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【8】殿下の足枷だった(アリシア視点)

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アリシアはここ二日ほどのんびりと過ごしていた。
天気が良かったので久しぶりに庭を歩く。
お妃教育の中にも花やハーブを育てるカリキュラムがあり、それは王室の伝統のようだ。
王妃が育てた亜麻で布を織り、王妃が育てた花でそれを染める。
そうして作られた『王妃のリネン』が王の身の回り品の布となる。
王妃の畑は代々受け継がれ、種を蒔く日なども行事となっている。
もちろん普段の手入れは王宮の庭師がやるとしても、王妃という職業は多忙過ぎる。
のんびり優雅にお茶会で微笑んでいるイメージを、私もお妃教育が始まるまではぼんやり持っていたけど全然違った。

優雅に見えるのはそう見せているから。
白鳥が静かに水面を滑るように浮かんでいるのは、水面下でずっと足を動かしているからだ。
お茶とお菓子とおしゃべりを楽しんでいるように見せながら、その瞬間も誰と誰が話しているのか、その話題は何か、互いが持つ爵位はなんであったか。そんなことを脳内で行き来させながら、王妃は優雅に微笑んでいる。

そして私の場合はこの『多忙な王妃』になるための教育が全部無駄になる可能性が高い。
学ぶことや新たなことを知ることは好きだから、すべてが無駄とは思っていないけど、こうしてゆったりした時間を過ごすとこのままでいられたらいいのにと思ってしまう。

お妃教育で習った『王妃のサフラン』などを、種が手に入るものは実際に植えてみた。
ノックスビル家の庭師のジェイコブは、私が小さい頃からすでにおじいちゃんだった。
今も変わらずおじいちゃんなのに、いつも庭で腰を屈めて手入れをしている。
そのジェイコブにお願いして庭の一角を貸してもらい、種を植えたのだ。
時間があれば庭に出て花の手入れをしながらジェイコブと話をする。
お妃教育の内容よりも詳しい薬草の話も聞けたりして、大切な時間になった。

屋敷に戻ると、執事のオリバーが出かけるところらしかった。

「どちらに行かれるの?」

何気なく尋ねると、弟ハーヴェイの忘れ物を学園に届けるのだという。

「それ、私が行ってもいいかしら。今ちょうど時間を持て余していたところなの」

「お嬢様にお願いしてしまってもよろしいのですか? ああでも、そうしていただけると助かります」

「学園を辞めてから行ってなかったから、久しぶりにちょっと覗いてみたいわ」

「それではどうぞよろしくお願いいたします」

大急ぎで部屋に戻りドレスを着替えて、執事が用意していた馬車に侍女のメリッサと乗り込んだ。


学園に行くのは退学してから初めてだった。友人のエレナとパトリシアにもそれから会っていない。
二人に会うことはできるかしら。
ただ、昼の休みにハーヴェイに忘れ物を届けた後だから、たとえ会うことができたとしてもゆっくりできるわけではないのは分かっている。
それでも久しぶりの学園に胸が弾んだ。

事務方に挨拶に行き、ハーヴェイのいる一年生の教室に直接向かった。

「あ、姉上!」

「オリバーの代わりに届け物よ。玄関先に忘れて行くなんてうっかりしているわね」

「あ、うん。ありがとう……」

ハーヴェイは後ろを何度か振り返り、あまり私と話したくないようだったので、すぐに離れた。
私も友人たちに早く会いたい気持ちもあった。
いつも昼の休みにエレナとパトリシアと過ごしていた中庭のあずまやに行ってみよう。
今も二人が変わらずそこにいることを願って廊下を歩いていく。

