領主の妻になりました

青波鳩子

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【10】フレスベルグの恐翼がやってくる 

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この【10話】は、この土地で『フレスベルグ』という伝説の翼獣の大暴れに例えられる『暴風雨』がやってくる場面を『フォスティーヌ』の視点と『クライブ』の視点で交互に書いています。
『フォスティーヌ』視点が『アーサー』視点に代わることもあります。
薪?炭?と言った疑問を飲み込みつつ、視点を変えて時系列が流れていく【10話】を読み進めてくださると有難く思います。

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【フォスティーヌ視点】

西の空だけが不気味なほどに暗いのに青い空も見えるという、少し不思議な空模様だ。
今日は別邸に大切な客を招くとのことで、敷地内全体に慌ただしい空気がある。
もちろん私には関係のないこと。
客が来てもここには挨拶にも来ないだろうし、私が呼ばれることもない。
ただ、夕方くらいには本邸の使用人たちも別邸に行くと聞いている。
それほど手が足りないのだろうか。

四人でいつものように朝食を摂っていたら、ドアを叩く者がいた。
アーサーが対応しようとドアを開けると、パン屋のおかみさんが飛び込んでくる。

「奥さん、助けてくれないか!」

「アーサー、応接室にお通しして」

おかみさんは、

「急いでいるからここで言わせてほしい」

そう言って、誰の返事も待たずにしゃべり始める。

「あれが来るんだ、フレスベルグだよ! 全部説明している暇はないが、これから物凄い勢いの風と大雨がやってくる。
フレスベルグというのは伝説の獣で大きな翼を持っている。
この時期の大風と大雨は、フレスベルグがやってきて暴れるのだと言われているんだよ。
外に置いてあるものは飛ばされるか大雨によって水浸しになる。
間の悪いことに、ちょうど明後日からこの辺りでは小麦を収穫することになっていたんだ。
でもこのままでは大風と大雨で根っこからダメにされてしまう。
その前に手分けして小麦を今日のうちに収穫するんだが、モッカ婆さんの小麦の収穫を手伝ってもらえないだろうか。
モッカ婆さんは病気の治療で今は王都にいる。あたしらは自分の畑と親戚の畑で手一杯なんだよ。他の誰もが手が空いていないんだ。
あの小麦が全滅ならば、モッカ婆さんは来年食べるための金がまったく入らなくなる……」

モッカ婆さんは小麦だけではなくお茶の葉も栽培して売っている。
この頃はあまり目が見えていないらしく、小麦畑や茶畑は皆で助けて面倒をみているようだ。
でもそれは平常時のことで、今は非常時。
誰もが自分や親族の畑や家屋を守ろうとして手が空いていないのだろう。
アーサーが立ち上がりながら言った。

「分かりました、自分が参ります」

私が行きますと言おうとしたら、アーサーに先を越された。

「アーサー、もちろん私も行くわ。それと、大雨と強い風が来るというからピートとヘレナで外の薪小屋の薪を全部広間に入れておいてくれると助かるわ。頼んでいた薪が届くのは確か二日後だったわね? それまで今あるものを濡らさず大切に使わなくては。それから炭小屋の炭も全部屋敷の中に移動よ! 大変だけどお願いね!」

「パン屋のおかみさん、ここまでは何でやって来たのですか?」

「あんたたちをこのまま連れて行くつもりだったから馬車で来たよ」

「ではそれに奥方様と私を乗せてください」

「急いで支度をするわ!」

朝食のスープは諦めて、二階に上がりながらパンを齧る。お行儀が悪いなどと言っていられない。汚れても濡れてもよくて小麦を収穫できる恰好に着替えた。



【クライブ視点】


別邸内は、ここで暮らすようになってから初めてのパーティとあって活気に満ちている。
このところ私もブリジットもやや退屈を持て余していた。
特に車椅子生活で思うように動けないブリジットはどこか苛立っているように見えることもあり、以前のように四六時中一緒に居るわけでもなく、互いの部屋でそれぞれ過ごすことも増えた。
そうした些細な悪い方向への変化を打開すべく、王都からブリジットの両親と兄を招くことにしたのだ。

ブリジットは王都にいたときは夜会が好きだった。
美しいドレスを着て煌びやかなホールにいるだけで楽しかったそうだ。
歩けなくなってしまいこの領地も王都から遠い。ブリジットはずっと我慢の生活を送っていた。
今日のために新しいドレスを作らせた。
車椅子でも着られるように、スカートを膨らませる枠を入れる代わりにフリルをたくさんあしらった特注のドレスだ。
色を決める際、ブリジットは恥ずかしそうに、

