その花の名前は

青波鳩子

文字の大きさ
上 下
9 / 21

【夜会にて ①】

しおりを挟む
デルフィーナの姿で行く夜会に、まるで戦場に赴くような気持ちになっている。
眠っているはずの僕には、このデルフィーナをエスコートすることはできない。
婚約者がエスコートできないとなると、デルフィーナの父か義弟のグエルティーノになるところだが、母上が選んだのは、僕の弟のエクトルだった。
おそらく今日の夜会にやってくる男性の中で、一番高位なのがエクトルだからだ。

朝から、母上にみっちりと淑女の礼を叩き込まれた。
それからダンスの女性パートも。
一曲踊ればいいということで定番の曲を、男性パートを踊る母上のエスコートでという、こんなことでもなければ絶対に起こり得ない状態で練習をした。
母上が男性パートも踊れることに驚いた。
踊りながらそれを尋ねると、いつでもどんな状況でも、いかなるダンスも踊れることが王妃教育にはあるのだとさらりと返された。
ということは、お妃教育の全課程を終えたデルフィーナも男性パートが踊れるということだ。
デルフィーナは本当に多くを学び、それを少しもひけらかすことなく過ごしていたのだ。
グエルティーノやコルラードが事あるごとにデルフィーナに『偉そうに』と言っていたが、彼らはデルフィーナの努力に気づきもしないで大口を叩く恥知らずだ。
そしてその恥知らずを率いていたのが……僕なのだ。
僕が一番の恥知らずだった。


侍女たちに綺麗に髪をまとめられ美しく化粧を施された鏡の中のデルフィーナに、僕は瞬きもせずに見入った。
こんなに美しい人だったのか……。
怜悧すぎる目はいつも人を嘲笑っているように見えたが、今なら分かる。
それはデルフィーナを見る者の、心の弱さのせいなのだ。

僕は自分の婚約者について、本当に何一つ真実を見ていなかった。
ドレスも髪飾りもイヤリングも、どれも僕が贈ったものではない。
ただの一度もデルフィーナにそうした贈り物をしてこなかった。
婚約者へ僕が使う予算はすべてジュリアに使っていたのだ。
このジュエリーはクレメンティ公爵家から持参したのだろうが、正直それほど高価そうにも思えなかった。
あのクレメンティ公爵家であれば、もっと高価なジュエリーを用意できるはずだ。
僕はデルフィーナと入れ替わって、いったい何度目かも数えられない後悔の淵にまた落ちていった。

***

「兄上の代理ですが、これほど美しいデルフィーナ嬢のエスコートができること、とても嬉しく思っています。ドレスもとても似合っている。まるで光の妖精のようです」

迎えに来たエクトルが、そう目を輝かせて僕の手を取った。
僕が一度もやってこなかった婚約者に対する普通の対応を、軽やかにこなすエクトルに憎らしさを覚える。
それは逆恨みだと分かっていても、どうして今、僕としてデルフィーナの手を取ることができないのだろうとつい考えてしまうことを止められなかった。


夜会の主催である母上の挨拶が始まった。

「陛下は今、病と静かに戦っております。どうした偶然か、王太子であるロルダンも軽い風邪ではありますが部屋で休んでおります。
このような時に夜会をそのまま開催することにさまざまなご意見もあることでしょう。
ですが、陛下は誰もがご存じのとおり華やかな場がたいそうお好きです。
今宵は陛下のお部屋の近くにも小さな楽団を差し向けており、そこでこの夜会と同じ明るい曲を静かに奏でております。
どうぞ皆さま、この日この時間を陛下と共に存分にお愉しみください」

エクトルの隣に立ち、母上の口上を聞いていた。
一つしか違わない弟を、まだ小さいと思っていたのはどうしてだろう。
エクトルは背丈も自分と変わらず、凛とした瞳には聡明さを湛えているように見えた。

「デルフィーナ嬢、私と一曲踊っていただけますか?」

「……喜んで」

そう答えるしかなかった。
弟に手を取られて煌びやかな夜会ホールの中央で踊る僕を、母上はどんな気持ちで見るのだろうか。
エクトルのダンスは母上よりずっと踊りやすかった。母上よりも背が高いから、ホールドに安定感があって身体を安心して預けられる。
いつの間にか大人になっていた弟に、焦燥感を覚えた。
僕はこんなふうに踊れていたか?
いや、デルフィーナをまともにエスコートしたことさえなかった。
この夜会も、デルフィーナには予めエスコートできないと伝えてあった。
ジュリアをエスコートするはずだったと思い出し、気持ちが悪くなる……。
曲が終わりなんとか最後の礼をして、ダンスフロアを出て行く。
少し一人で休みたかった。

すると、向かいからジュリアがやってきた。
まさかまたぶつかってくるのかと思った瞬間、エクトルが僕の前にすっと入り込み、ジュリアはエクトルに赤ワインを掛けてしまった。
白に金色の縁取りが施されたエクトルのフロックコートに、邪悪な赤が染みていく。

「あっ……も、申し訳ございません!」

「この女を捕縛しろ!」

警備の騎士たちがジュリアを後ろ手に拘束する。一緒にいたコルラードとトビアスが驚きの表情で立ち尽くしていた。
ワインを掛けられただけでいきなり捕縛とは、さすがにやり過ぎではないか?

「後ろにいる、この女に付いて回っている兄上のお友達さあ、いつもおかしいと思わなかったのかな。
この女は飲み物をデルフィーナ嬢に掛け過ぎだと思わなかった? 
僕だったらね、こう何度も誰かに手に持っている飲み物を掛けていたら、その人物をおかしいと疑うよ。
しかもこの女が飲み物や食べ物をかけてしまうのはデルフィーナ嬢限定なんだよね?
他の令嬢や令息たちには一切ぶつかることはない。
こんなおかしなことに疑いを向けないでいられるということは、共犯者なのかな?」

砕けた口調で言っていたエクトルの目がすっと細められた。

「これは明らかな攻撃だ。グラスの中の液体が本当にワインなのかも分からないのだからな。
服に掛けられたワインの成分をこれから調べる。この二人も連れていけ。ゆっくり話を聞く」

「エクトル殿下! 僕たちは何も!」

「黙れ。僕は一つ下だが、学園の食堂ホールでこの女がデルフィーナ嬢に飲み物を掛けている場面に何度も遭遇した。当然、王妃殿下に報告しており王妃殿下はすべて把握している。ジュリア・ペレイラは昨日、自分からぶつかって持っていたトレーを落としたデルフィーナ嬢に『床に這いつくばって拾いなさいよ』と言い放った。僕はすぐ後ろの席にいたのだから言い逃れができると思うな。
一緒に居た君たちが共犯者ではないと立証するというなら話を聞こう」

あの時、エクトルがすぐ後ろの席にいたことなど、まったく気づかなかった。
あの場面を思い出そうとしていると、一人の女性がこの騒動の輪に近づいてきた。

「ジュリア……。あなた……何をしているの……」

「オレリー、このような者に構わず向こうへ行こう」

「……お、ねえさま……ブリアック様っ……」

「気安く名を呼ばないでもらおうか。君や君の母上から虐げられていたオレリーは、我がフラヴィニー侯爵家に嫁ぎ、もう君たちペレイラ伯爵家とは縁を切っている。オレリーへの嫌がらせができなくなって、今度は公爵令嬢に手を出していたとは……なんて女だ」

ジュリアの姉はフラヴィニー侯爵の嫡男ブリアックに嫁いでいた。
デルフィーナのノートによれば、ジュリアはこのブリアック・フラヴィニーに懸想していたという。その男に吐き捨てるように気安く名を呼ぶなと言われたジュリアは、虚ろな目で警備の者たちに連れて行かれた。
ジュリアは実の姉にも嫌がらせをしていたというのか。

ジュリアの本性が暴かれても、何もすっきりはしなかった。
それも当然だ。僕はジュリア側の人間なのだから……。
ジュリアの本性も嘘も見抜けず、被害を受けていたデルフィーナを追い詰めていた。

エクトルは食堂ホールでのやり取りを見ていて母上に進言したと言っていた。
まったくエクトルの言う通りだった。
何度もよろけて飲み物をデルフィーナに掛けてしまうなんて、よく考えてみなくてもそんなことが偶然続くわけがないのだ。
デルフィーナを嫌うあまり、少し考えれば分かることも考えようとしなかった。
そしてその、デルフィーナを嫌っている理由さえ、はっきりとした形が見えなくなっていた。


「騒がせてしまい、申し訳ない。
向こうのテーブルに、王家の領地で採れた二種類の葡萄のサンドイッチが運ばれてきたようだ。
ケーキのようなサンドイッチで陛下の好物でもある。
皆にも是非味わってもらいたい」

エクトルが張りのある声でそう言うと、女性たちがわっと明るい顔になった。
ホールに華やぎが戻ってきた。
堂々とした弟が、僕には知らない者に見えた。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの嫉妬なんて知らない

abang
恋愛
「あなたが尻軽だとは知らなかったな」 「あ、そう。誰を信じるかは自由よ。じゃあ、終わりって事でいいのね」 「は……終わりだなんて、」 「こんな所にいらしたのね!お二人とも……皆探していましたよ…… "今日の主役が二人も抜けては"」 婚約パーティーの夜だった。 愛おしい恋人に「尻軽」だと身に覚えのない事で罵られたのは。 長年の恋人の言葉よりもあざとい秘書官の言葉を信頼する近頃の彼にどれほど傷ついただろう。 「はー、もういいわ」 皇帝という立場の恋人は、仕事仲間である優秀な秘書官を信頼していた。 彼女の言葉を信じて私に婚約パーティーの日に「尻軽」だと言った彼。 「公女様は、退屈な方ですね」そういって耳元で嘲笑った秘書官。 だから私は悪女になった。 「しつこいわね、見て分かんないの?貴方とは終わったの」 洗練された公女の所作に、恵まれた女性の魅力に、高貴な家門の名に、男女問わず皆が魅了される。 「貴女は、俺の婚約者だろう!」 「これを見ても?貴方の言ったとおり"尻軽"に振る舞ったのだけど、思いの他皆にモテているの。感謝するわ」 「ダリア!いい加減に……」 嫉妬に燃える皇帝はダリアの新しい恋を次々と邪魔して……?

【完】愛していますよ。だから幸せになってくださいね!

さこの
恋愛
「僕の事愛してる?」 「はい、愛しています」 「ごめん。僕は……婚約が決まりそうなんだ、何度も何度も説得しようと試みたけれど、本当にごめん」 「はい。その件はお聞きしました。どうかお幸せになってください」 「え……?」 「さようなら、どうかお元気で」  愛しているから身を引きます。 *全22話【執筆済み】です( .ˬ.)" ホットランキング入りありがとうございます 2021/09/12 ※頂いた感想欄にはネタバレが含まれていますので、ご覧の際にはお気をつけください! 2021/09/20  

もう尽くして耐えるのは辞めます!!

月居 結深
恋愛
 国のために決められた婚約者。私は彼のことが好きだったけど、彼が恋したのは第二皇女殿下。振り向いて欲しくて努力したけど、無駄だったみたい。  婚約者に蔑ろにされて、それを令嬢達に蔑まれて。もう耐えられない。私は我慢してきた。国のため、身を粉にしてきた。  こんなにも報われないのなら、自由になってもいいでしょう?  小説家になろうの方でも公開しています。 2024/08/27  なろうと合わせるために、ちょこちょこいじりました。大筋は変わっていません。

【完結】愛に裏切られた私と、愛を諦めなかった元夫

紫崎 藍華
恋愛
政略結婚だったにも関わらず、スティーヴンはイルマに浮気し、妻のミシェルを捨てた。 スティーヴンは政略結婚の重要性を理解できていなかった。 そのような男の愛が許されるはずないのだが、彼は愛を貫いた。 捨てられたミシェルも貴族という立場に翻弄されつつも、一つの答えを見出した。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

忘れられた妻

毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。 セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。 「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」 セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。 「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」 セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。 そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。 三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません

【完結】用済みと捨てられたはずの王妃はその愛を知らない

千紫万紅
恋愛
王位継承争いによって誕生した後ろ楯のない無力な少年王の後ろ楯となる為だけに。 公爵令嬢ユーフェミアは僅か10歳にして大国の王妃となった。 そして10年の時が過ぎ、無力な少年王は賢王と呼ばれるまでに成長した。 その為後ろ楯としての価値しかない用済みの王妃は廃妃だと性悪宰相はいう。 「城から追放された挙げ句、幽閉されて監視されて一生を惨めに終えるくらいならば、こんな国……逃げだしてやる!」 と、ユーフェミアは誰にも告げず城から逃げ出した。 だが、城から逃げ出したユーフェミアは真実を知らない。

処理中です...