「アリシア様? ずいぶん意外なところで会いますね」

「リカルド殿下! 弟の忘れ物を届けたところです……」

いつも会いたくない場面でお目にかかるわ。

「忘れ物……ずいぶんと過保護な姉上で」

「……失礼いたします」

リカルド殿下の冷たい視線を浴びながら、早歩きで建物を出て中庭のあずまやまで急いだ。
遠くのあずまやに二人の姿を見つけると嬉しさで足が自然に走りだす。

「エレナ! パトリシア!」

「ア、アリシア!? いったいどうしたの!」

二人の父親の爵位はアリシアの家よりも低いが、みんな親しみをこめて名前で呼び合っていた。
あの頃のままに呼ばれて嬉しい。

「弟の忘れ物を届けにきたのよ、今もここに居てくれてよかったわ」

「アリシアに会えるなんて、嬉しすぎて泣きそうよ!」

「元気だった? どうしているのかと思っていたわ」

私も二人になかなか会いにいくことができなかったし、二人も同じように思っていてくれたのだろう。
学園を離れてしまうと、手紙を書いて届けてもらってそれにまた返事を書いて……約束を取り付けて互いの親の許可をもらって……と、ちょっと会おうとするだけで大変だから、次に休みができたら手紙を書こうと先送りにしているうちに、こんなに過ぎてしまった。
たくさん話したいことはあるけれど、学園の休み時間ではとうてい無理だわ。
改めて、今度三人でどこかで会いましょうという話になって、アリシアが待たせている馬車に戻ろうとしたときだった。

「あら、制服を着ていない部外者がいるわ。警備はどうなっているのかしら」

「……申し訳ございません。すぐに失礼いたします」

胸のリボンで三年生だと判る上級生に立ち上がって目で挨拶をしたが、上級生はぐっと近づいてきた。

「そちらの二人は二年生ね? 上級生のわたくしがいるのに座ったままでどうしたのかしら。
この侵入者と知り合いなの? あなたたちが手引きして侵入者を引き込んだとしたらとんでもないわ、警備を呼んだほうがいいわね。先生にも報告しなくては。あなたたち、名を名乗りなさい」

三年生の言葉にエレナとパトリシアが慌てて立ち上がる。

「マチルダ、それくらいにしておけよ」

そう言った男子生徒もネクタイの色から三年生だ。
ということはこのマチルダと呼ばれた三年生もみなアルフレッド殿下の同級生なのね。
面と向かって『部外者』『侵入者』と言われてハッとした。
学園をやめてしまった自分は、たしかに部外者だ。
二人が私を『手引きして』と言われてしまったことが突き刺さる。

「あら? そこの部外者のあなた、どこかで見たことがあるわね。ああ、アルが足枷と言っていた婚約者じゃないの」

薄笑いを浮かべながらマチルダという三年生はそう言った。
アル? もしかしてアルフレッド殿下のことをそう呼んでいるの?
殿下が私のことを『足枷』だと、殿下を『アル』と呼ぶこの人に話したというのね……。
背中に水を流し込まれたような感じがしたけれど、何も顔に浮かべないようにする。

「二人とも、急に私がやってきて迷惑をかけてごめんなさい。じゃあまた今度ね」

三年生の挑発的な言葉を無視して二人にそう言うと、二人はじゃあまたと言って走って行った。

「ちょっと上級生を無視するなんてずいぶんじゃない? 部外者の分際で、頭も下げずに」

威嚇するように近づいてきたので、思わず下がる。
すると、その間に滑り込むようにひとりの女生徒が入ってきた。

「マチルダ・パーカー男爵令嬢さん、この方はわたくしがお呼びしたの。何か問題でもあるかしら。上級生下級生の前に、この方はわたくしと同じ公爵令嬢よ? 男爵令嬢のあなたを無視して何がいけないのかしら? 
頭を下げる必要があるとしたらあなたのほうよ、マチルダ・パーカー男爵令嬢?」

「なっ、マイラ・ハワード公爵令嬢……。あなたが話し掛けてくるなんて……」

「わたくしが話し掛けなければ男爵令嬢のあなたから話し掛けられることはないからそうしていたの。
さあ、アリシア様向こうへ参りましょう。騒がしくていられないわ」

マイラ・ハワード公爵令嬢ってハワード公爵の養女の……!
まさかこんなところで私に助け船を出してくださるなんて、驚いたわ。しかも私のことを知っていらした?
マイラ嬢は、ずんずん歩いていく。
私はマチルダ嬢の周囲にいる人たちの視線がいたたまれなくて、身を縮めるようにマイラ嬢の歩みについていった。

