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【29】共に、王都へ
しおりを挟むシャンデリア落下の事故から、ひと月半が過ぎた。
ノーラと護衛一人だけを伴って、カルテリ港にやってきた。
シャンデリア事故の後始末がようやく一段落ついて、今朝から新しい港が動き出している。
これから出航するのか、大きな白い船の周りが慌ただしい。
今日は使われる予定が無く、ロープが張られている荷の積み下ろしのための真新しい泊地に腰を下ろして、そんな港の様子を見ていた。
万が一にも靴を落とさないように脱いで、柔らかな海風に吹かれている。
港の内側を波立たせないための波除の石、あれがサンタレーリ領から切り出した花崗岩だ。
大きく切り出した花崗岩が多数、港の入口に巨大な弓のような形に置かれている。
その『弓』の真ん中には、大型船が通れるように間が空いている。
波除石によって穏やかさを湛えている水面が、光を受けてキラキラと揺れているのをみつめながら、事故からの日々のことを考えていた。
ジュスティアーノ殿下は、ゆっくりと歩けるまでに回復している。
イラリオが王宮に事故を知らせ、陛下の命を受けた王宮医師たちがブレッサン領の殿下の元に派遣された。
肩の傷は深い部分もあり、しばらくは馬車に揺られるのは難しいと判断されて、ブレッサン領での療養となったのだった。
左目の火傷は、爛れた皮膚が癒着してしまい目を開けることもできないままだ。
頭部の火傷を治療するために、一部焼けてしまった髪の周囲だけではなくすべての髪を剃った。
その判断をしたのは、もちろんジュスティアーノ殿下本人だ。
美しい金色の髪が無くなり、額から左目にかけて火傷の痕が痛々しいその姿を見ると心が塞ぐ。
それなのに殿下は、これまでよりも明るくなったように思えるから不思議だ。
周囲の者を心配させないように無理をしている……のかと思ったが、そういう感じでもない。
このひと月半、私もずっとブレッサン公爵邸で過ごした。
事故のことと王都に帰れない旨を手紙にして送り、父からは『己の責任下においてすべてを判断し行動するがよい。サンタレーリでの仕事は代行しておく。ブレッサン公爵からも連絡を戴いている』という短い返事が届いた。
このひと月半、ジュスティアーノ殿下の看病だけということもなかった。
アルマンド夫妻と共に、事故の収拾に努めた。
ブレッサン公爵は動き出した新港についてのすべてを、アルマンドがカルテリ市庁舎の事故のことを担っている。
ブレッサン公爵はカルテリ市からの要請により、古い建物の修繕費や保存費用を支出していたが、見積書にあった修繕工事のすべてが実際行われていたわけではなかった。
むしろ、修繕などほとんどされていなかったというのが現状だ。
あの年代物のシャンデリアも修繕見積書の中に入っていたものの、手付かずだった。
業者からのシャンデリアの修繕費用の請求書に書かれた文字は、カルテリ市側の書類の文字と明らかに同じ筆致だったとアルマンドが憤慨していて、こんな初歩的な手口が今日まで看過されてきたのかと驚いた。
現場で不正を働いていたカルテリ市長の甥を通じて、そうして浮かせた金はカルテリ市長の懐に入っていた。
ブレッサン公爵とアルマンドの苦悩は計り知れない。
自領の市長が不正を働き、そのせいで国の第一王子が大変な怪我を負った。
新しい港の開港祝賀会があのような形で水を差され、隣国の技術者たちも微妙な面持ちのまま帰国することになった。
そんなアルマンドの助けに少しでもなればと、夫人のレナータ様と共に、祝賀会に参加していた家々にお詫びの手紙を作成するのを手伝っている。
手紙を書くのはレナータ様で、私はそれに伴う雑事を引き受けている。
いったいこれからブレッサン公爵家がどうなっていくのか、アルマンドのことやジュスティアーノ殿下のことを思うと気持ちが塞がっていく。
大怪我を負った殿下自身がブレッサン公爵家に罰を与えようなどと思わなくても、陛下や世間がそれを許容するとも思えなかった。
周辺が少し騒がしくなった気がして振り返ると、杖に支えられたジュストが立っていた。
護衛たちを下がらせて、ゆっくりとこちらに向かっている。
私は慌てて靴を履いた。
まるで見計らったように、ドナート様と従者が椅子を二つ持ってきてくれた。
「靴を脱いであそこに座るのは、危険ではなかったのか? まるで十二歳の頃のレティだった」
「時々、十二歳だったら良いのにと思うわ」
「時々なのか。俺はわりといつもそう思っている」
「現実逃避は、時々くらいがちょうどいいのよ」
「そうだな。現実をしっかり見なければ。船が入っているこの港を見るのは今日が初めてだ。まるで港が息をしているかのようだな」
「そうね、これまで来ることができなかった遠くから多くの船舶が出入りするでしょう。ロンバルディスタにさまざまな物がやってくるわ」
