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【10】恋とは(アリシア視点)
しおりを挟むお妃教育がなく王室からも特に呼ばれていなかったので、早い時間から孤児院に向かう。
お父様から救護院のほうは弟のハーヴェイに担わせることになったと言われ、また少し時間ができた。
孤児院で子供たちと触れ合うのは楽しかった。
教会に併設された孤児院で、シスターたちからいろいろな話が聞けるのも楽しい。
先日のようにお金を稼ぐための物売りよりも、洗濯や食事作りや縫い物をすることが好きだと感じるのは自分でも意外だった。
料理などそれまでしたことがなく、初めてじゃがいもの皮をむいたときは厚くむきすぎて食べる部分が小さくなってしまった。
シスターから丁寧に包丁さばきを教わり、私が厚くむいてしまった皮はシスターが千切りにしてニンジンと炒めて、大人向けの別の料理になった。
じゃがいもの皮をむくのは小さな子供たち用であり、大人は余すところなく何でも食べる。
ニンジンの葉はこれまで食べたことはもちろん見たこともなかった。ニンジンの葉に限らず、しなびた野菜や皮などはスープに入れる。それがとても美味しかった。
孤児院に手伝いに来ているのに、私が教わることばかりだ。
今ではじゃがいもの皮も向こう側が透けて見えそうなくらいに薄くむける。
今日は孤児院に着いてすぐに、子どもたちのためにパンを作った。
シスターたちと生地を作り、小さく丸くまとめニンジンの葉を練り込んでいく。発酵のために生地を寝かせている間に洗濯や繕いものをするのだ。
子供たちはスープよりもパンに入れた方が野菜をよく食べる。
本当はチーズやナッツを入れたらもっと美味しくなりそうだが、そういうものはここにはない。
私が持ってくることは難しいことではないが、それは違うのですとシスターに以前言われた。そのことを本当の意味で知ってから、ニンジンの葉の入ったパンがより美味しく感じられるようになった。
パンを焼き始めてから洗濯だ。
裏にある井戸の水を汲み上げ、大きなランドリータブに洗濯物を入れて手で洗うが、大きなシーツなどは裸足で踏んで洗う。
家のランドリーメイドは湯を沸かしてそれで洗うと聞いた。
ノックスビル家のランドリーメイドは男性もいるが、熱い湯を使わなければ汚れは落ちず、それを取り出して絞るのは熱く危険な重労働だからなのだと知った。
でも孤児院では水で洗う。
湯で洗濯をするような余裕がいろいろな意味で無いからだ。
ランドリータブに裸足で入って、踏んで洗うのを最初に見たときは驚いた。
シスターたちがスカートの裾を縛ってたくし上げ、裸足で踏む。人前で素足を見せることなど無く誰かの素足を見るのも初めてで、見てはいけないものを見ているようでドキドキした。
でもやってみるとこれが楽しい。今日は天気が良くて特に気持ちがいい。
井戸の水をシーツ二枚が入ったランドリータブに入れて、裸足でそれを踏む。ひざ上までスカートをたくし上げているので少しくらい水がはねてもかまわない。
「そ、それは何をしているんだ?」
突然のアルフレッド殿下の声に驚いて、ランドリータブの中でしゃがもうとしてしまいバランスを崩して倒れそうになったところを殿下が抱えて……助けてくださった……。
穴があったら入りたい、というより穴がなくても掘ってでも入りたい。
綺麗な顔が驚いたように私を見ている。
私も綺麗ではないけど同じように驚いています……。
殿下との距離が近すぎて、というか密着していて、どっどっと打ちつけている鼓動が私のものか殿下のものか分からない。
今言うことでもないけれど、死ぬときはこういう最期を迎えたい。
もうそれが今でもいいわ……。
美しい殿下の腕の中で……腕の中で?
