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ep.1 Homme Fatale

オム・ファタル 8

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「ロキ見てねぇ?」

 いつものフロアに入って、セトが真っ先に捜したのはロキだった。脳裏にはもうひとり浮かんでいたが、セトが到着しているにもかかわらず、顔を見せに来ないということは——来ていない。そう判断していた。

 ロキについて、近くにいた人間に手当たり次第たずねてみるが、見たっけ? 今日いたかな? 見たかも? といった曖昧あいまいな回答しか得ることができなかった。空間が暗すぎるのか、他人に興味がなさすぎるのか、あるいはその両方が関係しているのか。なんにせよ、サクラの手をわずらわせてまで来たのに、まったく行方ゆくえが知れないのは……正直、セトも困っている。

「……あいつ、どっかで遊んでるかも」

 ため息越しにつぶやき、背後を振り返った。セトの後ろでは、空間に満ちる喧騒けんそうのせいか、目を細めているサクラがいた。セトの独り言めいた声が聞こえたのかは分からない。サクラはセトを見ていなかった。

 協力を申し出てくれたのはありがたかったが、サクラまでついて来るとは思っていなかった。サクラがこういう場所に来たのはもう随分ずいぶんと前の話で、以前と同じく場違い感はぬぐえない。サクラはすらりとした痩躯そうくに落ち着いた雰囲気で、セトから見てもひとりだけ空間から乖離かいりしているように見える。身にまとっている白いシャツも浮いていて、それは線のように走る赤い光に染まっていた。

「サクラさん、聞こえてるか?」

 呼びかけると、サクラの瞳がこちらを向いた。何か応えるように唇が動き——タイミング悪くギターの音が鳴り響いたせいで、セトは何も聞こえず——耳に着けた調整機の対象を、サクラを中心にして人の話し声のみに固定する。

「なんて?」

 聞き返すと、サクラは長い指で壁ぎわを示した。

「居場所を知っていそうだから、訊いてみたらどうだ?」
「……ん?」

 言われたセリフの意味を反芻はんすうしながら、その指のさす方をたどっていく。行き着いた先には——名前は知らない、かなり前にロキが一瞬だけ気に入っていた女がいた。セトが目を向けたのに気づいたようだが、目を合わせてこない。

「ああ……たしかにあいつなら、ロキを見てたら覚えてるだろうけど……でも俺、嫌われてんだよ。話しかけても多分シカトされる」
「それなら、私が訊こう。どこへ行ったか、知っているようだからね」
「は? まじで?」

 事もなげに提案し、サクラは長い脚でスタスタと壁ぎわへ進んで行った。自分は行かないほうがよいかと迷いつつも、サクラの言葉の答えが気になって後ろについて行く。いきなりやって来たサクラとセトに、小柄な女は狼狽ろうばいしていた。細い手でドリンクを強く握り、しきりに眼を動かしている。その女の目の前に立つと、サクラは唇を薄く曲げて微笑を浮かべた。

「こちらを見ていただろう? 何か、話したいことでもあるのか?」

——ロキはどこか知っているか?

 サクラが発したのは、セトが思っていたのとは違う問いだった。(ん?)内心で疑問符が浮かぶ。しかし、口を挟むとややこしくなりそうなので黙っておいた。刹那せつな、女はセトに対して眉をひそめた視線を投げたが、話したいことがあるのはどうやら本当らしい。サクラのほうへと目を戻し、素直に口を開いた。

「ロキ……捜してるんだよね?」
「ああ」
「けっこう前だけど……ふたりで出てったよ」
「どこへ行ったか、分かるか?」
「たぶん……空き部屋。奥から2番目、だと思う。ロキが、よく使ってるの」
「そうか、捜す手間が省けた。セト、場所は今の説明で分かるか?」

 セトは首肯しゅこうした。案の定というかなんというか、ロキは女と遊んでいるらしい。予想どおりの結果に嘆息たんそくしつつ、

「あっちだな。……けど、女といるならいい。変なタイミングで入りたくねぇし……つか、どうでもよくなってきた。……サクラさん、なんか飲む? せっかく抜けてきたんだし、ライブでも見ねぇ? 前の方で……」
「………………」
「……サクラさん?」

 セトの中では、この時点でロキへの怒りはおおかた消失していた。置き去りの件について当然問い詰めるつもりではあるが、帰宅してからでもいいくらいには、鎮火されていた。
 予定していたライブができなかったことはセトにとってそこまで問題ではなく、毎週必ずここに来なくてはならないという、義務感めいた焦燥しょうそうが——その理由の根源である彼女が来ていない以上——もう無いので、サクラと楽しむのも良いなと、気持ちの切り替えができていた。
 こんなことでもなければ、サクラが再び一緒に来ることもなかっただろう。そう考えると、ロキに対する感謝も多少は芽生えなくもないなと、ポジティブな思考まで生まれていたほどだった。

