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ep.1 Homme Fatale

オム・ファタル 10

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 ヴァシリエフハウスは、首都から遠く離れた場所にある。人口が都市部へと過度に集中しているため、森や渓谷けいこくに囲まれたその地は閑散かんさんとし、古城を改装して作られた城館はひっそりと建っていた。
 都市部に行くための交通手段は少ない。その地に走る公共の車はなく、ハウスが所有する複数の車のうち1台を、彼らは無断で使用していた。

「——なァ、セトってば。怒ってンの?」

 ハウスへの帰路を進むなか、後部座席に座っていたロキは身を乗り出し、運転席——自動運転のため、運転はしていないが——に座るセトへと、声をかけた。
 セトは先ほどから無言で窓の外を見ていて、妙に機嫌のよいロキの、たわいもない話題には返答していない。サクラはセトの隣に座っていて、同じように外を見ていた。

「もう置き去りなんてしねェからさ、機嫌なおしてよ」
「………………」
「明日から1週間、デザートは全部セトにやるから」
「………………」
「だめ? じゃ、サクラの分もセトにやるから。サクラ、いーい?」
「私は構わないよ」
「ほら、明日から3人分食べられるじゃん? 嬉しくね?」
「…………要らねぇ。サクラさんを巻き込むんじゃねぇよ」

 耳許まで顔を寄せたロキの頭を払うように、セトは手を振った。反応があったことに、ロキは表情を明るくする。

「ならさ、好きなもん買ったら? オレの金使っていーし。甘いもんでもゲームでもオーディオでも……あれ? オレって資産いくら? すぐ使えるのってどうなってるっけ? ……サクラ知ってる?」
「さあね。調べてあげようか?」
「調べて」
「——やめろって。そんなの要らねぇし、調べる必要ねぇよ」
「……じゃ、何が欲しいわけ?」
「何も要らねぇ」
「……でも怒ってんじゃん。オレ、何したらいーの?」
「黙っとけよ」
「………………」

 ロキが口を閉ざすと、車内は途端に静かになった。夜の暗い道を、あてもなく進む旅人たちのように、重い沈黙がおりていた。ただその沈黙を、重いと感じられる者は、車内にはいなかった。

 しばらくの間、車の滑る音だけが聞こえていた。雨が、ぽつりぽつりと、窓を叩き始める。ロキは、その窓に生まれる雨粒の軌跡きせきから方程式を頭に浮かべていた。それらの流れいく先は完全に予測することができないけれど、流れ方から車の速度を求めることはできる。セトの感情の行方ゆくえと速度も計算で導き出せれば、てっとり早いのかも知れない。怒りがいつ収束するか分かれば、そのタイミングで興味のもてる話題を出すのに。

「……事実はひとつだが、真実は観察者の数だけある……とは、誰が最初に言ったのだろうね?」

 静寂を、サクラのやわらかな声が溶かした。ロキは視線を窓からサクラの後頭部へと移す。セトは小さく片眉を上げた。
 先に答えたのは、ロキだった。

「ニーチェじゃね? 事実というものは存在しない、解釈だけが存在する——とかいうじゃん」
「それでは、事実も無いということになるね」
「オレらがシェアできる現象が事実——でいいじゃん。そんなこと深く考えンのは、言葉が好きなやつに任せとけばいーよ。事実も真実も、ワード作ったのは人間なんだし」
「ひとつの事実があるとして、観察者によって真実が変わるのは、実験においても不便だな……」
「エー? それってつまり、真実じゃなくて仮説ってことじゃん。検証できないものは、オレは真実って認めないし」
「そうなると、今日のお前の主張も真実とは言えないね」
「……そこに話戻んの? もうよくね?」
「セトと話したいなら、置き去りについてではなく、それについて謝罪しておいたほうが良いと私は思うよ」
「…………けど、オレが誰としよーと、セトには関係ねェし」
「セトと仲がよい相手だったんだろう? お前がそういうことをして、セトがどう思うか、考えられなかったか?」
「……それは、考えた」
「考えて得た答えは?」
「……あっちに怒ると思った。オレに、じゃなくて」
「そうか、その可能性もあるか……。そうなると、今のセトの感情は、お前には読めないかも知れないね」
「……やっぱセト、オレに怒ってんの?」
「さあ、どうだろう? 私はセトではないからね」
「……どーしたらゆるしてくれると思う?」
「ひとまず謝罪してみたらどうだ? セトは優しいから、丁寧に謝れば話をしてくれるよ」

