35 / 38
【34】殿下の訪問を受ける
しおりを挟む久しぶりに『我が家』に帰ってきた。
アルマンドもレナータ様もブレッサン公爵も、長く滞在していた私を気遣ってくださり穏やかに過ごすことができていたけれど、やはり自分の家の空気に触れるとホッとした。
「長く家を空けて申し訳ありませんでした」
旅装のまま父の部屋を訪れてそう言うと、父は柔らかい目を向けてくれた。
「長い人生には、今これをどうしてもやらなければならないという瞬間があるものだよ。その時に何かのしがらみのせいで行動しなければ、後悔の塊となって自分を圧し潰す。今、レティはとてもいい顔をしている。だから謝ることはない」
「お父様……ありがとうございます」
「すぐに湯浴みをするといい。土埃のかたまりが入ってきたのかと思ったぞ」
「ごめんなさい!」
途中ずっと雨が降っていなかったせいか、乾いた土煙の中を進んできたのだ。
馬車の中の私の耳までざらついているのだから、馭者はどうなってしまったのか。
同行してくれていたすべての護衛や従者、もちろんノーラもまずはゆっくり湯浴みができるように手配して、私も何度も頭から湯を掛けてもらった。
小さな笑みをこぼした侍女に、無理にその理由を聞く。
「実家で犬を洗った時のことを思い出しました……申し訳ありません……」
「ふふっ、暴れない分だけきっと私のほうが優秀ね」
思わず吹き出してしまった。
子爵家出身の侍女なのに、犬を洗ったことがあるのね。
最後に丁寧に髪に香油をもみ込んでもらい、すっかり自分の香りを取り戻した。
ゆったりと湯に浸かりながら、頭の中にいろいろな場面が浮かんでは泡のように消えていく。
ジュストの上にシャンデリアが落ちた瞬間を、昏睡から覚めたジュストの言葉を。
これからどうなっていくのか、今の私には何も分からない。
ヴィオラのことが心配だった。
ヴィオラは、アンセルミ公爵家はどうなってしまうのか……。
本当は会って、直接ヴィオラの口から聞きたかった。
でもおそらくそれは叶わない。
ヴィオラの本当の思いは、また聞きによる文字列からは知り得ないことが悲しかった。
***
朝食のテーブルに着くと父が開口一番、ジュスティアーノ殿下から先触れが届いたことを伝えた。
「まだご回復の途中だと聞いていたが、どうやら急ぎのようで昼過ぎにご来訪とのことだ」
「完全に傷は塞がっていないご様子ですが、馬車でブレッサン領から戻れるほどには回復していらっしゃるように見受けられました」
「ならば良かった。さて、レティ。私は貴賓室ではなく、私室で殿下をお迎えしようと思っているが、それで間違いないだろうか」
父は私の目をじっと見据えてそう言った。
ジュストは王都に入る最後の夕食の席で、戻り次第すぐに……第一王子の椅子を弟君に譲り、サンタレーリの入り婿となることを希望すると、私と婚約を結ぶ承諾を陛下に戴きにいくと言った。
そうしたら、次にここに……私の父に願いにやって来ると。
もう先触れが届いたということは、陛下が第一王子であるジュストを王太子としないことをお決めになったということ……。
そこまで素早く決まるとは思っていなかった。
でも先触れが来たのだから……。
「……はい。たぶん、そういう意味合いだと……」
「……はぁ……サンタレーリの嫡子である娘の婚約者を決めるのと、娘さんをくださいと言われるのとでは、こんなに気分が違うものなのか……」
「あの、同じではありませんか? いずれにせよ私は婿を迎えるのですから……」
「まったく違う。……だが、それをレティに解って貰えると思っていないからよいのだが」
……いったい何だというの。
いろいろな意味で殴ることもできないなどと、物騒なことをまだぶつぶつ呟いている。
いつもは優雅にカトラリーを操る父が、親の仇のような勢いでハムを切り刻んでいる……。
家令のウバルドが、微笑を浮かべてそんな父を見ていた。
私と目が合うと、今まで見たことのないような満面の笑みを向けられた。
ウバルドは母が幼い頃から傍に居たという。
その頃は執事として、そして先代の家令が高齢により辞すと、家令となってサンタレーリのこの屋敷を支えてくれている。
そんなウバルドの笑みはとても温かいものだった。
父と並んで、ジュストを迎えた。
シャツにタイを結んでいるものの、ベストやコートを着ていないのは正装と言えないかもしれない。
肩を幾重にも固く巻いているため、ゆったりとしたシャツを着ることができても、アームホールが狭くなっているベストやコートに袖を通すのは無理なのだ。
「ようこそ、お待ちいたしておりました。どうぞ」
「こちらをレティーツィア嬢に。陛下がかつて王妃殿下に結婚を申し込んだ時に贈った薔薇と同じものなんだ」
「……ありがとうございます」
ジュストの言葉で、後ろにいる側近のドナート様が淡い桃色の薔薇の束を、家令のウバルドに手渡した。
温室の薔薇を、丸坊主にしてきたのではないかというほどの大きな束だった。
「本日は、サンタレーリ公爵代理に話があって面会を希望した」
ふと、父の表情が変わったように感じた。
目に厳しさが宿ったように見える。
「かしこまりました。……ジュスティアーノ殿下とのお話が終わるまで、レティーツィアはサロンで待っていなさい」
「はい、承知いたしました……」
父が私室に殿下を案内していくのを見送る。
大理石の床に、殿下の杖が小さく音を立てていく。
通り道になる廊下だけでも、毛足の短いカーペットを敷いておけばよかったと後悔した。