「あの……」
「あ、ああ……ああああ」
殿下はとりあえず私を下ろしてくれた。
「……大丈夫だったか」
「はい、全方向にまったくだいたい大丈夫この上なく、大変申し訳ありませんでしたっ!」
私はとりあえず裸足のまま走って逃げた。
嫁入り前だというのに素足を男性二人に見せてしまうという大失態に、もうあれこれ考える脳みその空き容量は残っていない。
なんとか気持ちを落ち着けて足を洗って拭き、何事もなかったように戻った。
ご用件をお尋ねしようと思っていたのに、どういうわけかアルフレッド殿下と護衛騎士のかたに洗濯物を絞って干すところまで手伝ってもらうことになってしまった。
お二人が手伝いを望まれたのだ。
一国の第一王子殿下に洗濯をさせてしまっている私の首はいつまでこの身体にあるだろうと思いながら、案外楽しそうな殿下を見て意外に思った。
「ジャン、これは二人がかりで絞るのがいいのではないか?」
殿下がジャンと呼ぶ護衛騎士と、大きなシーツを二人で立ってねじって絞る。
さすがの男性たちの力に次々とシーツが絞られていく。
それを張ったロープに掛けて干すのも背の高い二人がどんどんやってくださり、私は手渡すだけだった。
さらに少し緩んでいたロープをしっかりと固定し直してくださった。
晴れわたる空の下、洗濯物が風にはためいているのはとても清々しい光景だ。
アルフレッド殿下の金色の美しい髪も風にさらさらと揺れている。
よく分からないが、泣きそうなくらいにこの景色を忘れないと思った。
「本当に本当に本当に申し訳ございません。これ以上の言葉が浮かばない私をお許しください」
洗濯を終えて孤児院のテーブルで殿下と向かい合っているけれど、恥ずかしさといたたまれなさで顔を上げることもできない。
アルフレッド殿下に洗濯を手伝わせたなんてお父様が知ったら、ショックで今日がお父様の命日になってしまう。
スカートをたくし上げていたことを思い出すと気絶しそうなので、脳みその再生機能を心の拳で叩き壊した。
「突然やってきたこちらが悪いんだ、アリシアのせいではない。それにしても洗濯とは手間がかかるものだな。いつも洗い上げられた物に袖を通すだけだが、ランドリーメイドの給金を上げねばならないな」
「洗濯だけではないと思っております……。食事を作るのも掃除をするのも繕い物をするのもどれも大変な労働です。私の目の前に温かな食事や清潔な服がやってくるまでに、たくさんの人の手と努力と苦労で送り出されているのだと、私もやっと知ることができました。
知ることが大切だと教えていただき、シスターの皆さまにとても感謝しています」
「アリシア……」
そこにシスターがやってきた。
「みなさんお茶が入りました。お待たせしてしまいましたね。ちょうどアリシア様のパンが焼き上がりましたので」
シスターが持ってきてくださったトレーには、私がさっき捏ねて焼いたパンが載っていた。
子供たちに配ろうと立ち上がると、シスターに、
「こちらでやりますから、どうぞ召し上がって」
そう言われてしまい、座り直す。
「このパンは?」
「はい、ニンジンの葉を練り込んでいます。子供たちにあまり人気のないニンジンの葉ですが、パンに入れるとよく食べるのです。殿下のお口に合いますか分かりませんがご迷惑でなければどうぞ……」
私は殿下より先に護衛騎士のかたにパンを渡した。いきなり殿下に食べさせるわけにはいかないだろう。護衛騎士がひと口噛んで飲み込むまでをついじっと見てしまった。
いつも近くにいる殿下が眩しすぎてよく見えていなかったが、この護衛騎士もしっとりした黒髪に憂いを湛えたようなこげ茶色の瞳が綺麗だ。
王室は人材に富んでいて護衛騎士も顔で選べるのかもしれない。そんな失礼なことをつい思ってしまうくらいの綺麗な人が、その手に隠れるほどのパンを小さく齧っている。
「殿下、とても旨いです」
「そうか、では私もいただこう」
アルフレッド殿下がパンを二つに割ると中から湯気が立ち上る。
その湯気に目を見開いた殿下は片方を口に運んだ。
「こんなに熱いパンを食べたことはないな! 外側は香ばしいのに中は柔らかくとても旨い」
小さなパンはあっという間に消えてしまった。
「ニンジンの葉が入っていると聞いたが、ほのかに甘かったそれがニンジンの葉の味なのだろうか。もう一つ、と言いたいところだが私が子供たちのパンを食べてしまうわけにはいかないな」