 サクラとロキの会話は、もちろんセトにも聞こえている。セトが「……そういう外堀そとぼりの埋め方はどうなんだ?」吐息をこぼした。

「セト、ごめん」
「……何が」
「……セトの仲いいコに手ェ出して、ごめん」
「……お前、知ってたんならやめろよな。すげぇムカつくし……なぐられてもおかしくねぇぞ」
「セトがオレを殴るの?」
「……たとえばの話だ。ほんとに殴りはしねぇ……知らねぇけど」
「……あのコのこと、そんな気に入ってた?」
「気に入ってなかったら一緒にいねぇよ。お前だって、自分が気に入ってるやつと俺がやったら嫌だろ」
「……よく分かんねェ、やられたことねェし」
「分かった、今度やってやる。……いや、しねぇ」
「しない? オレが気に入るコって、セトのこと嫌いになるってゆー法則あるし?」
「そういう理由じゃねぇよ……」

 はたりと、セトは気づいたように表情を変えた。

「……そうか、それか?」
「ン?」
「いや……あいつ、あれだけ俺しか見えねぇ、みたいなこと言ってたのに……急に変わった理由が……よく分かんねぇなって。……けど、お前が気に入るやつとか、お前のこと好きなやつって、たしかに俺のこと嫌う傾向あるよな……その法則か? サクラさん、どう思う?」
「私に振られてもね……その法則は未知なうえに、ジゼルという人間のことはよく知らないよ」
「……初対面で、俺に“一目惚れした”とか言ってきたやつなんだよ」
「それは面白いね」
「面白いか?」
「私は一目惚れの感覚を知らないから、可能なら体感してみたいね」
「あんなの錯覚だろ」
「否定的なのに、そのジゼルは気に入っていたのか」
「それは……個人的な理由になるけど……昔、俺の母親も、同じこと言ってたから……もしそういう感情なら、てきとうに対応すんのは……いけねぇのかもなって。……一応、あいつだけに向き合うつもりで……いた」
「……そうか」

 セトとサクラのあいだに顔を出していたロキは、「それ知ってる。アーダムとの出会いじゃん? 昔、ヌグームが喋ってた」笑いながら口を挟んだ。

「は? お前にも喋ったのかよ」
「あれだろ? ——あなたたちも、特別なひとに出会えるといいわね——って締めるやつ」
「まじか……なんか、嫌だな」
「なんで?」
「分かんねぇけど……嫌だろ。なんでお前にまで喋ってるんだか……」
「いーじゃん。話してるときのヌグーム、ニコニコしててさ。可愛いから、オレ、ヌグームと結婚しよって思ったもん」
「はぁっ!? ……嘘だろっ? 冗談だろ? まじで言ってんのか?」
「マジで言ってるけど……」
「お前! すげぇ気持ちわるいこと言ってるぞ!」
「そォ? ……ン? 別にヌグームとやりたかったってわけじゃねェよ? ガキだったし……たぶん?」
「おいっやめろ! 俺の母親だぞ!」
「エー? セトの母親とオレがしても、法律的になんの問題もなくね?」
「ばか! そういう問題じゃねぇだろ!」

 思わず振り返ったセトを見て、ロキは彼の機嫌が戻ったのだと思い、ひそかに喜んだ。ふたりの会話に耳を傾けていたサクラは、「既婚者と配偶者以外の人間が性交渉を行うことは、法律的には問題だ」淡々とした響きの声で訂正した。

「あー……お前が変なこと言うから、なに話してたか忘れたじゃねぇか」
「オレのせい?」
「お前のせいだろ……ったく。明日から、甘味は全部俺によこせよ」
「要らねェんじゃなかった?」
「要る」
「いーけど。ちなみに、喋ってたのは一目惚れの話」
「それだ。……いや、もういいけどな。考えても答え出ねぇし」
「美人なコ、また見つけりゃいーじゃん?」
「美人? 別に外見にこだわりねぇけど……つか、あいつは美人か?」
「美人じゃね? 黄金比って感じ」
「……そうか? あんま見てなかったな……」
「じゃ、何見てたわけ? カラダ?」
「何って……基本見られる側だったし……何見てたんだろな? つぅか……なんも見てなかったから、こうなってんのか」
「哲学的なやつ、オレ無理だから。同意できねェよ? ……もうさ、あのコは忘れたらいいじゃん。セトは、もともと一人に固執こしつしねェ感じだったじゃん。あのコ可愛くねェし、外見にこだわらねェなら他にいくらでもいるって」
「お前はあいつを悪く言うな」
「エー…………ごめん」
「………………」