「クライブ様の青い瞳のようなお色を……」

そう伝えてくれた。なんと奥ゆかしいことであろうか。
私はブリジットの希望を取り入れ、お揃いで青い石の髪飾りと首飾りを作らせた。ブリジットはそれを見て、目に涙を浮かべて喜んだ。

ブリジットの両親と兄は夕方頃の到着となるそうだ。
今夜は三人とも別邸の客間に泊まり、ゆっくりと過ごしてもらう。ブリジットと積る話もあるだろう。
料理人はこの別邸だけで七人いる。専門の持ち場を与えその腕を毎日ふるってもらっている。今日はその手腕をそれぞれが大いに発揮してくれるだろう。
ブリジットも車椅子であちこちに出向いて直接指示を出してくれていた。ワインの銘柄の指示や、この領地の蒸留酒も種類が少ないと従者を叱る。
花が少ない、寒い場所があるなど、執事たちの行き届かなかったところを注意してくれた。
そんな嫌な役割もブリジットは引き受けてくれるのだ。
ブリジットがこの館の女主人であれば、もっと多くのことにその能力を見せてくれるはずだった。
ブリジットを妻とできなかったことに、今更ながら歯噛みする思いがした。



【フォスティーヌ視点】


モッカ婆さんの小麦畑の近くでおかみさんは馬車から降りた。
鎌や鉈などの道具が入った革袋を背負ったアーサーに続いて、私も馬車を降りる。

「刈った小麦はあの小屋にどんどん入れてくれればいい。
あの小屋はモッカ婆さんの家より立派なんだ。レンガを丁寧に積んだ小屋で雨にも風にも強い。
小屋の中には小さなテーブルと椅子もあるから昼食を置いておく。
悪いが暗くなるまで刈れるだけ刈ってやってほしい。
ただ雨が強くなってきたらそれまででいい。
帰りは迎えに来られないので、すまないが通りまで出て馬車に乗っておくれ」

「分かったわ。おかみさんも雨には気をつけて!」


「それにしても奥方様のお人好しにもほどがあります。こんな無茶な頼みに、奥方様まで来なくてもよかったのです」

「一人より二人のほうがたくさん刈り取れるわ。倍の速度でと言えるほど自分を過信してはいないけれど」

「とにかく始めましょう。この広さを二人だけで刈るとなると、圧倒的に時間が無い。しかも奥方様は、鎌など持ち慣れていないでしょう」

「ここへ来てからは扇子を持たずに鎌を持っているわ。さあ始めましょう」

モッカ婆さんの畑には、黄金色に輝く小麦が実っていた。
雨はまだだが風はかなり強く吹き始めており、麦の穂を大きく揺らしていた。
こんな美しい麦が雨風で倒れて泥に沈んでしまうなんてとんでもないことだと、ここに立ってやる気が湧く。

私たちは小麦畑のあぜ道から左右に分かれて敷地の内側から刈り始めた。
根元を足で踏み押さえながら、茎を掴んで鎌で刈り取る。
少しずつ束ねて、麻袋を広げた上にどんどん重ねる。
ある程度溜まったら、アーサーが抱えて小屋に運んでくれるのだ。

小一時間も腰をかがめて刈っていると、ふくらはぎと太ももの前の筋肉が痛くなってくる。
鎌を持つ手も指の付け根が赤くなってきた。暑くはないのに汗がぽたぽたと落ちる。
それなのに、思うほどサクサクとは進まない。
なんとか昼までに半分でも刈り取ることができれば……。
何回目かに麻袋の小麦を小屋に入れたアーサーが、

「今のうちに、さっと昼食をいただきましょう。向こうの空がゴロゴロ鳴り始めています。もうじき降ってきますよ、これは」

小屋に用意された昼食を広げた。ポットのお茶はとっくに冷めてしまっているけれど、汗をかいているのでちょうどいい。
卵を潰したものと野菜が挟んであるパンを、アーサーと何も話さずに食べる。
おかみさん特製のドーナツもあった。砂糖がまぶしてあって、疲れた身体に甘さが染みわたる。
さすがパン屋のおかみさんのドーナツはおいしいけれど、少し私には多かった。
最初に半分に割ったドーナツを包み直そうとしたら、

「これ、いただいてもいいですか?」

そうアーサーが言うのでどうぞと渡した。
齧りかけではないけれど、さっきまで私が持っていたドーナツをアーサーは迷いもなく口に入れた。
その姿に何故か胸が速く打った。