「ロンバルディスタの物も、遠方の国に出て行くのだな」
「重要な港になるわね」
横顔を見ると、ジュストは優しい海風を頬に受けて眩しそうにしている。
しばらく互いに黙って、ただ光る水面を見ていた。
「そろそろ城に帰ろうと思っている。いつまでもブレッサン公爵家の迷惑になるわけにもいかない。それに、やらなければならないことがある」
「他の方に代行して戴くわけにはいかないのかしら……。まだ完全に傷が塞がったのではないのでしょう?」
「俺自身がやらなければならないことなんだ。俺は未来の国王の座を、ベルナルドに引き受けてもらおうと思っている」
「……王太子にならないというの……?」
「そうだ。この国の象徴であり貴族や民の全てを束ねる者として、隻眼で爛れてしまった顏ではどうにも具合が悪いだろう」
「そんな……」
「でもそれ以上の理由として、夢ができたんだ。レティーツィア、俺を君の婿にしてもらえないだろうか。サンタレーリ次期公爵となるレティーツィアと共に生きていきたい。愛しているんだ、レティ」
「……第四王子などではないのよ……第一王子が臣下である公爵家の婿になるだなんて……陛下がお許しになるとは思えないわ……」
「今は、レティの気持ちだけを聞かせて欲しい。俺ではダメか?」
ジュストは不自由な身体を私に向けて、真摯な瞳でそう言った。
未来の国王の座に一番近い席を譲り渡して、私の婿となることを希望するという。
そんな私にばかり都合のいいことが、本当に許されるのかしら……。
でも、ジュストが私の気持ちだけを求めているのならば、私に言えることはひとつしかない。
「ジュストと一緒に生きていける未来があるのなら……私もずっとジュストのことを……秘かに、好きだったわ」
こういう場面で泣いたりしたくないのに、勝手に涙がこぼれる。
「俺はレティの涙をぬぐうことさえ上手くできなくなってしまったし、俺自身、泣くことも下手になってしまった。そんな俺でもレティの隣で生きていきたいと、ただそれだけを……」
「……ジュストが上手く泣いたことなんて、一度も無かったじゃない……」
片目になってしまった瞳に涙を浮かべたジュストを、屈んでそっと抱きしめる。
陛下の気高い理想に近づけるように、いつもジュスティアーノという個を抑え続けていたその姿を見てきた。
そんなジュストが私の前では泣けるのならば、ジュストが帰りつく港のようになりたい。
荒れる海から帰り、安心して碇を下ろせるそんな存在に……。
陛下がお許しになるか今は分からないけれど、私はジュストと共に生きていきたい。
「……少し、風が出てきたわ」
「海鳥たちも家に帰る頃か。……レティそろそろ俺たちも、王都に戻ろうか。馬車で揺られると傷が開いてしまうかしれないと言われているが、ゆったりとした日程で、早めに宿に入りながら戻るつもりだ。レティの分の宿も押さえようと思っている。俺たちとは別の宿になるのだが」
「……私もそろそろ王都に戻らなければならないと思っていたの。家の仕事は父が引き受けてくれていたけれど、ずっとそうしてもいられないもの。一緒に帰ります。それでいつの出立となるのかしら」
「急だが、明日の朝にも出立できるように手配をすることができる。荷造りなど、手が足りなければ俺の従者をつけようか」
今回のジュスティアーノ殿下には侍女は同行させておらず、すべて男性の従者だった。荷造りだもの、殿方には見られたくないものもいろいろあるわ……。
「いえ、それには及ばないわ。明日の朝に間に合うようにします」
「今夜はここでの最後の夕食になるな。ダンスでも踊るか?」
「怪我人をエスコートするのはお断りします。医師のかたとどうぞ」
「……あの祖父のような医師と踊るところを想像してしまったではないか」
ジュストは笑いながらそう言った。
その笑顔はこれまでとは違うものになってしまったけれど、それでも笑顔を見ていると心から安心できる。
その日の夜、アルマンドとレナータ様が手配してくださったディナーはとても素晴らしいものだった。
ジュスティアーノ殿下と医師のかたのダンスは残念ながら見られなかったけれど、ブレッサン公爵家お抱えの楽団から四人やってきて、生演奏の中での食事となった。
ブレッサン公爵は陛下から呼び出され王城に向かっているとのことで、最後に挨拶することは叶わなかったが、王都で会えるかもしれない。
ブレッサンでの最後の星空を部屋のバルコニーからみつめながら、港でのジュストの言葉を思い出していた。
『……レティ、港の穏やかな水面に映る夕陽が美しいな……。俺たちも、新たな人生への船出なのかもしれない』
ジュストと二人で、新しい未来への船出をこの港から──。
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