【完結】致死量の愛を飲みほして【続編完結】

藤香いつき

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Chap.14 純白は手折りましょう

Chap.14 Sec.16

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 夜の風が、ほてった肌をひんやりと冷やしていく。セトは心地よさに目を閉じた。運動後の身体に生まれる軽い疲労感。不快はない。うっすらとした汗の気化熱によって、肌表面の温度がさらわれていくのは爽快だった。

——なんでやってぇぇぇっ!

 閉じたまぶたの裏、頭の片隅に残るハオロンの嘆きを思い出して、苦笑の吐息をもらす。セトはハオロンの誘いを断っていた。セトだけでなく、ロキを除いた全員。

——僕、明日の朝は、ポタジェの管理があって……。
——僕もむり。寝不足で肌の調子がわるいし、体調くずしちゃいそう。
——俺も森の見回りしねぇと。

 夕食時、それぞれが用意してきたと思われる言い訳とともに、メルウィン、ティア、セトの順に断りを入れた。悲しみに騒ぐハオロンがアリアとイシャンにもすがったが、

——研究の過程を見たいので、今夜は……すみません。
——ゲームをするつもりはない。

 取りつく島もない。ロキだけが「“文字”が運べるか試す」と、いつになくやる気だった。ハオロンは正解を知っているような気もするが、あえて訊かないのか教えないのか。そして、ふたりきりでゲームは成り立つのか。成り立ったとして、それは面白いのか。想像してみるが……イマイチ。(ミヅキを入れれば楽しめるか?)ひょっとするとAIの敵を相手に、ふたりでやっているかも——

 セトは早朝のジョギング代わりに、森の見回りを兼ねた運動をしていた。走り終えた頭で考え事をしながら、ハウスに入ろうとドアに手をかざした。静かな夜。虫の鳴き声さえ聞こえない。静寂のなか重々しく開くドアのあいだを、通ろうとして、

「——うぉっ!」

 変な声が出た。驚愕きょうがくするセトの目の前には、どうやっても予想不能な彼女が、凍りついたように立っていた。
 セトと目が合った彼女は、びくついた身体で逃げようと——したように見えたが、半歩さげた足はそれ以上動かない。呼吸を忘れたかのように硬直している。

「……お前、こんな所で……何してんだ」

 とりあえず無難な質問を。過剰に驚いてしまったのはなかったことに。

「外……行くのか?」
「………………」
「その格好じゃ寒いぞ。上着かなんか……」

 着ろよ。言おうとしたが、ウサギには私室がない。服を呼び寄せてやるべきか。
 逡巡しゅんじゅんした1秒の間に——なぜか、涙が。ぎょっとしたセトに構わず、瞬くまに黒い眼を覆ったかと思うと、ぽろぽろとこぼれ出した。

「はっ? ……お、おいっ、なんでだよ!? 何もしてねぇだろっ?」

 遭遇したときよりも動揺するセトの前で、彼女はせきを切ったように泣き始めた。セトの言い分は頭に入っていない。しかし、責めるような響きだけに反応して、あふれる涙を隠そうと思ったのか、顔を背けてその場を去ろうとした。
 逃げようとする彼女を追うべきかどうか。セトは迷うことすらしなかった。反射で彼女の腕を掴んでいて、涙にれた顔をのぞきこみ、

「なんでいきなり泣くんだよ。俺は怒ってねぇのに——怒ってると思ってんのか?」

 昨夜は、こちらを見下ろしていた顔。正しい位置に戻った途端こんなふうに泣かれる理由はない、はずだ。ならば他に理由が?

