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ep.1 Homme Fatale

オム・ファタル 9

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 身体がだるい。抵抗は諦めたのに、ロキによって与えられる不快な感覚に耐えて力を入れてたせいか、脚も痛い。頭もどことなく痛い。考えられないわけではないけど、脳の機能がワンランク落ちてる。
 ソファに座ってこめかみを押さえてると、ベルトを締めたロキが、腰をかがめて顔を寄せた。

「頭いてェの?」
「……うざい」

 近づいた顔を手で払おうとしたが、手首を掴まれ、顔をのぞき込まれる。吐き気を抑えて睨みつけた。

「……用が済んだなら、出てってよ」
「顔色わりぃな。飲み物でも取ってきてやろうか?」
「……なに言ってんの」
「飲み物。要らねェ?」
「あんた……自分が何したか分かってない?」
「? ……分かってるから優しくする気になってンじゃん?」
「……何言ってんの……?」

 めまいがする。話にならない。この人間の思考を理解できない。やっぱり夢だったのかと思うくらい、目の前の顔は平然としてる。これはもう、病気だ。

「あんた……狂ってる。どうかしてる」
「……そーゆうこと言う? せっかく優しくしてやってンのに……」

 これ以上関わりたくない。鈍い頭痛と吐き気でふらつきながらも、ソファから立ち上がった。あっちが出て行かないなら、あたしが出て行けばいい。ドアまで歩き、ロックを外そうと触れ——

 なめらかに割れたドアの先に、見慣れた金の眼が、あった。

「…………セト」
「……よう。……つか、お前……やっぱり、いたのか」

 自然と口からこぼれ落ちた名前に、セトがいつもと変わらない返事をくれた。その瞬間、——あれ? なんだ、あたし悪夢でも見てたかも知んない、と。本気で思った。それくらい、世界が普段どおりだった。
 セトの眼はあいかわらず綺麗で、通路の光の下、いつもの輝きを見せてくれる。そのきらめきにほっとしたけど、すぐに言葉の違和感に気づいた。

——お前、やっぱり、いたのか。

 ……やっぱり? 頭に浮かんだ問いを口にしようとしたけど、その前にセトは、あたしの奥にいたロキに目を向けていた。背後から、「なんでセトがいるわけ?」驚いたような呑気のんきな声が聞こえて、神経に触れる。——いま、あたしは、あいつを刺し殺してやりたいと思った。動きの悪い脳の全部が、一瞬で殺意に染まるほど、その声がかんに障った。

「なんで、じゃねぇよ。……これ、どういう状況だ」

 鋭い目つきが、ロキを見すえる。あたしじゃない、ロキだけ。

「状況って言われても……普通に、事後?」
「……は?」
「それよりさ、オレも訊きてェんだけど。どうやって来たわけ?」
「ふざけんな! 話終わらせてんじゃねぇよ! ちゃんと説明しろ!」

 セトの怒号が、耳に刺さった。重い物でなぐられたみたいな痛みが頭に走り、反射的に顔をしかめると、セトの目がぎろりとあたしに向いた。

「お前、なんでロキといるんだよ」
「なんでって……セトいないし……一緒に、喋ってて……」

 そう、一緒に喋ってたはず……なんで、こうなったんだっけ。なんか、記憶がぼんやりとしてる。あたし、アルコールなんて飲んでた? フロアにいたシーンから、ロキが上に乗ってたあのシーンまで、脈絡がない。夢やVRみたいに、いきなり状況が飛んでる。

「俺がいないからって、なんでロキなんだよ」
「……ちょっとまってよ。なんか、おかしい」
「は? おかしいのはお前らだろ!」
「やめて……うるさくしないで。頭に響く」
「はぁっ?」
「うるさいってば……」

 痛みが強くなってきた。少ない思考力まで奪われてく。記憶を確認してみるが答えが出ない。セトの視線は鋭くて、あたし自身もほんとはもっと焦るべき状況だって分かってる。でも、現実感がなくて、頭が……正しく、回らない。
 金の眼に、戸惑とまどいが浮かびだした。

「……お前、状況わかってんのか?」
「……あんまり。……これって、どういう状況……?」
「俺に訊くのかよ……」
「ロキが悪いんじゃないの……? あたしが怒られてるの……?」
「ロキが悪いって、どういう意味だよ……お前ら、何もやってねぇってことか?」
「………………」
「黙るなよ。そこ、はっきりしろ」
「……セト、なんで今ごろ来たの?」
「……は?」
「遅くない……?」
「ロキに置き去りにされたんだよ——つか、そんなこと今どうでもいいだろっ」
「……でも、……今さら来て、何になるのかなって、思って」
「お前なに言ってんだ?」
「……なに言ってるのかな? あたしもよく、分かってない……」
「おい、大丈夫かよ……?」