「さて急ぎましょう」

手がぶるぶると小刻みに震えているのをパンパンと叩き、すぐに鎌を持って畑に入る。
刈り始めた当初より、かなりコツを覚えて速くなってきている。
それからしばらくもしないうちに、頬にぽつんと冷たい雨が落ちた。

「……来たわね、フレスベルグの風と雨……」

「降ってきましたね!」

アーサーも雨に気づいて大声で教えてくれる。
鎌を持つ手が痛くて燃えているようだけど、この手を止めるわけにはいかなかった。
掴んだ麦の茎なのか鎌なのか、手のところどころに引っかき傷ができて血が滲んでいる。
こんな時なのに、白くてほっそりした手であればクライブ様の隣に相応しかったのだろうなどと思ってしまう。
今はそれどころではないのに。

始めは小さな粒だった雨が、ぼたんぼたんと大きな粒になったかと思ったらすぐにザーザーと降り始めた。
全身の痛みと寒さに耐えながら、どんどん麦を刈り取っていく。
雨にも風にも容赦なく叩きつけられる。
川に飛び込んだみたいにずぶ濡れになりながら、なんとか半分は刈り取れた。
刈り取りの姿勢から身体を起こしたら、ぐらりと視界が歪んで思わずしゃがみ込む。
もう無理ね、まだまだ麦は残っているけど、これが限界……。

「奥方様、もう戻りましょう」

アーサーは雨が降る前に刈り取った麦と、雨に濡れてしまった麦とを小屋の中でしっかり分けてから、ぴったりと小屋の扉を閉めた。

「……最後まで刈ることができなかった。でも、少しは収穫できたわよね」

「ええ、全滅よりよほどいいはずです。私からもお礼を申し上げます。ここの麦を刈り取ってくださってありがとうございました。停車場まで歩けますか?」

「……大丈夫よ」


大雨のせいかなかなか馬車が来ずじりじりとしていたところ、一台の馬車が私たちの前に止まった。

「こんなところでどうしました! 領主の奥さん、館に帰るところですか?」

「そうです、こんなずぶ濡れで申し訳ないのですが乗せていただけませんか!」

私の代わりにアーサーが言うと、カリンを急いで収穫してきた帰りだという男性が扉を開けてくれた。

「助かりました、なかなか乗合い馬車が来なくて」

「そりゃそうだ、今日は昼で乗合い馬車は休みになりましたよ! カリンのカゴを適当に除けて座ってください!」

やっと座ることができて、ほっとする。
馬車の座面にそのまま身体が溶けてしまいそうだ。
アーサーが馬車の持ち主の名前を尋ねていた。
そんな二人の会話が、なんだか遠くに聞こえる。
後でお礼をしに行きましょう……。
アーサーが頭からタオルをかぶせてくれ、乾いたタオルの温かさに目を閉じる。

ぞくぞくと寒気がするのに、のぼせるような感じもして目の周囲が熱い。
身体が馬車の揺れに合わせられなくなって傾くと、強い力で頭を支えられた。
アーサーが自分の肩に私の頭を押し付けるようにして、寄り掛からせてくれたようだ。
こんな風に夫ではない男性に触れてしまうのはよくないと分かっていたが、だんだん頭の中に灰色の雲が垂れ込めるようにぼんやりしてきて自分の意志で身体を動かせない。

アーサーの体温がここにあることにとても安心する。
こんなふうに誰かに守ってもらったことなどなかった。
バーネット侯爵家では私が熱を出すと、レリアーナに間接的に感染うつしてはならないと父も兄も私の部屋に近寄らなくなった。
侍女にも幼い孫がいるのだからと、父は廊下に置かれた食事を自分で取りに出るようにと閉じた扉の向こうから大声で言い、立ち上がれるようになるまで水すら飲めなかった。
侍女の孫にさえ見せる配慮を、父は私に向けてはくれなかった……。