***
家令に命じられた侍女たちが、薔薇を半分ほど活けた大ぶりの花器をエントランスに置いた。
残りの一部を私の部屋に、そしてサロンの花器にも活けられた。
陛下が王妃殿下にプロポーズをしたときに贈った薔薇……。
ジュストから、好きだと言われた時のことを思い出していた。
私とジュストの道は、互いが真っ直ぐ歩めば決して交わることはないはずだった。
サンタレーリ公爵家の嫡子として生まれ育ち、母の後を継ぐ私。
母が亡くなってから、嫡子として学んでいくことで母の愛を追いかけてきた。
私の前からいなくなってしまった母に触れるには、サンタレーリ女公爵として生きた母と同じ立場に立たなくては……。
でも、母の痕跡を追えば追いつけるわけではなく、その偉大さに母を遠く感じるばかりだった。
今の自分は何をするにも、サンタレーリ公爵家の庇護の下でのことだ。
その家名がなければ私は何もできないに等しい。
本当にいつか自分自身が傘となって、多くの領民や一門の者たちを護ることができるのだろうか。
今は、ジュストが父にサンタレーリの婿となることの許しを請うている。
シャンデリアの事故で大怪我を負い、それはいずれこの国の王となるには小さくない傷だ。
それでジュストは王太子となる者の椅子を弟君に譲る。
この国の王となる者に、瑕瑾があってはならないから……。
ジュストは子供の頃から私を好きだったと言ってくれた。
自分も同じで、でも、その想いを砕いて今がある。
ジュストの気持ちも言葉もとても嬉しいのに、曇りのない晴れやかな気持ちになれないでいた……。
同列に語るのは烏滸がましいけれど、ジュストもまた子供の頃からいずれは王となるために研鑽を積んできた。子供らしく過ごしていい時間をすべてそれに費やして今がある。
それなのに、傷を負ったからといってその道を諦めてしまってよいのだろうか……。
それは誰のためなのか。
しばらくして、サロンにお父様が一人で入ってきた。
「ずいぶん待たせてしまったな、レティーツィア。ジュスティアーノ殿下から、レティーツィアと婚約を結びたいと願われたが、今日のところは断ってお帰り戴いたところだ」
「……断った……のですか……?」
「そうだ。サンタレーリの婿とするには、今のジュスティアーノ殿下では足りないものがあったからだ」
「婿とするには、足りないもの……」
国の第一王子として生まれ、教養も人柄も申し分ないようにしか思えない。
何が足りないというのだろうか……。
でも、自分の胸に広がっているモヤモヤした思いと、父が断った理由は繋がっているのではないだろうか。
「私は反対しているわけではない。だが足りていないままでは許可することもできない。
私はサンタレーリ公爵代理として、嫡子レティーツィアの父親として、二度も間違える訳にはいかないのだ。
だが、殿下は聡明なかただ。すぐに足りなかったものに気づき、再びレティーツィアに会いにくるだろう」
「分かりました。私もいろいろ考えたいと思います」
父は無言で頷き、サロンを出て行った。
私は座り直し、頬杖をついて考え事に戻ろうとした。
ジュストが持ってきてくれた薄桃色の薔薇が、サロンに降り注ぐ光に俯いている。
陛下が王妃殿下へのプロポーズの時に贈った薔薇……。
その薔薇にそっと触れると、はらりと花びらを落とした。
傷みもなさそうな花びらだったのに、触れたせいで落ちてしまった。
ああ、そうか……。そういうこと……。
父の『今の殿下にはサンタレーリの婿として足りないものがある』という意味が、分かったような気がした。
私はそっと、花器を日の当たらないところに移した。
723
お気に入りに追加
743
あなたにおすすめの小説
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~
胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。
時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。
王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。
処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。
これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。
【改稿版・完結】その瞳に魅入られて
おもち。
恋愛
「——君を愛してる」
そう悲鳴にも似た心からの叫びは、婚約者である私に向けたものではない。私の従姉妹へ向けられたものだった——
幼い頃に交わした婚約だったけれど私は彼を愛してたし、彼に愛されていると思っていた。
あの日、二人の胸を引き裂くような思いを聞くまでは……
『最初から愛されていなかった』
その事実に心が悲鳴を上げ、目の前が真っ白になった。
私は愛し合っている二人を引き裂く『邪魔者』でしかないのだと、その光景を見ながらひたすら現実を受け入れるしかなかった。
『このまま婚姻を結んでも、私は一生愛されない』
『私も一度でいいから、あんな風に愛されたい』
でも貴族令嬢である立場が、父が、それを許してはくれない。
必死で気持ちに蓋をして、淡々と日々を過ごしていたある日。偶然見つけた一冊の本によって、私の運命は大きく変わっていくのだった。
私も、貴方達のように自分の幸せを求めても許されますか……?