 心配そうなセトの手が、あたしの顔に触れかけて、ためらうように止まった。セトの視線が、横に流れる。不思議に思ってその目の先を見ると、室内からはちょうど死角に当たる位置に、知らない男がいた。
 すらりとした長い身体。セトよりも青みのある黒髪が、青白い顔をふちどってる。こういう場所に合わない感じの、無彩色のシンプルな服。その男は青い眼であたしを捉えると、場の空気にそぐわない、人形のようなほほえみを浮かべた。

「初めまして」
「…………だれ?」

 セトが、「誰でもいいだろ。お前に関係ねぇよ」きまりが悪いみたいに、早口で唱えた。誰でもいい——?
 あたしの疑問は、「なんだ、サクラじゃん」背後からあたしの肩越しに顔を出したロキによって、答えが出た。これが、サクラか。

「サクラはもう来なくていーのに」
「お前がセトを置いて行くからだろう?」
「エー? 別に毎回一緒に行こうって約束したわけじゃねェし……オレ悪くねェよ?」
「お前が悪いとは言っていないよ。それはセトと話しなさい」
「あーあ……サクラ使うなんてチートじゃん」
「お前もクラッキングは端末を使うだろう? 同じことだよ」
「同じじゃなくね? そっちは端末とサクラでふたつ媒介ばいかいしてるし。ズルくねェ?」
「ルールがあるなら、ゲームを始める前にセトに説明しておくべきだったね」
「ゲームっていうかさァ……ま、いーけど」

 頭上で飛び交うやりとりが、ほとんど意味もなく耳を通りすぎていった。セトは黙って考えるように斜め下を見ていたけど、ふと目線をロキに戻し、

「……ロキ、事後っつったよな」
「ン? 言ったけど?」
「お前、何考えてんだ? なんでわざわざこいつに手ぇ出すんだよ」
「誰が相手でもオレの勝手じゃね? セトだっていちいち報告に来ねェじゃん」
「そういう話じゃねぇだろ」
「じゃ、どーゆう話? このコがセトのものだってゆーなら、ちょっとは理解できるけど。でも誰のものでもないじゃん? 人間って所有できないじゃん? 結婚もしてねェし」
「……分かった、お前はもういい。後で話す」

 金の眼と、視線が絡んだ。

「お前は? 何か言いたいことねぇのかよ」
「……それは、何を訊いてるの?」
「……お前、ほんとにロキと……やったのかよ」
「……なにそれ。あんた今、答え聞いてたじゃん。あたしに訊く意味ある?」
「それはロキの主張だろ。お前はまだ……認めてねぇじゃねぇか」
「……あたしが否定したら、何か変わるの? セト、真っ先に、ロキに訊いてたよね。……なんで?」
「話そらしてねぇで答えろよ。……つか、ロキっつったか? 随分と親しげじゃねぇか、ボーカル呼びしてたくせに」
「……あたし、帰っていいかな。頭痛いし、身体もだるいし……今のあんたと、話す気力ない」
「は?」

 回転の悪い頭で話しても並行線だと思った。とにかく今は休みたい。自分の部屋で、いったん眠って、落ち着いてから話さないとうまく説明できない。
 横をすり抜けて行こうとしたけど、「おい待てっ」セトの手によって腕を引きとめられた。掴む手の力が強すぎて、痛い。

「逃げんなよ!」
「大きい声出さないでって、言ってるのに……ロキとは、した。でもあたしの意思じゃない。それしか今は分からないし、悪いけど……今は帰して。あたしが……一番ダメージ受けてるのに……なぐさめるなら、分かるけど……なんで、怒ってんの。……もしかして、あたし今、疑われてる?」
「疑うも何も、認めたじゃねぇか。疑われたくねぇなら、せめて否定しろよ!」
「否定って……それは嘘じゃん。気づいたらロキが上にいて……あたしはそんなつもりじゃなかったし」
「そんなつもりじゃなかった? ロキと呑んでおきながら?」
「……呑むって……アルコールなんか、口にしてないはずだけど……そもそもセト、見てないでしょ」
「俺が見てなくても、他のやつらに見られてんだよ」
「ああ……それで、疑われてるんだ。……あたしより、よく知らない他人のほうが信用できるってこと?」
「そんなこと言ってねぇよ。お前が否定すんならお前を信じるけど……」
「ほんとに? ロキのほうを優先しておいて?」
「優先なんかしてねぇだろ! つかお前肯定したじゃねぇか!」
「うるさいって……なんですぐ大きい声だすの……」
「お前がそういう態度だからだろ!」
「……そういう態度って? こんなとき、どういう態度が正しいか……教えてよ。あたしからしたら、ひどい目にあって消耗しょうもうしてるとこに、……あんたが何にもならないタイミングでやってきて、見当違いにわめいてるだけ。しかも……こういう状況を眺めてる、薄気味うすきみわるいやつと一緒でさ……あんたらみんな、頭おかしいんじゃないの?」