「よかったら、私の分をどうぞ。今は胸がいっぱいですので」
「そうか! なんだか催促したみたいだが今回は遠慮なくいただくことにする。それには及ばぬと言えぬくらいに旨いんだ、許してくれ」
アルフレッド殿下は私が差し出した皿からパンを手に取り、また二つに割って湯気や匂いや温かさに満足そうなほほえみを浮かべて、今度は噛みしめるように食べた。
私は今の殿下のお顔で胸もおなかも何もかも満たされたので大丈夫です。
それにしても、殿下のこのお喜びには少し驚いた。
王宮で焼いたパンは、きっと殿下の皿に載るまでには冷めてしまっている。
焼きたてのパンというものは、もしかしたら王族の口には入らないある意味貴重なものなのかもしれないわ。
もしも許されるなら、いつか殿下に焼きたてのパンを作って差し上げたいとうっかり思ってしまうくらいに無邪気に喜んでいる殿下の笑顔だった。
自分が『とりあえず』の婚約者であることを忘れてしまうほどの……。
子供たちにパンが配られて、賑やかな声が聞こえてくる。
殿下の護衛騎士が子供たちのほうへと歩いていき、シスターが運ぼうとしていた皿などを代わりに持っている。
護衛騎士は、さりげなく席を外してくれたようにみえた。
「アルフレッド殿下、今日はどうしてこちらにいらっしゃったのでしょうか」
洗濯をしに来たわけでもパンを食べに来たわけでもないのだから、何か私に用があったのだと思うのに、殿下は何も言わない。
「あ、ああ。君に話があったんだ」
「はい、わざわざこのようなところまで足を運んでいただき恐れ入ります」
殿下はテーブルに落としたパンの小さなかけらや粉を指先に押し付けて、それを皿の上にパラッと落とす。
何度も同じことを繰り返し、すっかり殿下の周りのテーブルがきれいになった。
話があったんだと言ったまま、その話を殿下はなかなか切り出さない。
もしかして、王宮では話せないことかしら……。
王宮では完全に人払いをすることは難しいもの。
ということは、あまりよくない話……?
だからこんなに言いにくそうにしているの?
「……あの、お話というのは……」
「うん……あー……、そうだ、近々シャーリドに事前視察に出かけることになった。陛下はアリシアもそれに同行させるようにと」
「シャーリドに事前視察ですか。何日くらいの行程になるのでしょうか」
「詳しくは明日の王宮での会議の場で聞けると思う」
「承知いたしました」
先日の学園でマイラ・ハワード公爵令嬢に聞いてその視察のことは知っていたけれど、マイラ嬢を私の代わりに同行させるのではなく私も連れて行くのね。
でも、それを伝えるために、わざわざ私が今日孤児院に来ていることを調べてここまで来たというのかしら……。
明日は王宮に呼ばれて詳しくはそこで聞けるというなら、今日はどうして?
アルフレッド殿下は、まだ何か言おうとしているように見える。
本題はこれからなのかしら。
殿下が黙りこくり、でも帰ろうとするでもなくそわそわと座ったままでいるから、私もただじっとそんな殿下の前にいる。
時々そのお顔を見ると、美しい目が行ったり来たりしていたり両手の指を組んでそれをこすり合わせてみたりとなかなかに挙動不審だ。
キラキラした挙動不審な人という謎の生物を前に、どうしたらいいのか分からない。
「あの……アルフレッド殿下?」
「……ああ、すまない、そろそろ戻ることにする。邪魔をしたな」
「あっ……いえ、こちらこそ洗濯などお手伝いさせてしまったりして、大変申し訳ございませんでした」
「それはいいんだ。あれはいろいろとよかった」
子供たちを両腕にぶら下げたりして相手をしてくれていた護衛騎士が、こちらに戻って来た。
「ではこれで失礼する。邪魔をしたな」
殿下がシスターに声を掛けて外に出ていくと、護衛騎士も続く。
見送りのためにその後ろを歩く私の耳に「へたれ」という護衛騎士のつぶやきが聞こえた気がした。
***
「お嬢様、お菓子をお持ちいたしました」
「ありがとうメリッサ、パンケーキは全部切っておいてほしいの。蜂蜜も全部かけておいてくれると嬉しいわ」
「かしこまりました」
アルフレッド殿下から私もシャーリドへの事前視察に同行すると聞いて、このところののんびりしていた気分はどこかへ行った。