 しかし、そんなセトの誘いに、サクラは応えなかった。名を呼んだセトへと目も向けず、女の方を見下ろしている。
 ふと、周囲の騒がしさから切り離すように、サクラは女の顔の横に片手をついた。女の目が、あわてたようにサクラを見上げる。サクラは、ほほえんだまま。

「まだ何か、話したいことがありそうだが……?」
「あ、あのっ……私が言ったってこと……ロキに、言わないでほしい……」
「ああ、もちろん。黙っておこう」
「……その、ロキが……一緒に消えた子が……」

 女の目線が、一度セトへと流れた。うつむいて下唇を噛み、言いよどむその姿に、予感めいたものが——それは決して、いいものではなく、虫の知らせと呼ぶべき警告が——セトの頭に、ひらめいた。

「……ジゼル、なの」
「ジゼル——を、私は知らないが、お前が分かるのか?」

 サクラの顔が、横にいたセトへと向いた。眉間をゆがめたその顔に気づいたサクラは、答えを聞くまでもなかった。
 セトは、鋭い目つきで女を見据え、

「……おい、お前それ、どういう意味か分かってんだよな? ……嘘なら、ぜってぇゆるさねぇ」
「ウソなんかじゃない! あれはジゼルだった!……見間違うわけないよ……あんな美人なコ。暗くても、スタイルでわかる……ふたりで呑んでて……ロキとも、並んでるの、お似合いだったし……」
「は? 誰と誰が似合いだ? ——お前、ケンカ売ってんのか?」

 女に詰め寄ろうとしたセトを、サクラの腕がさえぎった。サクラに押さえられはしたものの、恐ろしい形相ぎょうそうのセトを見て、女は身を縮める。しかし、恐怖をこえる感情があるのか、ドリンクを握りしめる手に力を入れ、涙の浮かぶ目でセトを睨み返した。

「あなたなんかっ……どっちにも釣り合ってない。……あなたしか見えてないなんて、ジゼルはおかしいって……みんな、言ってるっ……」
「みんなって誰だ。責任をよそに回してんじゃねぇよ」
「じゃあ訊いてみたらっ? ジゼルと仲良かったコはみんな言ってる! いつめるかなって、あの子は恋に恋してるだけだって! ……今のジゼルなんて、ジゼルらしくないっ……みんな、元に戻るのを待ってるんだからっ……」

 叫んでいた声の勢いが落ちるにつれて、女の目からぽろぽろと涙があふれ出した。急に泣き出したせいで、セトはぎょっとして怒りの矛先を失う。困惑してサクラへと目を向けるが、サクラはもう女に興味がないらしく、「ロキを捜しに行かないか?」無感動な顔で当初の目的を口にした。
 泣いている女のほうを気にしながらも、セトは首を振った。

「……いい。じき戻ってくるだろ」
「お前は、その——ジゼルのほうに、用があるんじゃないのか?」
「ロキといるのは、あいつじゃねぇよ。……ありえねぇ」
「……セト、私は事の仔細しさいを知らないが、二人でいるからといって、性交渉に及んでいるとは限らない。そうやってかたくなに拒まなくても、一度様子を見に行けばいいだろう?」
「……そう、かも知んねぇけど……」
「直接が嫌なら、ひとまず連絡をとったらどうだ?」
「……いや、連絡は取れねぇ。俺、いつものデバイス着けてねぇから」
「それは不便だね……何かあったときのためにも、次からは既製品でも用意しておきなさい」
「……ん」
「そうなると……素直に見に行くのが、結果としては早いように思えるが、どうする? 私は音楽鑑賞に付き合っても構わないから、お前の好きなほうを選べばいい」
「……じゃあ、まぁ……軽く、見てくる」
「そうか」
「……どっちかを疑ってる、っつぅわけじゃねぇけど」
「分かっているよ」

 優しく笑うサクラと共に、セトはフロアを出ていこうとした。壁を後にして程なく、女の様子が気になって背後を振り返る。人の隙間から、涙に濡れた目がこちらを向いていた。

「なんで、あなたなんかっ……」

 女が唇を震わせて吐いた恨み言は、調整機によって、セトの耳になんのさわりなく届いた。文字どおり目をそらして、ドアの方を向く。

(そんなの、知るかよ)

 胸中だけで言葉を返す。ジゼルについてだと思い込んだセトは、気づいていない。
 女の言葉の主語が、いったい誰なのか。

——ロキは、なんであなたなんかを、私より大切にするの?

 その呪いに似た言葉の本質を、セトはおそらく、生涯しょうがいにわたって知ることがない。
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