「どうしたんだよ? どっかいてぇのか? ……俺の言葉わかってんだろ? 理由くらい言えるだろ?」

 翻訳機は正しく彼女の耳にある。懸命に伝えてみるが、目を合わせようともしない。彼女からは何も分からず、セトの思考が別のところに飛ぶ。今夜のはサクラだと、思い出した。

「……サクラさんと、なんかあったのか?」

 口から出た名前に、ぱっと彼女の目がセトを捉えた。

「——そうなんだな? どうした? 泣くようなことされたのか?」
「…………ちがう」
「違う? 何がだ?」
「……ちがう、なにも、ない……なにもないから……」
「何もなくねぇだろ。そんな泣いてんのに、何が違うんだよ」
「………………」
「サクラさんに何か言われたのか? 酷いことされたのか? ……ちゃんと言ってくれ。俺がどうにかしてやれるかも知んねぇだろ?」

 腕を掴んだ手とは反対の手で、濡れた頬に触れようとした。流れる涙をぬぐうため、無自覚に。

「俺にできることはしてやるから……泣くなよ」

 頬に触れる前に、彼女の手が、セトの手を取った。拒絶ではなく、すがりつくような掴み方で、手を握られていた。
 どきっ、と。心臓が跳ね上がる。ゲームのなかで手を取られたときと同じなのに、それよりもずっと柔らかな温もりが、心を揺らした。
 重なった視線。思いつめたような瞳の下、涙の流れ込んだ唇が開き、

『——私と、一緒に……逃げて』

 かすれた声で、急に、暗号のような言葉を。

「…………は?」
「………………」
「……いや、お前、いま多分……違う言語で喋ったんじゃねぇか?」

 濡れた目が、一度まばたいた。せっぱ詰まった顔だったのが、その一瞬で——何かを取り戻したみたいに、表情を消した。握られていた手が、そっと解放される。血の気の引いた真っ白な顔が、暗いエントランスで奇妙なほど浮いている。

「……もう一度、俺の分かる言葉で喋ってくれるか?」

 翻訳機から流れる言語に対して、そのまま返してしまったのだろう。感情が先走ったせいで考える余裕すら持てなかった。そう気づいて言語の切り替えを促したが、白い顔は首を振り、

「……なんでもない」
「は? いや、なんでもなくねぇだろ。今なんか言ったじゃねぇか」
「………………」
「なんて言ったんだよ?」
「……いきなり、ないて……ごめんなさい」
「そんなこと言ったのか? 別の話か? 俺は、お前がさっき言った……何語か分かんねぇやつを言ってくれって頼んでるんだぞ? ちゃんと分かってるか?」
「……わかって、ます」
「なら……」
「わたしは、ごめんなさい、と……いった。ないて、ごめんなさい。……それしか、いってない」
「……ほんとか?」
「ほんとう」
「………………」

 に落ちない。あれが、謝っている顔だっただろうか。

「……なら、泣いた理由は」
「………………」
「サクラさんに、なんかされたんだろ?」
「ちがう」
「違わねぇ。それくらいはこっちも分かってんだよ」
「ちがう、なにもない」
「………………」
「……すこし、つかれただけ。きのう、げーむ……いっぱいしたから。つかれたから、ないた……だけ」
「……お前な。そんな言い訳で俺が納得すると思ってんのか?」
「……ほんとうに、なんでもない。つかれたから、そとで……そとに、すこしだけ、でたいとおもった。……そうしたら、せとがいて、おどろいただけ」
「………………」
「だいじょうぶ、なんでもない。もう、なかない。へいき。……しんぱい、ありがとう。おやすみなさい」

 知ってる言葉を思いつくまま並べたかのように。こちらが黙っているのを良しとして勝手に話を終わらせ、どこかへ行こうと——したが、掴まれていた腕が放されないことに困惑を見せた。

「……おやすみなさい?」
「まだ話は終わってねぇ」
「………………」
「なんで泣いたか、納得いく理由を言え」
「……ほんとうに、りゆうは、ない。……もう、だいじょうぶ」
「嘘つけ。大丈夫なやつはそんな目してねぇんだよ」

