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Chap.5 溺れる涙
Chap.5 Sec.9
しおりを挟むカプセルの中で体を横たえたまま、全面がぼんやりと明るいふたの部分を見つめていた。私はどれくらいこうしているのか、時間を示すものが無いせいで判然としない。数時間は経過していると思う。疲労感が薄れているので、もしかすると、うつらうつらしていた時間があったのかも知れない。
息を殺していると自分の鼓動が聞こえそうなくらい静かで、この世界に独りきりだと錯覚できた。
ここにいろ。そう指示されたと思っているのだが、セトは一向に戻ってこない。性行為をする直前でやめた理由も判明していない。また何か怒らせたのかも知れないし、私が嫌になったせいで性欲が湧かなかったのかも知れない。その両方が合わさっている可能性もある。返せるものがこれくらいしか無いのに、性欲の対象でなくなったら、どうなるのだろう。見捨てられる、のか。
そろりと上体を起こした。
心細さから、リビングにいるだろうティアのもとへ行ってみようかと思ったが、セトの鋭い目が浮かんで判断に迷う。ティアだけでなく、セトもリビングにいる可能性がある。ひょっとすると、サクラやイシャンも。それならばここにいたい気持ちが強いが、逃げていても状況が改善されるわけではない。彼らの住まう場所に着く前に——ほかの仲間と合流する前に、サクラともう一度話しておきたい。
遠くでゆらめく恐怖から目をそらして、立ち上がった。ふたはなめらかに開き、なんの障りなくベッドから降りることができた。周囲のカプセルベッドに目をやって確認すると、うまっているのは上段のひとつだけ。カプセルの横に刻まれた番号(これを把握したのは昨日だが)から見るに、ティアの物が使用されているらしい。僕は眠らないよ、みたいなことを言っていた気がするのだが、それは私の勘違いであのあと眠ったのだろうか。
できることなら、ティアがいてくれたほうが心強かったのだが、仕方ない。いたところで直接的に支援してもらえるわけではないと、そう自分に言い聞かせてリビングへと向かった。
§
「あ。アリスちゃん、おはよ~」
かろやかな声と、キッチンから見えた様相に疑問を覚えた。
真っ先に目が合ったのは、こちらを向いてテーブルに座っていたティアだった。薄い水色の袖から掌が見えている。ティアの手の振り方(振っていると言っていいのだろうか?)はいつも独特で、小指から順に、ピアノを弾くみたいに指先だけがひらりと動く。可愛いらしい仕草だった。
テーブルと反対の左手には、ソファに横座りして本を読むサクラがいた。白い着物に包まれた足はこちらに向いていて、薄い眼鏡の隙間から、青い眼が一度だけ私の顔を捉えた。それはすぐにまた本へと戻って、何事もなかったかのように動かなくなった。
ディスプレイの前にも人影があったが、ヘッドフォンのような物をつけたその人物は振り返らない。セトではなくイシャンに見える。そうすると、寝ているのはセトということになる。考えてみると昨夜から彼は眠っていないのだから、当然の帰結と言えた。なぜティアのカプセルで? という疑問が浮かぶが、私から離れたかったのだと思うと納得がいく。私を追い出せばよかったのに。よく分からないところで気を遣われている。
「ちょうどよかった。……ね、一緒にお茶しようよ」
立ち上がったティアのセリフは簡単に理解できた。紅茶。本当にこのワードだけはもうなんの引っかかりなく聞き取れる。きっとティアは紅茶しか飲まない主義なのだと思っていたけれど、先ほど炭酸ジュースも飲んでいたので違うらしい。
「……はい」
「うん、じゃ、ちょっと待ってて……あれ? うしろ、ほどけてるね」
にこっと破顔したティアは、私の肩をぽんっとたたいてキッチンに向かおうとしたが、背後のリボンに気づいたようで、結び直してくれた。どことなくテンションが高い。キッチンの棚を触りながら、鼻歌でやわらかなメロディーを奏でる横顔をしばらく見ていたが、サクラと話すなら今のうちか、と。視線をソファへと戻した。
一歩。足を踏み出して、彼のそばまで近づく。
『——サクラさん』
声のトーンを落として、確かな発音で。
感情を見せてはいけない。見下ろしたまま、恐れなど一切感じていない自分を、演じなくては。
私の呼び声に、サクラの青い眼が反応した。おもむろに視点だけこちらに合わせたが、口を開く気はないようだった。
『お話が、あります。聞いていただけますか?』
返事はない。ただ、眼鏡をはずし、手にしていた本を閉じた。耳を貸すと捉えていいのか。深いブルーの虹彩は不動のまま。
意を決して、口を開いた。
『最初の約束を……撤回させてください』
サクラの唇の端に、ふっと微笑が浮かんだ。しかし反応はそれだけで、何か言葉を発する気配はない。かまわない。耳を傾けてもらえるのなら、ためらうことなく続けるだけだ。
『……性交渉は、受け入れます。それ以外でお役に立てない以上、相手が誰であっても、抵抗はしません。……でも、それ意外は……約束にありません。抵抗できないように拘束したり、乱暴な扱いをしたりするなら……それなら、ここに置いていただく必要は、ありません。……出ていきます。約束は、取り消してください』
目をそらさずに、すべてを言いきった。声が震えることはなかった。最悪の場合、出ていけばいい。その選択肢だけが、今の私を支えている。
口を挟むことなく聞いていたサクラは、本と眼鏡を傍らの小さなテーブルに置き、足を床に降ろした。着崩れた着物の下に穿かれていた、黒いボトムスの脚を組み、