今、アーサーに寄りかかっていることが良くないことと分かっていても、あと少しでいいからこのままでいたい……。温かくてありがたくて……涙が滲んでくる。

馬車全体を叩く雨の音と、馬車をひっくり返してしまいそうな風の音、外から入り込んでくる湿った土の匂いが私の襟首を掴み、馬車の外へ私を放り出そうとしている。

その時、額に優しい手が触れたように感じた。

この優しい手は……お母さま……お母さま……。

温かい母の手を掴もうとするのに、あと少し届かない。

「……お母さま……」

そこで私の意識は途切れた。



【クライブ視点】


「雨のせいで少し早めに到着してしまいました」

「いや、早い到着は嬉しい。よく来てくれた」

ホールデン伯爵夫妻と嫡男が別邸に到着した。
伯爵夫人はブリジットの車椅子の前にかかんで、手を握って喜んでいる。

「途中で雨が降り始め、馭者が速度を上げたもので予定より早く着きました」

「雨の中よくいらしてくれた。さあ奥へ。温かい茶を用意している」

領主となって初めての客を迎え、ここ別邸はいつになく賑やかになった。
新しく誂えたドレスに身を包んだブリジットは輝くばかりの美しさだ。

窓を叩くような雨が降っていた。
今日は泊まってもらうことにして正解だった。ゆったりと過ごしてもらいたい。
お茶を飲みながら、菓子担当の料理人が今日のために取り寄せた果物を使った艶やかなタルトを食べる。
伯爵夫人がそのタルトにたいそう喜んでいる。

「旦那様、少々よろしいでしょうか」

執事の一人が、私の傍に屈んで声を掛けてきた。
客をもてなしている最中だというのに、いったいなんだ。
だが執事の厳しい表情を見て、部屋を出る。


「旦那様大変です。先ほど使用人の一人から、薪小屋と炭小屋の扉が暴風雨で外れて、中にあった薪と炭がずぶ濡れになってしまったと報告がありました」

「薪と炭がずぶ濡れだと!?」

「……あるものすべてが水に濡れてすぐには使えない状態になってしまったと……」

「なんだと!? それでは今夜はどうなるのだ? 客が泊まるのだぞ!!!」

「申し訳ございません! 今邸内にあるものはこのまま同じペースで使用していきますと、……日付が変わる前に切れてしまうでしょう……」

「……なっ……ふざけるな! どうするのだ!」

ブリジットの家族が来ているというのに、建物の中が寒いなどというのはあってはならない。
思わず頭を抱える。

「あの、旦那様、本邸から薪と炭を譲ってもらうのは……」

本邸の薪と炭を?
この暴風雨ではとても街まで薪を買うための荷馬車は出せない。
そうなると本邸から分けてもらうしかないのか。
アレは薪を分けてくれなどと私が頭を下げたらどんな顔をするのか。

「そ、そうだな。向こうにはそれほど人数もいないし、どうにかなるだろう。こちらには大切な客が泊まるのだ。
誰か、本邸に話を付けて来い。あ、いや私が行く。何人か薪を運ぶ者と濡れないようにシートを用意しろ」

ブリジットの家族が泊まっていくというのに、薪と炭を全部濡らしてしまうなんてありえないだろう。本邸から持ってくればいいのだ。
来客のいる今夜が何事もなく過ぎてくれさえすれば。



「アーサー!」

執事の名を呼びながら本邸に入って行くと、使用人が一人出てきた。用意のいいことに、広間に薪が積み重ねられている。

「アーサーはどうした?」

「アーサー様は用事で出かけております」

「こんな時に外出とは……いったい何をしているのだ。この薪と炭はもらっていく」

「えっ! これをですか……」

「なんだ文句があるのか?」

「いえ……文句などは……」

「よし、おまえたちはこれらを濡らさないようにきっちり包むのだ。
これだけあれば明日いっぱいくらいは足りるだろう」

別邸から連れてきた従者たちに指示を出すと、皆テキパキと手際よく薪と炭を包み始めた。
アーサーは外出中といったが、アレはどうしているのだろう……。
まあどうでもいい、今はそれどころではない。
とにかく客がいるのに薪と炭が足りないなどということを防げそうで安心する。

「アーサーが戻ってきたら、別邸に来るよう伝えてくれ」

「……かしこまりました」

広間に積んであった薪と炭を一つ残らず別邸に運ばせた。
本邸に残された者たちが、それら無しに今夜どう過ごすのかということはまったく頭になかった。



【アーサー視点】


乗せてもらった馬車の持ち主に頼み、敷地内まで入ってもらい本邸の馬車寄せギリギリまで付けて奥方様を抱えて降りた。馬車の持ち主は快く応じてくれ、奥方様を心配する声を掛けてくれた。