 正当に動かない頭を、だんだんと苛立ちだけが支配していく。自分が暴言を吐いてるのは分かる。でも、まっとうなことを言ってる気がする。横のサクラとかいうひとは、ずっとあたしたちを観察するみたいに見てた。あたしの指摘を聞いて、「不愉快なら、私たちは離れようか……ロキ」「ン? オレ含まれてなくね?」「複数形だっただろう?」「いや、オレ入ってないって」くだらない話し合いを始めた。
 セトだけは、それに加わらずあたしを見てる。

「サクラさんは関係ねぇだろ。自分のこと棚に上げて、あんま調子のったこと言ってんなよ」
「……何を棚に上げろって言うの? ……あたしは、悪くないよ」
「ああそうだな。別にお前は俺のもんでもねぇし。誰とやろうが俺に口だす権利はねぇな」
「そういう意味じゃなくて……ロキが無理やりしたんだから、あたしは被害者を主張してるだけでしょ……」

 そこで、ようやく理解したのか、セトはもともと寄っていた眉をより強く寄せて、「どういうことだよ」低い声音を、サクラと話すロキに向けた。

「またオレ? って話じゃなかった?」
「お前、無理やりしたのか?」
「無理やりじゃねェよ? 普通に感じてたし」

 ロキの主張に、頭のどこかが切れた。

「……いいかげんにしてよ」
「ほんとのことじゃん?」
「何が? あんたは嘘しか言ってない」
「嘘? アンタ濡れてたじゃん。嫌ならあんな濡れなくね?」

 頭にのぼっていた血が、顔に集まるのを感じた。恥ずかしさなんて感じてる場合じゃないのに、怒りと混ざって、かっと頬が熱くなる。言葉が返せなくなった。

「……なんでお前らの主張がズレるんだよ」

 困惑するセトに、サクラが「事実はひとつだが、真実は観察者の数だけある——という言葉遊びがあったな」古いミステリーの定説みたいなことをつぶやいた。それを聞いたロキは、いきなり嬉しそうに笑って、

「あ! オレ、証拠ある! 濡れてたのは、まだ証明できるじゃん?」

 信じられないことを、言った。
 瞬時には何を言われたか分からず、満面の笑みでロキがあたしの肩に手を回して、「ってわけで、脱がしていー?」バカみたいな質問をするまで、反応できずに固まっていた。

「やっ……触んないで!」
「脱ぐのイヤ? じゃ、指でも突っ込めば分かるンじゃね?」
「やだっ……あんたなんなの? ……ちょっと、離して!」
「おいロキ、やめろ!」

 スカートの中に手を入れようとしたロキの腕を押さえると、ロキはパッとあたしの肩から手を離した。

「——ほらな? 抵抗するってことは、確かめられたら困るからじゃん。アンタが濡れてたのは事実ってことだろ?」
「バカじゃないのっ? そんなの誰も受け入れるわけない!」
「なんで? オレがイヤってこと? ……ならさ、セトが確かめてくんない?」
「……俺が確かめて解決すんのかよ」
「解決するって。マジでこのコ濡れてたもん。濡れてたら同意ってことで、乾いてたら……ま、ないと思うけど? その場合は、オレが無理やりしたってことでもいーし」
「……分かった」

 ため息をついたセトが、あたしの方を向いた。すとんと感情をなくしたみたいな顔で、どうすんだ? って、問いかけるような瞳。

「は? ……なにそれ、あたしに脱げってこと?」
「脱ぐっつうか……確かめられれば、なんでも」
「……本気で言ってる?」
「嫌なら、しねぇけど」
「…………うそでしょ? そんなの、あたしに答えをゆだねてるだけじゃん。……断ったら、ロキが正しいってこと?」
「……他にどう納得しろってんだよ」
「……普通に、あたしのこと信じられないの?」
「お前が嘘をついてるとは思わねぇけど……それを言ったら、ロキだって嘘をついてるとは思えねぇんだよ」
「……ロキなんかを信じるの?」
「ロキって言うな。……お前とロキなら、ロキのほうが付き合いは長い」
「あたしよりロキを信じるってこと?」
「そうは言ってねぇだろ」
「そういうことでしょ?」
「……違うだろ」
「………………はっ、ばかみたい」
「あ?」