※後半、壊れてる人が登場します。苦手な方はご注意下さい。
※このお話は私独自の設定もあります、ご了承ください。ご都合主義な場面も多々あるかと思います。
※『幸せは人それぞれ』と、いうような作品になっています。苦手な方はご注意下さい。
※こちらの作品は小説家になろう様でも掲載しています。
【1/23取り下げ予定】あなたたちに捨てられた私はようやく幸せになれそうです
gacchi
恋愛
伯爵家の長女として生まれたアリアンヌは妹マーガレットが生まれたことで育児放棄され、伯父の公爵家の屋敷で暮らしていた。一緒に育った公爵令息リオネルと婚約の約束をしたが、父親にむりやり伯爵家に連れて帰られてしまう。しかも第二王子との婚約が決まったという。貴族令嬢として政略結婚を受け入れようと覚悟を決めるが、伯爵家にはアリアンヌの居場所はなく、婚約者の第二王子にもなぜか嫌われている。学園の二年目、婚約者や妹に虐げられながらも耐えていたが、ある日呼び出されて婚約破棄と伯爵家の籍から外されたことが告げられる。修道院に向かう前にリオ兄様にお別れするために公爵家を訪ねると…… 書籍化のため1/23に取り下げ予定です。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】大好き、と告白するのはこれを最後にします!
高瀬船
恋愛
侯爵家の嫡男、レオン・アルファストと伯爵家のミュラー・ハドソンは建国から続く由緒ある家柄である。
7歳年上のレオンが大好きで、ミュラーは幼い頃から彼にべったり。ことある事に大好き!と伝え、少女へと成長してからも顔を合わせる度に結婚して!ともはや挨拶のように熱烈に求婚していた。
だけど、いつもいつもレオンはありがとう、と言うだけで承諾も拒絶もしない。
成人を控えたある日、ミュラーはこれを最後の告白にしよう、と決心しいつものようにはぐらかされたら大人しく彼を諦めよう、と決めていた。
そして、彼を諦め真剣に結婚相手を探そうと夜会に行った事をレオンに知られたミュラーは初めて彼の重いほどの愛情を知る
【お互い、モブとの絡み発生します、苦手な方はご遠慮下さい】
【完結】愛してるなんて言うから
空原海
恋愛
「メアリー、俺はこの婚約を破棄したい」
婚約が決まって、三年が経とうかという頃に切り出された婚約破棄。
婚約の理由は、アラン様のお父様とわたしのお母様が、昔恋人同士だったから。
――なんだそれ。ふざけてんのか。
わたし達は婚約解消を前提とした婚約を、互いに了承し合った。
第1部が恋物語。
第2部は裏事情の暴露大会。親世代の愛憎確執バトル、スタートッ!
※ 一話のみ挿絵があります。サブタイトルに(※挿絵あり)と表記しております。
苦手な方、ごめんなさい。挿絵の箇所は、するーっと流してくださると幸いです。
嘘つきな唇〜もう貴方のことは必要ありません〜
みおな
恋愛
伯爵令嬢のジュエルは、王太子であるシリウスから求婚され、王太子妃になるべく日々努力していた。
そんなある日、ジュエルはシリウスが一人の女性と抱き合っているのを見てしまう。
その日以来、何度も何度も彼女との逢瀬を重ねるシリウス。
そんなに彼女が好きなのなら、彼女を王太子妃にすれば良い。
ジュエルが何度そう言っても、シリウスは「彼女は友人だよ」と繰り返すばかり。
堂々と嘘をつくシリウスにジュエルは・・・
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる