領主の妻になりました

青波鳩子

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【27】ブリジットの最期 *ブリジット視点

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鉄格子の扉から背中を押されて、固い石の床に倒れた。
扉が閉められ、大きな錠前が不愉快な音を立てて閉じ込められたことを告げる。

「ちょっと待ちなさいよ! 足の治療はどうしたのよ! まさかこのままではないでしょうね」

「すぐに処刑となる罪人に手当ては必要ないとのことだ」

私をここまで連れてきた男たちは、それ以上無駄な言葉も動きも見せずに戻って行った。
あの悪魔は本気で私をすぐに処刑するつもりなのだ。
首元に悪寒を感じ、そろりと撫でる。
ここへ入れられる前に、髪を切られた。
短剣を持った男が私の髪を無造作に掴んで、掴んだところを切ったのだ。
暴れたら首が切れてここで処刑となってしまうぞ、そう脅されて大人しく切られるしかなかった。
夕べ、香油を揉み込んで丁寧に梳いた髪が、無残にも切り捨てられた。
悪魔め、殺してやる……そう口の中で転がしたが、死ぬのは自分だ。

シグネットリングを見たのは、王子妃教育を城で初めて受けた時だ。
城の中を案内されながら、王宮宝物庫には歴代王妃のティアラや過去の王のシグネットリングなど、大切なものが保管されていると説明を受けた。
王宮宝物庫の中は貧しい家の臭いがした。

***

学園に入園したばかりの頃、公爵家の娘が女子を集めて『クラスのみんなで毎日順番に茶話会を開きましょう』と言い出したことがあった。初回は言い出した公爵令嬢の家で行われ、伯爵家の自分も圧倒されるような大きな邸宅と、豪華な茶話会だった。
そして翌日の回の主催となる者を当日のホストが指名するという話で、翌日は公爵令嬢の仲間内の伯爵家の娘が指名されたから準備不足ということはなかった。
言い出した公爵家の娘に『指名』された伯爵家の娘は、翌日のホストとして男爵家の娘を指名した。
ああこういう趣旨なのかと理解した。

公爵令嬢の婚約者が可愛いと口を滑らせた相手が、その男爵令嬢だったという噂を耳にしていた。
いきなり翌日に茶話会を開かなくてはならなかった男爵家の娘の家は、我がホールデン家の裏庭の温室くらいの大きさだった。
六人しか座れないテーブルに、形の異なる椅子がひじ掛け同士が触れそうなほどに詰めて置かれていた。
急いで街で調達してきたような焼き菓子、不揃いのティーカップ。
何より家の中に入った瞬間に、こもったカビのような臭いがして思わず顔を顰めた記憶がある。
臭いの記憶はいつまでも残るものだ。
公爵家の娘とその一派は家の中をぐるりと見回すと、見下すようなことを言ってお茶も飲まずに出て行った。
それから程なくして男爵家の娘は学園を去った。

あの時いろいろ悟った。
権力と金、それが無ければ個人の資質の良さなど塵のように吹き飛ぶのだと。
ホールデン伯爵家より裕福な男爵家もあるが、あの男爵家は没落寸前だった。
父が金を積んで入園した私と違い、あの男爵令嬢は実力で入園してきたと思われる優秀さがあった。
清楚な可愛らしさを持ち朗らかで優しく、彼女こそが男爵家の財産だったのだろう。
だが蛇に目を付けられ、睨まれた蛙は飲み込まれてしまった。
公爵令嬢の婚約者は別の公爵家の嫡男で、家格は高かったが背の低い冴えない容貌だった。
冴えなくとも婚約者の滑らせた一言で公爵令嬢が怒り、一人の男爵令嬢の人生が狂わされた。

そんなことがあって、私は父が持ち込んだ馬鹿王子マーヴィンとの婚約に喜んだ。
王が容姿だけで見初めた側室の息子だけあって、見た目だけは素晴らしかった。
頭と人格が悪くても王族、しかも第二王子だ。
権力はあるのに義務は王太子より軽いなんて最高だと感じた。
王子妃教育は王太子妃教育よりも短く易しい。
第二王子の婚約が発表されてから、あの公爵令嬢が私に向ける目や言葉におもねる色が混じるようになった。
気分爽快とはこのことかと実感した。
権力と金、それしか私には必要ない。
恋だの愛だの、そんなものは生きていく上でまったく自分を慰めない。
恋心など、権力と金の前では簡単に消え失せる。
愛など、権力と金を持つ者の爛れた余興に過ぎないのだ。

***

あの悪魔が言ったシグネットリングの重要性について、王宮宝物庫を案内された時には一切説明されなかった。
あの男爵令嬢の家のような臭いがした王宮宝物庫は、ただの王家のノスタルジーを閉じ込めた場所くらいに思った。
シグネットリングの持ち出しや窃盗がそこまで重罪ならば、あの案内の時に伝えるべきだ。

この牢に連れて来られる前に居た部屋の警備の者にそう言ったら、
『王子妃教育とは、この国の名前の綴りから教えなければならないのか? シグネットリングについては歴史の授業の最初に習ったはずだ。貴族なら知らない者はいないだろう』
そう言われて何も言えなかった。
嫌いな勉強の中でも『歴史』が一番無駄だと思っていたからほとんど聞いていなかった。
未来をどうするかなら興味も湧くのに、昔を眺めてどうしろというのか。
昔は良かったと年寄りが言い続けるのをまとめたような授業は、金と時間の無駄だと、そう思っていた。


王宮宝物庫の中からシグネットリングを持ち出したのは、王妃のティアラは盗み出すには大きすぎる、リングなら簡単だと思った、それだけの理由だった。
父は、他の貴族へ貸した金のかたとして手に入れた宝飾品や美術品を他国で金に換えるルートを持っていた。あのリングもそうして金に換え、自分の財産を増やそうと思っただけなのだ。
王宮宝物庫に当然警備の者はいたが、隙だらけだった。
王宮内にあるという安心感とそこから生じる意識の低さがそうさせていたのだろう。
『第二王子の婚約者』という身分があれば、宝物庫に入ることはそれほど難しくなかった。
シグネットリングを売り払う前に、悪魔が王になってしまい身動きが取れなくなった。

***

ドレスの腰に巻いてあったリボンを切られた足に結ぶ。
血は止まっていたが、切られた場所の周辺が脈打つようにじくじく痛む。
それにしてもどうして隠した物を探し当てられてしまったのだろう。
下着の入った引き出しは、それ用に奥に空間が作られていた。
引き出しの小さな木の突起を外すと、引き出しを取り出すことができる。
その奥の空間に、ドロワーズで包んだ証拠を木箱に入れて隠していた。
普通に引き出しを引くと、引き出しが落ちないように止まるようになっている。
それより奥に何かあるとは思いもしないというのに。
以前の捜索で、その先頭に立っていたクライブは見つけることができなかった。
それなのにどうして……。
まあ、考えたところで答えを知ることはできないし、無かったことにもならない。
誰かとても優秀な人間、または良からぬことを思いつく人間がいたのだろう。
悪事の隠ぺいの仕方というものは、似た思考の見知らぬ誰かとそうと互いが知らぬまま共有しているものだ。

コツコツと石の床を踏む靴音と共に、剣を携えた警備の者がやってきた。

「これから国王陛下がお見えになる。姿勢を正して立っていろ」

私は立ち上がらなかった。
しばらくして大人数の靴音が響く。

「ずいぶん寛いでいるな、平民用の牢を気に入って貰って何よりだ」

「短慮で浅薄で暴力的な男に切られた足が痛くて立てませんわ。その男が牢に入れられるのを待っているところですの。ここには空き部屋があるようですし」

「おまえの両親の処刑が終わった。早く地獄で会いたいだろうから迎えにきてやったぞ。おまえの待ち人とは違うが」

両親の刑が執行された……。
悪事のインク壺に両手を突っ込みその手を真っ黒に染め上げていた父はともかく、母には何の罪もないというのに。
ギリギリと悪魔を睨んだ。この目から炎でも吹きだせば悪魔を焼いてやれるのに。

「伯爵は最期まで無言だったが、夫人はおまえを産んだのは自分ではない、伯爵が下賤の女に産ませた娘を押し付けられただけだと喚いていたな」

「……なん、ですって……」

父が下賤の女に産ませた娘……。下賤の女といえば平民のメイドか、それとも市井の酒酌み女か……私はそんな女の胎から産まれた……。

「なんだ、知らなかったのか。本当におまえは何も知らずに生きてきたのだな。
シグネットリングの何たるかも、クライブは第三王子だったが傅かれて育ってきたのではないことも、自分が下賤の女から生まれてきたことも。
まあ、生きていく上では知らないということは大きな損失だが、すぐに死神が物知らずのおまえを連れて行ってくれるから、すべては今更だ。
物知らずに反省という概念などないだろう。
おまえは枯れた井戸のような人間だ。その中には欲深さの胞子が浮遊しているだけで汲めども何も無い」

「……あんたに何が分かるというの」

「おまえ以外の人間は皆分かっているから安心しろ。
ああそうだ、おまえの処刑の方法はつまらないが毒杯とした。
今年採れたばかりの葡萄で作ったジュースに混ぜてやることにした。
この国の歴史書のジェイラス王の項目に、慈悲深い王の文字が加わることになるな」

「歴史書なんて誰も見ないわ。私がその編纂係ならあんたの名前の横にと書いて終わりよ!」

悪魔は笑い声を石の壁に響かせながら、振り返りもせずに去っていった。
すぐに警備の者たちに後ろ手に拘束され、檻から出された。同じフロアのすぐ近くにある部屋に連れて行かれる。
下賤の血が自分に流れているということも、母から産まれたのではないということも、頭からペンキを掛けられたようにべったりと私に取りついている。
母は父に押し付けられた私を、そう私に気取られることなくどんな気持ちで育ててきたのか。
これまでの母に纏わるすべての記憶が作り物だった……。
母の最期の言葉は、私という人間を否定し拒絶するものだった。

私は権力と金しか要らなかったが、それは高貴な貴族の血がある前提のことだった。
最低限あるべきものを持っていなかったのに、権力と金を欲したのはあまりにも無駄だ。
そのせいで命がもうじき終わる。
私は失ったのでなく、最初から何も持っていなかった。

終焉は、石の牢の中の木製の椅子とテーブルで迎えるようだ。
木製のテーブルにある黒い滲みが何なのかを考える時間も、もう残されていない。
檻の扉をくぐるようにして、屈強な男が銀の盆にグラスを載せて入ってくる。
後ろからもう一人、同じような体躯の男が続く。
その男が拘束された私の手の枷を外したが、足の枷はそのままだ。
ワインのようだが今年採れた葡萄のジュースだと言っていたそれは、ワイングラスではなく脚のないコップに入っている。
二つあるのは予備なのか。

「懺悔の時間を与える。目を閉じて祈るがいい」

そう言われ、何故か素直に手を組んで目を閉じる。
頭に浮かんだ顏は、不思議なことに婚約者だったマーヴィンだ。
容姿以外ひとつも良いところの無い男だったが、初めてのベッドで乱された後、私の額の汗を手で拭いながら『辛かったか』と聞いてきた。
それが驚くほど優しい声だった。
何故そんなことを今思い出しているのだろう。

どの時点からやり直せば私は幸せを感じることができたのか。
実母だと思っていた母の最期の言葉を思い出し、産まれる前からやり直さなければ無理だと思い直した。
私は誰からも愛されていなかった。


目を開けると、葡萄ジュースのコップが置かれた。
飲めとまだ言われていないが、一気に煽るように流し込む。
ねっとりとした甘さは葡萄の味ではなく喉を通り過ぎながら喉を焼き、苦しさから涙が浮かんだ。
もっと早く泣きたかったが私に胸を貸してくれる人は最初から、この世のどこにもいなかった。
 
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