お妃教育でシャーリドの言葉やその歴史、今の王の系譜などを学んできたが現地入りするために必要なことがまだまだある。お父様に頼んで取り寄せてもらったシャーリド王都の地図も届いた。
それだけではなく、お父様の判断での資料もたくさんあった。
おそらくこの件の総責任者であるハワード公から、視察に必要なものを私には渡されないと思っているのだろう。
ハワード公の中では、アルフレッド殿下のことですら連れていれば何かと便利くらいのものなのだ。その殿下が同行する私など、旅行気分でついてくる面倒な存在と思われているだろう。
メリッサが切り分けてくれたパンケーキを一つ口に入れる。パンケーキは冷めていて蜂蜜の甘さだけが喉を通過する。
まだ熱い焼きたてのパンに目を見開いていたアルフレッド殿下の綺麗な顔が浮かんだ。
自分より一つ年上の王族に対して、可愛かったなどと思ってしまう。
割ったパンから立ち上った湯気に新鮮な驚きを見せた殿下の表情が無防備で、シスターたちが素足で洗濯するのを初めて見た時と似たドキドキ感があった。
これまで、アルフレッド殿下のあのような顔を見たことがなかった。
もちろん王族ゆえに感情を表に出さないように訓練なさっているからなのだろうが、そこに整い過ぎている美しさが加わっていつも彫刻のようなのだ。
たかがニンジンの葉が練り込まれた小さなパンを喜ぶ殿下の顔、あれが本来のアルフレッド殿下だとしたら……。
洗濯をしていた時によろけて抱きとめられたことを思い出す。
スリムな印象が強い殿下なのに、私を抱きとめた腕はたくましく力強かった。
すっぽりと殿下の腕の中に収まって眩しさと恥ずかしさで顔を上げられなかった。
あの時の胸を打つ大きな音を思い出すと、ワーッと大声を上げて走り出したくなる。
殿下に抱きしめられたのね……私……。
「珍しいですね、お嬢様がパンケーキを一つ口に入れただけで手が止まるなんて。それに、心ここに在らずという感じですよ」
「え? あ、ああそうだったかしら。本の文字が小さくて頑張って読もうとしていただけよ」
「それは本ではなくてどこかの地図ですよね」
「あ、そうなのよ、地図を読み解くのは難しいの」
「……お嬢様、お茶を淹れ直しますね」
さっきから何も頭に入ってこない。
いつも自室で勉強をするときは甘いものを食べながら、その噛むリズムで物事が頭に収まっていく。
甘さが頭まで滑らかに覚えることを運んでくれるのに、今日は甘い物も覚えるべきものも何もかもが止まってしまう。
胸に何かがつかえているように息苦しい。
かと思えば急に顔が熱くなり、もしかしてこれは具合が悪いのかしら……。
「お嬢様、熱いお茶をどうぞ」
「ありがとう」
メリッサが淹れ直してくれたお茶を口元に運ぶと、ほのかに花の香りがした。
「ポットにジャスミンを入れてくれたのね、美味しいわ」
「お悩みのことが少しでも晴れますようにと思いますわ」
「お悩み……? 私が?」
「ええ、パンケーキを一切れしか召し上がらずにずっと物思いにふけっていらっしゃいましたので、お悩みかと……」
「悩んではいないと思うの。さっきは殿下の言葉を思い出していただけよ」
「まあ……! お嬢様、殿下に恋をしていらっしゃるのですね」
「違うわ、殿下は婚約者ではあるけれど、それは政治的なものなのよ。恋とかそういうのとは違うの」
「ではそういうことにしておきましょう。今のお嬢様の可愛らしいところは好きですよ」
メリッサは「恋、恋~」とずいぶん適当な鼻唄を口ずさみながら下がっていった。
私が殿下に恋をしている?
ありえないくらいに美しい人だとは思っているけれど、なんていうかそれは絵画などの美術品を鑑賞するのと似ているのではなくて?
殿下と私は大人の策略で決められた家と家とを結ぶ婚約者同士に過ぎない。
しかも殿下から一度はそれを破棄すると言われた。私のことを『足枷』と言っていたことも知っている。
そんな人に恋心など抱いたら、それは不幸の泉に身投げするようなものよ。
考え事ばかりでちっとも勉強が頭に入ってこないし、具合も良くないようだから今日のところはもう休もう。
そして頭のノートに『恋とは』と書き込んだ。
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