「あれ? アリシア?」

タイミングの悪いことにアルフレッド殿下ともすれ違ってしまったみたいだけれど、私は気づかなかったふりをして顔も上げずにそのまま歩いた。
殿下も追いかけてはこなかった。


***


「……ああ、ドキドキしたわ……。ごめんなさいね、いきなり口を挟んでしまって」

「いえ、私のほうこそ助けていただいてありがとうございます。あの……」

「ちょっと待ってくださいね……言葉がうまく、出てこなくて……」

マイラ嬢は二つ角を曲がって、門に近い目立たないベンチに腰を下ろすと胸を押さえてゼイゼイと息をする。

「わたくし、マイラ・ハワードと申します。あんなふうに、いかにも私が公爵令嬢よ! なんて言ったことがなくて、もうそれだけで心臓が足元に落ちそうで……」

心臓が足元に落ちる……。
その例えに思わず笑いが漏れてしまう。

「あ、失礼しました。心臓が口から飛び出るっていうのはよく言われますけど、足元に落ちるってあまり聞いたことがなくて、つい……」

「わたくしの心臓は口から飛び出るほど活きがよくないの。どちらかというと、ずるずると足元に落ちてくるイメージで……」

口から飛び出るほど活きがよくない心臓……。
ダメだ、今度こそ声に出して笑ってしまった。マイラ嬢も私につられたのか一緒に笑った。



「申し遅れました、アリシア・ノックスビルと申します。以前はこの学園に通っておりましたが今は退学しているので、たしかに部外者なのです。私のことを知っていらっしゃるのですね」

「ええ、アリシア様がとても優秀な方だったというお話は耳に届いていました。アルフレッド殿下の婚約者であるということも」

なんと応えればいいのか分からないでいると、

「わたくしがアリシア様をお呼びしたと言ってしまいましたが、たぶん近いうちに改めてお会いすることになると思うのです。ですから、すべて嘘にはならないかもしれません」

「近いうちにお会いする……とおっしゃいますと?」

「ええ、父がわたくしをシャーリド王国の視察旅行に同行すると申しております」


***


「アリシアお嬢様、お戻りになるのが遅かったので心配いたしましたっ」

「メリッサ、ごめんなさい。学園が久しぶり過ぎてちょっと迷子になってしまったわ」

馬車の中でメリッサの小言が続いている。
私はそれを聞き流して、いろいろと考えごとをしていた。

マイラ・ハワード公爵令嬢。
あのハワード公爵の養女で……アルフレッド殿下の婚約者の椅子から私を蹴落として、その代わりに座るようにとハワード公爵から命じられているという。
そして私のことを知っていらした。殿下の婚約者であるということも。
それなのに私を助けてくれ、その目に私へのマイナスな感情は特に見られなかった。
ハワード公爵の命に従うなら、私を婚約者の位置から追い出したいはずなのに。

シャーリド王国への視察旅行に同行すると言った。
私はその視察旅行の話を誰からも何も聞いていない。
そもそも私はその視察旅行とやらに行くことになるのかも分からない。
もしかしてアルフレッド殿下に近づけるために、ハワード公爵は自分の養女を私の代わりに連れていくことにしたのだろうか。
それを殿下は知っているのかどうか。

マチルダ・パーカー男爵令嬢。
アルフレッド殿下のことを『アル』と呼び、その殿下が私のことを『足枷』と言っていたと言った。
この前、殿下は私室で私に『フレディ』と呼べと言った。
誰にも許していない呼び方だとも。
殿下は私のことを『足枷』と言ったというのが本当なら、最初に婚約破棄を告げてきたことと辻褄は合う?

ああもう考えることが急に増えて、甘い物を食べなくてはうまく頭が回らないわ。
王宮で殿下の執事の方から戴いたお菓子はまだ残っていたかしら……。
いいえ、全部食べてしまったわ。

「ねえメリッサ、お菓子のお店に寄っても……」

「お嬢様、お菓子なら屋敷にたくさんありますからまっすぐ帰ります!」

メリッサの小言が復活するようなことを言ってしまった……。
お菓子のお店に寄るのはあきらめ、窓からの景色を見る。

そして頭のノートに『愛称・足枷』と書き込んだ。
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