奥方様の額がありえないほどの熱を帯びていて、意識を失っている。
母親の夢を見ていたのか、『お母さま』と呟き目尻に涙があった。
その涙を見て、思わず抱きかかえた腕に力が入ってしまう。
畑で奥方様はもう少し刈ると言ったが、自分の判断で雨が酷くなる前に止めるべきだった。
すぐにヘレナに湯に入れてもらい、その間に奥方様の部屋を暖める……。

「ヘレナ!」

「はい! 奥方様はどうなさったのですか!?」

「高熱で意識がない」

「そんな……こんな時に……」

どこか二人の様子がおかしい。

「どうした、何かあったのか?」

「あの、先ほど旦那様がお見えになって、本邸の薪と炭を全部別邸にお運びになりました……」

「薪と炭を全部と言ったか!? ここに残っているのはどれくらいだ」

「残っていません、全部運んでいきました」

「……分かった」

奥方様が、雨が来るから邸内に入れるようにと言って、二人が入れてくれた薪と炭を全部向こうに持っていかれたというのか。
いったいどういう訳でそんなことを旦那様は……。

「薪と炭のことは後で考えるとして、ヘレナ、とりあえず奥方様を湯に入れて……待て、まさか湯を沸かすこともできないのか!?」

「アーサー様、湯は無理です……台所に簡単な食事の支度をするくらいの薪が残っているだけで、湯浴みの分までは……」

「そうか……。ヘレナ、タオルをあるだけ奥方様の部屋に持っていってくれ」

バタバタとヘレナがリネン室に走っていった。
奥方様を抱え直し、気をつけて階段を上がる。
ピートが部屋の扉を開けてくれ、タオルを抱えたヘレナもやってきた。

「ヘレナ、ソファにタオルを重ねて敷いてもらえるか」

「はい! 三枚くらいでいいですよね……」

大きなタオルが三枚重ねられたソファに、そっと奥方様を下ろした。
ヘレナは奥方様の頭の下に小さなタオルを入れ、それでくるりと髪を巻くようにした。
髪を短くしたおかげで難なくタオルでくるむことができる。
ヘレナは奥方様の着替えを取りにクローゼットへ行った。

この部屋の暖炉を確かめると、残念ながらあまり薪は残されていなかったが火をつける。
そもそも奥方様は私室で薪をそう使わないのだ。
一階の居間にいれば、自分以外の者も暖を取れるからという理由で。

失礼しますと言い訳のように呟いて奥方様の額に触れる。
驚くほど熱い。
馬車で額に触れた時よりさらに熱が上がっているように思えた。
眠っているのに呼吸が荒く、何かと戦っているかのように眉間にしわを寄せている。
せっかく身体が乾いたのに、細い首筋に小さな玉のような汗が浮かんでいる。
どうして奥方様ばかりこんな目に遭わないとならないのかと、ここで仕事をしている以上どこにも向けられない怒りが全身を駆け巡る。
これ以上奥方様に触れるのはいくら病にあるといってもあまり良くない。
奥方様の為にならないことは何ひとつしたくなかった。

「ヘレナ、奥方様の着替えを頼む」

後をヘレナに任せて、ピートと共に部屋を出た。
旦那様と話をしなければならない。
雨を通しにくい上着を着込み、別邸に向かった。



【クライブ視点】



ディナーが滞りなく終わり、サロンに移りゆったりと皆で茶を飲んでいる。
ブリジットの家族たちはすっかりくつろぎ、食事中に酒を飲み過ぎたと言っていたブリジットの兄は早々に用意した客間に行った。
王都から取り寄せたワインだけでなく、この領地の蒸留酒が特に気にいったらしい。
ブリジットも心を許せる家族の前だから、酒を楽しんでいた。
頬をうっすらと染めたブリジットは、ハッとするほどの色香を湛えている。
大きく開いたドレスの胸元から見える白い肌がほんのり赤い。
ブリジットをかつて傷つけたマーヴィンの実弟である自分は、ブリジットの傷を抉ることになるのではと未だその身体に触れたことはない。
腰の骨を折って歩けなくなったブリジットを、壊してしまいそうでそれも怖かったというのもあった。
今この場にブリジットの家族がいてくれるおかげで、このように妖艶なブリジットを見ても冷静でいることができた。

外は風が強く唸るように吹き荒れ、窓ガラスを雨が叩いている。
なるべく気にならないようにいつもは飾りのようになっているサロンのカーテンを、すべて閉じさせてある。

「本当にご夫人にご挨拶をしなくてよろしいのですかな。バーネット侯爵には顔を合わせることもありますゆえ、侯爵のご息女に挨拶もなしというのはいかがなものかと思うのですがね」