 気づいたら、笑ってた。
 セトは睨むように目を細めたけど、鋭い目つきのセトなんて、少しも怖くない。初めからあたしは、このひとのことなんて怖くなかった。みんな怖いって言うけど、あたしだけは、細くなる金の眼も平気だったし、怖いどころか綺麗だって思ってた。現に今も、綺麗だと思う。ただ、とても大事にしてた——明確な形をもたないものが、頭じゃなくて胸のあたりで、砕けただけ。

「……なんで笑うんだよ。笑うとこじゃねぇだろ」

 茫然ぼうぜんとするセトに、「あたし、帰るね」とっくに解放されてた手を上げて、別れを告げた。

「は? ……まだ終わってねぇだろ!」

 掴まれそうになった腕を、今度はちゃんと、拘束される直前に振り払った。

「もういいよ、どうでもいい」
「どうでもいいってなんだよ……?」
「……セトって、あたしのこと別に好きじゃなかったんだね。あたし、いま知った」
「なにを……言ってんだ」
「そういえば好きって言われたことないね。……あ、でもあたしも言ったことない? あたしたちって今日含めてまだ30回くらいしか会ってないんだよね。よく考えたら、時間に換算しても、たいした付き合いじゃないね。連絡先も、何も繋がってないし」
「……時間は関係ねぇだろ」
「ロキは付き合い長いんでしょ?」
「……それは、事実であって……ロキを信じてるのと、お前を信じるかどうかは別の話だろ」
「一緒だよ。あたしとロキ、両方は成り立たない。……あたしを選べないなら、あんたにとってあたしは違うってことでしょ」
「違うってどういうことだよ? 抽象的な言い方すんな。……意味わかんねぇよ」
「〈さよなら〉って言えばいい?」
「……なんだそれ。急に、なんでそうなんだよ……」

 見つめる瞳には、かなしみの色があった。見間違いじゃなく、あたしの願望とかでもなく、いつもの凛とした目つきとは違う——揺らぎのある目だった。
 その顔は、初めて見るね。きっと、まだあたしの知らない表情が、いくらでもあるんだよね。
 それを見たい気持ちもあるけど、もう今は、諦めに似た感情のほうが強い。信じてもらえないことが、こんなにも心を冷ややかにするなんて……知らなかった。相手がロキだから、っていうのもあるんだろうけど。それでも、あたしを選んでほしかったのに。

 金の眼から視線を外して、帰る方へと足を踏み出した。これ以上話すことはなかったし、心残りもない。言っても無駄だと思うし。
 けどセトは違ったらしく、背後から名前を呼ばれた。初めて呼ばれた気がする。振り向くと、

「訳わかんねぇよ。……お前は、最初から、一目惚れしたとか……おかしいこと言って……結局、最後もそういう感じかよ……」

 捨てられる子犬みたいだなって思うのは、すごく失礼な話なのかな。でも、捨てられたのはこっちだって、あたしは思ってるよ。責められてるみたいだから、最後くらい、ひどいこと言っていい?
 
「……ねえ、セト」
「……なんだよ」
「おかしいのは、あんたたちのほうでしょ?」

 ロキと、それからサクラにも、いちおう目を回した。

「あんたたちが、狂ってるの。あんたたちはきっと、これから先、誰とも……恋愛なんて無理だね。——ご愁傷しゅうしょうさま」

 サクラの笑顔をまねて微笑ほほえんでみせると、セトの顔に、敵意のようなものが走った。でも、なにも返事がなかったから、そのまま背を向ける。

 疲労と痛みのせいか、頭がくらくらする。帰って休んで、体調が悪いふりして、明日は昼過ぎまで寝ていよう。起きたら後悔することもあるだろうけど、あたしは悲しみよりも怒りを覚えるたちだから……たぶん、平気だ。泣きはしない。

 明日のことを考えてると、後ろで何か聞こえた気がした。ふざけんな、とか。そういう悪態かな。

 ——愛されないなら、憎まれるのも悪くないかも知れない。
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