 余計なことを言ったと、気づいたロキはサクラへと横目を送った。それを受けたサクラは苦笑ぎみに口角を上げる。その表情は、手のかかる幼子おさなごに呆れる、母親のそれに似ていた。

「……セト、お前は、最後に言われた言葉を気にしているんじゃないか?」

 サクラの問い掛けに、セトは「それも、……ある」ぽつりと答えた。

「俺らが狂ってる、とまでは思わねぇけど……世間とズレてんのかな、くらいには……思う」
「私たちは本来、そういう目的で作られた集団だからね」
「……あいつは、〈恋愛〉ってワード出したけど……俺、たしかに、そういう感情ねぇんだよな。……母親の言ってたことも、いまだに理解できねぇし。……他人の恋愛感情を否定するわけじゃねぇけど……そういうのって、ほんとにあんのか? 周りの人間と、そいつだけ違う、みたいな。そんなの、何で判断すんだ? ……視覚? 嗅覚きゅうかく? 触覚? ……聴覚もありえんのか?」

 ロキは「セトは味覚も入るンじゃね? 甘いコがいい、とかさ」けらけらと笑ったが、「お前はちょっと黙ってろ」セトに鋭く睨まれ、口をつぐんだ。彼はなかなか学習しない。
 答えを求められたサクラは、ちらりと視線をセトに流し、ふっと微笑した。

「心配しなくとも、お前なら、いつか誰かに恋愛感情をいだく日がくるよ」
「……ほんとか? 俺、サクラさんが言うことは……に受けちまうんだけど……」

 半信半疑であるかのようなセトのつぶやきと同時に、車はハウスへと到着した。雨はまだ、さらさらと降っている。

「なら、そのまま素直に信じておきなさい」
「…………おう」

 サクラは話を締めくくるようにして、セトへと降車をうながした。間にいたロキは、たった今なされた会話に納得がいかず、降りてから内容に干渉する気でいた。しかし、サクラから——

「——ところで、観察者である私の仮説を、検証してもいいか?」
「ン?」
「お前は——薬を使ったね?」

 ひやりとした緊張が、ロキの背筋をつたった。表情をなくした顔でサクラの青白い顔を見返してから、しまった——と。自身の反応を悔やんだが、遅い。ロキを振り返っていたサクラの青い眼は、すでに答えを読んでいた。
 先に車から降りていたセトは、ふたりの会話を聞き取れていない。運転席のドアは閉められていて、降りる気配なく静止しているふたりに、窓の外でセトが不思議そうな顔をしている。

「……なんの話か、分かんねェけど?」
「そこで否定するのは無意味じゃないか? 口止めをするほうが、お前にとって都合の良い選択だと私は思うよ?」
「……黙っててくれンの?」
「同じことをしないと、約束するならね」
「…………しない」
「よろしい」

 運転席のドアが、再度開いた。

「サクラさんもロキも、何やってんだ? 降りねぇの?」
「ああ、降りようか」

 全員が降車すると、車は駐車場へと消えて行った。抜け出しているわりには隠れることなく、彼らは通常どおりエントランスからハウスへと入った。ハウスは昼夜関係なく活動する者が多いが、所員は私室か研究室にいることが多く、とりわけこの時間帯はエントランスホールを歩く者など滅多にいない。見つかったとしても、今夜はサクラという特別な存在がいるのでなんとでもなるだろう、セトとロキはそう思っている。実際のところ深夜の外出を案じているのは、保護者のうち、ひとりだけなので。

 エレベータに乗り込み、それぞれの私室がある階へと上がっていく。4の数字がドアに点灯して、彼らは降りた。

「おやすみ、サクラさん」
「ああ、おやすみ」

 エレベータから降りてすぐの部屋へと、サクラが入っていった。そこから、セト、ロキの順で私室が並んでいる。ロキがセトに声をかけた。

「な、ゲームでもしねェ?」
「しねぇ。俺は寝る。夜は眠いっつったろ」
「いつもならライブとかして遊んでる時間じゃん?」
「あそこはチカチカしてるし、なんでか眠くならねぇんだよ。……ゲームは無理だ。間違いなく眠る」
「……じゃ、眠るまで。眠ったら眠ったでいーし」
「俺はベッドで寝る。もう眠い」
「えェ? ……セトはなんでそう、幼児みたいな切り替えの仕方してンのかね?」
「うるせぇよ、ほっとけ。……じゃあな? おやすみ」
「ハイハイ、おやすみー」

 セトと別れて、ロキは私室へと帰っていく。やはりサクラは油断ならない——そんな認識を、改めながら。

 それぞれの夜が、ようやく終わりを告げた。
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