 薄い赤に染まった眼が、小さく揺れる。大したことなんて何もなかった——と言い張れるほど、その頬はまだ乾ききっていない。

「なんで隠すんだ? 俺じゃ話せねぇのか?」
「……つかれた、だけ。……だから、わたし、へやに……もどりたい」
「お前に戻る部屋なんてねぇだろ」
「……もどるへや、ある。……ろきは、いれてくれる」

 ——また、ロキか。
 馬鹿のひとつ覚えみたいに何度も何度も。パチっと弾けた苛立ちが、冷静な思考に降りかかる。

「……おやすみなさい」

 再度、念を押すように告げられた。力の入った細い腕は自ら拘束を解くつもりなのか、後ろに下げるようにして引かれた。——でも、離せない。

「……せと?」
「…………行くな」

 セトの乱された思考は、強い意思によって沈着した。——怖がらせたくない、その一心だけで。

 今ここで会ったのには理由がある。前にも似たようなことを経験している。あれもサクラの日だった。サクラと何かあった。それはもう——間違いない。それならロキのところに行けばいいのに、外に行こうとしていた。——なぜ、外に? 自分を捜していたと仮定するのは、図々しいとしても……ロキじゃない。ロキに頼る気なんてなかった。誰かに頼る気なんてはなからない——なのに、自分から手を取った。1秒でも——こっちを頼ろうとした。

「ロキなら——ハオロンと、ゲームだろ。行っても相手してくれねぇよ」
「……わたし、ろきのへやは……ひとりで、はいれる……」
「知ってる。……相手してくれないのに、ロキのそばがいいのか?」
「…………?」
「戻る場所なら——俺でも、いいだろ」

 自分が何を言っているのか分かっていない。距離を縮めてもひるむことなく見上げてくる顔が——昨日は、もっとそばにあった。身長の問題でなく、自分から顔を寄せて気軽に近づいてきていた。そのせいか距離感が——麻痺まひしている。

 逃げるものを追ってしまうのと、同じ無意識。掴んだ腕を引き寄せ、その身体を抱きしめていた。
 細い。きっと思いきり力を入れれば、簡単に痛めてしまう。力加減が分からない。気持ちのままに抱きしめるなんて——できない。

「……俺が必要としたら、俺のとこに来てくれんのか?」

 顔は見えない。あご下に収まった頭は、抵抗することなくじっとしている。言葉に集中しているかのような、疑っているかのような。その様子を感じて、自分が今なにをしているのか理解した。
 “要らない”と告げた過去に矛盾している。だからこそ、言葉ひとつ誤れば……おそらく離れてしまう。倫理的な正解ではとどめておけない。

——“損してる”っていう感覚に、セト君の本性が出てるよね。

 ティアの忠告など、聞こえない。

「俺は、お前が欲しい。だから——俺のとこに来い。どこにも行くな」

 断れないことを知っている。そのうえで吐くセリフが、どれほど卑怯ひきょうかも分かっている。セトは一度この腕を引き止めて、彼女の運命を狂わせている。
 それでも——離したくない。誰かのところへ行かせたくない。

 腕の中から、確かめるような声が聞こえた。

「……せとは、わたしが……ひつよう?」
「……ああ」

 顔が上がる。黒いふたつの眼が、金の眼をうかがう。恐れはない。ただ静かに、確認したかと思うと、

「それなら……どうぞ」

 あっさりと受け入れられたことが、セトの胸に複雑な感情を生んだ。後悔や羞恥しゅうちを含んだ、負の感情もあった。ただ、それよりも——嬉しさに近い気持ちのほうがまさっていた。
 だから、セトの頭に今さら取り消すなんてつもりは毛頭ない。なにか大切なものを踏みにじっていることにも気づいていない。同じ過ちを、くり返していることも。

——セト君は、ほんとうは、何を望んでるの?

 表面だけ取りつくろった偽善は、たやすく折れる。
 欲しい、離したくない、誰かに渡したくない。そんな表層的な欲しか自覚がないのに、本当の望みなど分かるはずもなかった。
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