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第一章 秋空に特急に怪猫
幸せのテントウムシ
しおりを挟む手のひらに乗るような、モフモフの小動物。
そんなものが、人を幸せにすると言っても、多分、信じる人は誰もいないはず。
しかし現実に、その小さな生き物のおかげで、世界一の美女(僕の彼女への想いがそう思わせるんだろうけど)と特急列車の座席に、僕は並んで座っている。
だが、自称「幸せ研究家」のこのお姫様は、いつものように、幸せそうな微笑みを浮かべて、窓側の席で眠り続けているのである。
美しいだけじゃない。
この人はパッと見、幼稚園の先生か、保母さんのような、見る者を和ませる、優しげな瞳と表情をしている。
さっきから、僕の目は、彼女の黒いサラサラのロングヘアーに釘付けだ。
変な誤解しないで欲しい。
この「眠り姫」の女性のトレードマークと言っていい、白い巻き貝の髪飾りの中に、一匹の七星テントウムシがいて、今にも落ちそう!
何とかしなくては。
今日は10月5日。冬眠場所を探して、暖かい列車内に迷い込んでしまったのだろうか?
ところで、僕の名は、中原仁助。
私立十流学院大学 生命環境学部 自然環境学科四年。
この学生証とも、あと半年でお別れになる。
地元では「ジューガク」で通っている我が母校。
名前からして程度が知れそうな大学である。
しかし、それでも何とか、東京本社の中堅企業に内定をもらうことはできている。
ネイチャー系の旅行会社が企画した、今回の二日間のツアー。
長野県霧ヶ峰高原に、小さな小動物の棲みかを訪ねるというもの。
本来は僕だけ、男の一人旅になるはずだった。
ところが、こちらの美しい眠り姫は、どうしても一緒に行くと言って聞かず、僕達の暮らす東北の都市から、460キロ離れた現地集合場所である、長野県の上諏訪駅まで、エスコートして差し上げることに相成った。
が、目下の問題はテントウムシだ。
人の氣も知らないで、呑気に、白い巻き貝を登ったり、降りたりしている。
このまま、車内に取り残されれば、人間に踏み潰されてしまうのに。
テントウムシがこめかみの髪飾りにとまり、隣の座席で眠っている女性は白沢佑夏さん。
県立教育大学(通称“ケンキョー゛)四年の女子大生。
彼女は、春に教育実習に行って、念願の小学校教員免許を取得したばかり。
教育実習では、「しらさわせんせーい!」より、「ゆーかせんせーい!」と名前で呼んでくれる子の方が多くて嬉しかったと言って、喜んでいた。
見た目通りの優しい性格の佑夏は、普段からフリースクールや児童福祉施設で、子供達にボランティアで勉強や卓球を教えたりしている。
一番凄かったのは、およそ一年前。
遥か、ケニアのスラムまで、ナイロビの貧しい子供達とのふれあいに行って来たのには、本当に驚いた。
そして何と、佑夏は県の教員採用試験の合格発表を明日に控えている。
こんなこと、やってていいの?佑夏ちゃん?
もう一つ自問自答。
テントウムシを救出する為に、佑夏を起こすべきだろうか?
いや!スヤスヤと気持ち良さそうに眠っている彼女を起こすのは忍びない。
こうして、手を子招いて、佑夏とテントウムシを見つめる僕の目は、いつしか「カメレオンの目」になっているではないか。
今にも、眼球が飛び出しそうだ。
これは、端から見れば、変質者が美女に欲情してるように見えるんじゃ?
氣になって、ふと後ろを振り返り、昔の歌にもなったらしい、この特急「あずさ」の車内を見渡してみる。
幸い、誰もこっちを見ている者はなく、ホッとした。
それにしても、乗客全員が全員、不機嫌そうな顔をしている。
せっかくの特急の旅だというのに、心から楽しんでいそうな人は一人もいない。
強いて言えば、外の景色を見てはしゃいでいる、年の頃五歳?の女の子くらいか。
佑夏の言う通りだな。
彼女からの聞きかじりでは、人間の気分はいつだって悪いものなのだという。
しかし、機嫌の悪い人間というのは、絶対に幸せになれない。
だから、幸せになる為には、努めて上機嫌でいなくてはならないのだと。
佑夏の卒論のテーマ、アラン著「幸福論」の上機嫌についてのこの一説は、彼女から何度も聞いている。
さて、僕達を乗せた特急あずさは、新宿から高尾山脈を抜け、山梨県の山あいを走行中だ。
外は山。
今、テントウムシを外に逃がせば助かる!
しかしなぁ~。
僕はつい、ため息を洩らしてしまった。
あらためて見ると、この白い巻き貝の髪飾りは、実に良く出来ている。
何という種類の貝か知らないが、清楚で色白な佑夏に合わせたような、透き通る純白にゴツく無い、なめらかな可愛らしい形をしている。
そして、星形にカットされたピンク、黄色、水色の三色三個のシーグラスが、絶妙な彩りを添える。
作り手の品性が感じられるデザインだ。
シーグラスとは何十年、あるいは100年以上も海中を漂ったガラスのカケラのことである。
できたての装飾用カッティングガラスは、きらびやか過ぎて、ちょっと鼻につくケバケバしさが感じられはしないだろうか?
しかし、長い年月、海の恵みの中にいたシーグラスは、派手さが消え失せ、吸い込まれるような深い趣を放つ。
これは、どんな宝石とも違っている。
もっとも、佑夏は、宝石や貴金属で身を飾ったりするような子ではない。
質素で心優しく、身を飾り立てることを好まない彼女に、この白い巻き貝の髪飾りは、どんな高価な宝石より良く似合っている。
まさに、この女性の為にあるアクセサリー。
なにしろ、佑夏は、この巻き貝のアクセサリーを小学3年生の頃から、ずっと着けているのである。
その馴染みようは、もはや一心同体と言っていい。
と、美女と髪飾りに見とれている場合じゃないだろ。
テントウムシ救出が急務であるはずだ。
車内アナウンスが、間もなく大月駅に到着すると告げる。
街中の甲府まで行ってしまえば、もうテントウムシを放せなくなる。
今しかない!
僕はリュックから、今回のお目当ての小動物の写真集を取り出す、同時に、取ったばかりの運転免許を右手に握った。
左手で、写真集を髪飾りの下に広げ、免許でテントウムシを誘導すると、うまい具合にテントウムシは写真集のページの谷間に落ちてくれた、やった!
やがて山あいの大月駅に到着したところ、ホームに降り立ち、手のひらにテントウムシを乗せて、「飛んでくれ!」と強く念じてみる。
思いが通じたのか、テントウムシは羽根を広げ、空に舞い上がって行く。
あ~、良かった。
ドッと疲れが出たが、ホームに取り残されては大変だ。
急いで、佑夏の隣の席に戻り、もう一度、何となく免許を眺めて、やっと一息つくことができた、その時。
「あ、中原くん、免許取れたんだよね。おめでとー☆」
!
ふいに耳元で聞き慣れた綺麗(過ぎる)声がした。
美しい眠り姫は、いつの間にか、目を覚ましていたのである。
※このお話はフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
また、作中に登場する画像は、実際に長野県諏訪地方にお住まいの方から、ご好意でいただいたものです。
お話の季節である10月のものとは限りませんが、お楽しみ下さい。 ふくろう
応援ありがとうございます!
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