『何か、勘違いをしていないか?』
青い眼で私を見すえると、冷たい響きで問いかけた。
胸にひろがる動揺を抑えこみ、視線を動かさず『なにが、ですか』言葉を返す。サクラはソファの肘置きに腕をのせて、自身の指先に視点を移した。
『お前と交渉はしない。待遇に不満があるなら、出て行ってくれ』
あっさりと告げられたサクラの言葉に、返す言葉をなくした。思わず余計な感情があふれそうになったが、手を強くにぎって堪える。交渉が無駄なら、この強がりは無意味かも知れない。
そんな私の心情を読んだのか、サクラは首をわずかに傾けて、こちらを覗きこむように見上げた。
『引き止めてもらえるとでも、思っていたか?』
憐れむようなその微笑に、心臓がぎゅっと、冷たく握られたみたいに痛んだ。
かけひきなんて、この人には通じない。そう思い知らされるほど、冷ややかで恐ろしい瞳が、心の奥底まで覗いている。
観察するような見方はティアと似ているのに、本質が違う。
このひとは、なぜこんなにも冷たい目をしているのか。
勘違いでなければ、出会ったときからずっと、憎しみのような悪意を向けられている。
『それなら、出ていきますっ……』
勢いで、残されていた手札を切った。
いや、もうこれは、最後の手段でもなんでもない。交渉において、おそらく無駄でしかないが、それでもいい。——このひとの許にいては、いけない気がする。
「…………どうしたの?」
ふわりと、甘い香りがした。
振り返ると、すぐ後ろでティアがお茶の用意を抱えて立っていた。困った顔で私とサクラを交互に見ている。説明する言葉を、私はもっていない。
ティアから目をそらして、サクラに視線を戻した。
『……車を止めて、ドアを開けてください』
『その前に、やることがあるだろう?』
『そんなもの……なにも、ないです』
出ていく用意なんてない。初めから私は何も持っていない。
そう思う私に、サクラは、
『セトに、会う必要があるだろう?』
意味の分からないことを、口にした。
ふいに出た名前に、抑えていた心が波立つ。
『……どうして』
『黙って行けば、セトがお前を追うからだよ。昨日も、お前を捜しに行っただろう? ……ああ、そう言えば……追うなという私の命令を無視したのに、何も罰を与えていなかったな』
思い出したようにつぶやいてみせるが、青い眼は一度も私を放していない。
まるで何かを試すように、曲がった唇の上で愉しそうに私を眺めている。
『セトは、お前が逃げ出したのではなく、散歩に出かけて迷ったのだと主張した。……日が沈めば危険だというのに、仲間だからお前を見捨てられないと……そんな理由で捜しに行ったわけだが、無駄だったな?』
セトの傷だらけの顔が浮かんだ。助けに来てくれた、あのときの想いが湧きあがる。
(——ほんとうに、私を捜してくれていたんだ)
やはりあれは偶然でもなんでもなくて、最初から私なんかを助けるために窓から飛び込んできたのか。
そんなはずないと、目をつぶっていた事実に胸が締めつけられる。
『同じ事が起こらないよう、セトに別れを告げてもらおうか』
『………………』
「——ティア、セトを起こしてくれ」
「……えっ? ……え、セト君? ……を、起こすの? ……ちょっと僕、話が見えてないんだけど……」
急に名を呼ばれたティアが、戸惑いながらもトレイをテーブルに置いて、寝室に向かおうと振り返った。
ふたりはセトの名前を口にしていた。呼びに行くつもりだと理解した瞬間、とっさにティアの腕を押さえていた。
「ん?」
振り返った青紫の眼が、ぱちりとまたたく。「……えーっと?」説明を求めて、ティアは私からサクラへと目を移した。
『……待ってください』
ティアの腕を引き留めたまま、私の言語を口にする。
青い眼を見る勇気がもてずに、ティアの方を向いた状態で目を伏せ、サクラへと尋ねた。
『罰って……なんですか』
『通例なら、私の命令に背いた者は追放している』
『追放……』
言葉の重さに、思わず振り返っていた。
青い眼と、視線が交錯する。
『ハウスからも、私たちのコミュニティからも、追い払う』
凍りつく私に、サクラはぞっとするほど綺麗に微笑んだ。
『あの子にそこまでする気はないが……他の者の目がある以上、相応の罰を与えなくてはいけないな……』
青い、眼。
深い海色の、覗いた者を引きずり込む魔物のような、それが。艶美な絵画を思わせる美しい顔の上で、玲瓏として鋭く眺めている。
心臓が早鐘を打ち、ゆっくりと全身から血の気が引いていく。動揺を隠すことなど、もう不可能だった。
頭にはずっと、セトの傷のついた顔と血にぬれた脚が浮かんでいて、消えない。消せるわけがない。あれは全部、私のせいなのに。それなのに、そのうえまだ何かひどい目に遭うことになるなんて、そんなの——……
『それは……その、罰は……私が代わることは……できないんですか……』
口をついて出た言葉に、サクラが目を細めた。
『お前を追放したところで、それはお前の望むことだろう?』
『…………それなら、』
『まだ決まってもいない、相応の罰を代わりに受ける——か?』
『……………』
『私は構わないが……そうなると、ここから出ていく話はどうなる? ……罰は、ハウスに帰ってから科すつもりだが』
端整な顔は、微笑をかたどったまま。
彼が最初に笑った理由が、今わかった。
『このまま……いさせて、ください……』
私は最初から、弄ばれている——。
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