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6)笑った罰のビスケット

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フィンリーがエレノアとして学園に向かった今日、自分は特にすることがなかった。
杖を使って庭を歩いてみたいけれど、フィンリーの姿で邸内をひとりで歩くのはよくないかもしれない。
しばらくして父が医師を連れてやってきた。


「フィンリー殿、その後調子はどうだろう」

「はい、傷の痛みはありますがそれ以外は特に問題ありません。ローレンス家でお世話になりありがたく思っています」


医師が腕の布を外して薬剤を塗り、新しい布を手早く巻き直す。
足のほうも同じように手当され、新しくきれいな布が巻かれて気持ちがいい。


「この傷の周辺の青あざが少し黄色くなってきているのは順調に治っているということです。このまま大事になさればすぐに良くなるでしょう」

「ありがとうございます」

「傷が早く良くなることを祈っている。……それ以外には、本当に問題はないか? 無いならいいのだが。
何か困ったことや足りないものなどがあれば、すぐに伝えてくれ」

「はい。……問題はありません。公爵のお気遣いに感謝いたします」


二人はあまり長く居ることもなく出ていった。
エレノアは父と自分として話せないことがだんだんつらくなっていた。
騙しているような気持ちが喉の奥を塞いでいるようで息苦しい。
フィンリーの、というか男性になりきって話すのはこれで大丈夫なのかとエレノアの不安は続いている。
まだ身体のあちこちが痛むけれど、痛みに対しては少しずつ慣れてきた。

エレノアは怪我をしていないほうのフィンリーの腕を見つめる。
痩身なのに意外に筋肉質で、今回のせいではなさそうな古い傷がいくつかあった。
勝手に触れてはいけないと思いつつ、そっとその古傷を撫でる。


「この腕で自分を抱きしめたら……まるでフィンリーさまにそうされているみたいになるのでしょうね……それは許されないことだけど……」


突然フィンリーと中身が入れ替わるなんていう不思議なことが起こって、エレノアは嵐の中に放り込まれたようになった。
でも、それよりもフィンリーとたくさん話せるようになったことが楽しくて、フィンリーが自分を気にかけてくれることが嬉しくて、エレノアはすぐには元に戻らなくてもいいようにさえ感じ始めている。

話せるのも気にかけてもらえるのも、すべてはフィンリーが早く元に戻りたいからなのだと分かっているし、入れ替わりが戻れば関係性もきっと戻ってしまう。
またフィンリーの視界にも入らない日々に。
フィンリーの気づかいのぬくもりを知ってしまった今、もう元の乾いた冷たい空気の中で過ごしていく自信がない。



「エレノア、起きているか?」

「……はい、お帰りなさい」


思わずそんなふうに言ってしまった。
フィンリーが少し目を見開いてエレノアを見た気がして恥ずかしくなる。


「久しぶりの学園だったが、今日は短い時間で帰ってきた」

「お身体はどこも痛くはないですか、たくさん歩いてお疲れになったのでは」

「ああそうだな、いろいろ……疲れた。お茶を飲もうと思うのだが付き合ってもらえるだろうか」

「はい」

「手を貸そうか?」

「大丈夫です。だんだんベッドから降りるコツが分かってきました」

「それはよかったな。自分でできることは自分でしたほうが回復も早い気がする。では向こうで待っているから」


フィンリーの『待っている』という言葉にエレノアは顔が熱くなるのを感じながら、ベッドをゆっくり下りた。
ナタリアがワゴンを押して、ティーセットを運んでくる。
いつもは何かお茶菓子が一緒にあるのに、小さな皿が二枚あるだけだった。
ついナタリアにお菓子はどうしたのかと声を掛けそうになるが、フィンリーの姿であることを思い出し黙って座り直す。


「あとはわたくしが淹れます」

「かしこまりました、ではごゆっくりお過ごしくださいませ」


ナタリアが下がるとすぐにフィンリーがお茶を淹れに立った。


「エレノア、もうカップに注いでもいいのだろうか。わたくしが淹れますなんて言ったが、実は自分できちんと淹れたことがないんだ」

「そろそろよい頃合いと思いますわ」


お茶を淹れたことがないとおろおろするフィンリーに思わず小さく笑う。
フィンリーはエレノアの笑いに気づくことなく、こわごわとカップにお茶を注いでいる。


「あ、ちょっと入れすぎたな。これではこぼれてしまう」

「ソーサーに少しくらいこぼしても、よろしいかと」

「こんなに勢いよく出てくるとは思わなかったよ。ほら、でもこちらは上手く入った」


フィンリーは八分目まで入れたほうのカップをエレノアに差し出す。


「これ、エレノアに食べてもらいたくて用意したんだ」

「……今開けてもよいのですか?」

「ああ、開けてほしい。一緒に食べよう」


緑色の光沢のあるリボンをほどき、包み紙の中のふたをそっと開ける。
小さな可愛らしいビスケットが何種類もきれいに並んでいて花畑のようだ。


「まあ! こんな素敵で美味しそうなものを、ありがとうございます」

「エレノアはどれが好みだろうか」

「この真ん中にジャムが挟んであるもの、こういうビスケットがとても好きです」


フィンリーは急に下を向いて、そのジャムを挟んだビスケットとプレーンなものなど、いくつかを小皿に出してエレノアの前に置いた。
そして入れすぎたお茶をゆっくりゆっくり口元に持っていったのに最後に少しソーサーにこぼしてフィンリーが笑い、笑って揺れたせいでさらにこぼれたのを見てエレノアもつい笑った。


「笑った罰だ」


そう言いながらエレノアの小皿にさらにビスケットを五つも載せる。


「おいしいビスケットでは罰にはなりませんね」

「そうだな、好きなものでは罰にはならないか」

「はい、大好きですから」


エレノアには、この穏やかなティータイムが夢のようだった。
フィンリーさまと笑いながらお茶を飲み、お菓子をいただく。
そのお菓子はフィンリーさまがエレノアにと用意してくれたもの。
ずっとエレノアが夢見ていた光景が、互いの姿が入れ替わっているということを除けば、ここにあった。

──本当は階段から落ちたというときにわたくしは死んでしまったのではないの?

──ここは空にかかる虹の向こうにある世界なのかもしれない。

そんなふうに思うほど、夢みたいな時間を過ごしている。
そして本当に、しゃぼん玉が空に消えるように夢の時間が終わってしまった。


「エレノアさま、旦那さまがお呼びでございます」


ナタリアではなく、執事のダスティンが静かに入ってきてそう告げた。
エレノアとフィンリーは思わず顔を見合わせる。


「わかりました、伺います」


そうダスティンに応えたのはもちろんエレノアの姿のフィンリーで、その声は少し硬い。
ダスティンの後に続いていくフィンリーに、エレノアは不安な気持ちになりながら見送ることしかできなかった。

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