので……ここから先の話は、秘密にしてくださいね?」
真剣な顔で話していたかと思うと、人さし指をたてて茶目っけにウィンクした。こういうときのアリアは、すこしだけティアを思い出させる。「はい」頷いてみせると、アリアは席に戻りながら話し始めた。
「氷の結晶には、不思議な力があるのです。このペンダントに祈りを捧げれば、心健やかに。懺悔を唱えれば、心穏やかに。信じる者に救いをくれる、お守りなのですよ」
演技がかった表情で、歌うように。なんだか愉しそうな響きの声で、席に座る前に私の手のなかへと、そっとペンダントを授けてくれた。ひんやりとした触り心地。氷のような質感。
「お姫様は、私たちには分からない言語を身につけていますね? ——どうぞ、そちらの言葉で悩みや願いを唱えてみてください。自分が至らないと思うことを、懺悔してくださっても構いません」
そう言って、アリアは目を閉じた。
与えられた〈お守り〉を見つめる。透明だが表面はうっすら白く、本当に氷のようだった。むげにする勇気もなく、それを見つめたまま、
『……逃げたい』
——代わりに、その身体をもらおうか。
『……約束も、』
——セトの罰を代わりに受けるという話を、忘れたわけではないな?
『……大切なことも、ぜんぶ、投げ出して、』
——ボクが、助けてあげようか?
『逃げてしまいたい……』
耳に残る夢のような声が、ロボットに凌辱された夜、頭のなかで囁いた。幻聴だと言い聞かせていたのに、どうしても——確かめたくて、気づいたら外に行こうとしていた。
セトに会わなかったら、幻を追って探し回っていたかも知れない。
ここでやっていこうと決めて、自分のできることを見つけて、前を向こうとするけれど……サクラと向き合うと、心がくじけていく。自分の価値が分からなくなる。存在意義なんて、なにひとつ無いように思えてしまう。
『……ごめんなさい』
口からこぼれ落ちた気持ちは、願いと懺悔の両方だった。叶わないと分かっていても、そんなことを思ってしまう自分がいることを——誰かに謝って、赦してほしい。
アリアは、静かに聞いていた。言葉の意味は分からないだろうけれど、私の言葉が終わったと知って、その鮮やかな青い目を開いた。
「……いかがでしょう?」
「………………」
「効果をあまり感じませんか?」
「いいえ……すこし、きもちが、よくなった」
「それはよかった。打ち明けて言いますが、この“おまじない”の真の呪力は遅効性なのです」
「……ちこうせい?」
「ええ」
アリアの両手が、空間へと差し伸ばされる。そこに何か、見えない氷の結晶があるかのように。
「——とくに、負の感情については、すぐには効果が現れません。……懺悔は氷の結晶に。後悔も、罪も、悲しみも——凍らせて、いつか、乗り越えればよいのです。今はまだ辛くとも、いつか雪解けの日が来るよう——願いましょう」
アーメン、とでも言いそうな流れだったけれど、アリアは笑うだけだった。優しく、哀しく、親しみをこめて。隣人を愛するような博愛のほほえみ。けれども、隣人ではなく自分と重なるような……親近感を覚えるのだから、不思議だ。
穏やかな声で、アリアは問いかける。
「気分転換に、音楽でもかけましょうか。お姫様、オペラはお好きですか?」
流れる音楽は、重厚な響き。
雨音にまぎれて聞こえた幻の残響を、いっときだけ忘れられそうだった。
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