ホールデン伯爵も酒を飲んで饒舌になっていた。

「でもあなた、ここの女主人はブリジットではありませんこと?」

「まあそれもそうか。それにしてもこの果物は瑞々しくて旨いですな」

酒の入ったホールデン伯爵の興味は取り寄せた果物に移ったようだ。寒冷地で採れる果物ではない。むしろ王都に住まうホールデン伯爵のほうがよく食べているだろう。

「……失礼いたします。旦那様」

執事が屈んで囁く。
今度は何なのだ、何度も話の腰を折りに来るなと小声で言いながらサロンを出ると、厳しい表情のアーサーがいた。




「もう一度言うが、おまえたち三人の寝床を今夜こちらに用意することはできても、アレを別邸に入れるのは無理だ。今日は客が泊まっている。
その客はブリジットの家族なのだ、アレを別邸に入れられるわけがないだろう!」

「奥方様は高熱を出して意識を失っていらっしゃいます。本邸の薪と炭をすべて別邸が取り上げたので、本邸では部屋を暖めることもできない状態です。
奥方様にこちらの暖かい部屋を借りて休んでいただくだけです、意識が無いのですからお客様の前に姿を見せることはありません。
それがダメなら、いくらかの薪と炭を返してください。全部返せとは言いませんから、震えて意識のない奥方様の部屋を一晩暖められるだけでも」

「取り上げたなどと言うなアーサー、旦那様に向かって失礼が過ぎる」

別邸の執事の一人が声を荒げた。

「私は事実を言っただけです。別邸には五人もの執事がいるにも関わらず、客が来るのに薪の手配を疎かにした失態に加え、小屋の薪や炭を邸内に入れろと指示もせずに全部濡らしてしまった。その大失態を、本邸から薪も炭も取り上げてどうにか凌いだ。そちらに事情があったようにこちらも奥方様が高熱で意識が無いという事情がある。本邸の物を少し返して欲しいということの何か失礼なのでしょう、失礼なのはどちらですか!」

アーサーがそう言うと執事たちは俯いて黙った。

「そのことについては……私からアーサーに詫びよう。とにかく今夜は大切な客がいるのだ、この別邸にアレ……フォスティーヌを受け入れることはできない。薪や炭を分けるのも無理だ。明日まで客がいるのに心許なくなっては困る」

「……かしこまりました……。でも私に詫びなど必要ありません。詫びて貰っても本邸は暖かくなりませんし湯も沸かせません。こちらから取り上げた薪と炭で廊下や階段ホールまでも贅沢に暖かくした館にて、客人とどうぞ楽しくお過ごしください。失礼します」


アーサーが言い放って出て行くと重い沈黙が部屋を支配した。
アレが……フォスティーヌが高熱を出して意識を失っている、そう言われてもここ別邸に迎え入れることはできなかった。
ブリジットの両親と兄が泊まっているのだ。今日でなければ受け入れたかもしれない。
……いや、今日でなければそもそも本邸の薪と炭を、全部取り上げるなどということもしなくて済んだのか。
今夜を凌げるくらいの薪と炭を借りられたらそれでよかったのだし、アーサーが言うように廊下まで暖めなくてもよかったのだ。
ただすべてはタイミングが悪かった。今更廊下を暖めるのを止めるなどできないのだから仕方がない。

「……皆、戻ってよい」

自分もサロンに戻る。

「歓談中に席を外して失礼した。酒は足りているだろうか」

少し飲んだ蒸留酒のせいか頭が痛い。
アーサーは首まできっちり閉めた厚手の上着を着込んでいた。
自分は薄いシャツ一枚で、ブリジットのドレスは胸元が大きく開き袖もない。
我々がこのような薄着でいられるのは、本邸から薪と炭を取り上げたからか……。
一方で、名ばかりの自分の妻は高熱で意識を失っているが、部屋を暖めることもままならない。

以前アーサーが言ったようにフォスティーヌには何の罪もない、そんなことは解っている。
だがそれを認めれば、では罪は誰にあるのかということになってしまう。
私は新王となった長兄の言う通り、ブリジットを引き取ってその動向を見張れということに忠実にしているだけだ。

……本当にそうだろうか。

私はブリジットを見張っているのか?
アーサーにはフォスティーヌの一日を毎日報告させている。それこそ見張っているのではないか?
ではブリジットのことは……。

何も考えたくなかった。
カーテンを少し開けると相変わらず雨が窓を叩きつけている。
いつもならここから見える本邸が何も見えなかった。

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