啓蟄のアヴァ

藤井咲

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第二章

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 久しぶりにJも揃って晩御飯を食べることになった。

「最近ジャック帰ってきてる?」 Jが聞いてくる。

「全然。この前研究室に行ったらあの子あの狭い研究室にベッドまで持ち込んでたわ。研究が楽しくて仕方ないんでしょうね」

母が赤いワインを自分のグラスに注ぎながら事も無げに言った。

「研究室行ったの?」

「行ったわよ、あなたまた寝てたから誘わなかったけど。
ジャックも心配してたわ。もう大人なのだからしっかりしなきゃ駄目よ。
もう二十歳だっていうのにあなた全然自分のこと考えないんだから。
そんなんだから成人祝いもやってあげられないのよ」

「―なに、お祝いしてなんて私一度でも言った?
私が子供だろうが大人だろうがママは全然興味ないでしょ。
今までいなかったのにいきなり家に居ついて何がしたいの?
これまでみたいにずっと仕事で外に行ってればいいじゃん!私に指図しないでよ!」『アヴァ!!』Jが唸るように怒鳴った。

興奮して歯が痒い。心臓がどくどくいっている。
母は食事の手を止め腕を組んだ。

「アヴァ、お母さんに言う言葉じゃない。謝りな。」

ジャックは厳しい顔で私を見ていた。
震える口を抑えようとしてまた興奮した息が出て、何か言おうとしても何も言葉にならなかった。

「謝れ、アヴァ」Jがもう一度私に言う。

私は何故か目が潤んできて一人で興奮している自分が嫌で、顔を見られることも嫌でそのまま席を立つ。夕食はまだ残っていたが、Jと母は何も言わなかった。

自分の部屋の扉を勢いよく開けて滑り込ませるように身体を入れ鍵をかける。
背中にぐっしょりと汗をかいていた。
あんなこと言うつもりはなかった。いや、分からない。
思っていたからあんな言葉が出てきたんだろう。でも、言うつもりはなかった。
母が忙しかったのは知っているし、それはしょうがないことだ。
母には母のやるべきこと、やりたいことがある。だけど言ってしまった。
母は昔みたいに口を閉ざして私を見ていただけだった。


 ひとしきり涙を垂れ流した後、私はどうしてもジャックに会いたくなった。
静かに家を出て昼と様相の違う街を見た時に夜外に出るのは初めてだという事に気づく。
初めて見る夜のエナ州は人がたくさんいて騒がしい。
薄暗いカフェの中にネオン管が光るゴーグルをつけ空中を覗き込んでいる人達がいる。
瓶を道に投げ置いたまま胡坐をかき談笑しているグループが、「楽しくてしょうがない」と言わんばかりに笑っていた。
暗闇に甘さと少しの墨の香りが漂っている。

 私は急ぎ足でエレベーター塔に向かった。
海上都市に何棟もあるエレベーター塔は円状の動く光がきらきらと街全体を照らしていて私を誘っているようだ。



――――――



「ジャック、いる?私、アヴァ。」

エレベーター塔は目的階の管理者が許可しない限り開いてくれない。
しばらくして声が聞こえた。

「…アヴァ?」

随分久しぶりに聞くジャックの声に私は何故か涙がこみあげてきて目に力を入れる。

「うん、開けて。」

ジャックは何も言わずに扉を開けてくれた。
電子音が鳴り扉が開くと、前回見た白い扉が暗闇にぼうっと現れる。私は迷わず扉を押したが予想を裏切って扉は開かなかった。橋の下から穏やかな波音だけが聞こえてくる。

「ジャック…?ドア閉まってるよ。」

「アヴァごめん、実験途中で開けれないんだ、―せっかく来てくれたのにほんとにごめんね。」

ジャックの声がドアの中から掠れ気味に聞こえる。

「あ、ごめん、…そっか。
その、ジャックの顔見れたらと思ったんだけど、ちょっとだけでも出れないかな?
散歩とか」「うん、ごめん。今かなり汚くて、会える顔じゃないんだ。…何かあったの?」

「―ちょっと、ママと喧嘩しちゃって。
喧嘩というか、言うつもりなかった言葉を言っちゃって…それで、ジャックに会いたくなったの。
ごめん、忙しいのに突然来て。」
そう言うとジャックが扉ごしに笑う声が聞こえ突然声が明るくなった。

「アヴァが喧嘩したの?!あの人と!
それは、凄いね。凄く面白いことをしたね、アヴァ。」

私はジャックの反応にぽかんとしてしまった。

「…面白いって、そんな笑い事じゃなくて、」「いや、凄く良いことだし、面白いことだよ。何て言ったの?お母さんショックを受けてたでしょう」

ジャックははしゃぐように言った。

「そんなの受けないよ、何も言わなかったし。」

「えー、絶対落ち込んでると思うけどなあ。
アヴァよくやったね、言いたいこと言えた?すっきりした?」

「分かんない。ただ、凄く自分が嫌な奴だって思った。言わなくていい言葉しか出なかった。」

ジャックは私が母に何を言ったか見当がついた様子で話し始めた。

「うーん、なるほどね。
でも、あの人は自分で子供を生むことを選んだのだから子供に対して責任があるし、アヴァが思っている事を『言わなくていい言葉』ってアヴァが先回りして決めたらずっとアヴァの中にそれが残ったままだし、我慢しなくてもいいんじゃないかな。
あの人は好きで忙しくしてたよ、仕事好きなんだよあの人。
だからアヴァがそこまで考慮しなくても今思ってること言っていい気がするけどね。」

私はジャックが母を「あの人」と呼ぶのを初めて聞き、尚且つあっけらかんとした物言いに内心驚いていた。いつものジャックじゃないみたいだ。

「でも、Jは謝れって。」

「Jはね、あの人の生き様に憧れてる節があるっていうかね、親愛というか敬愛みたいな感じだからさ、ごっちゃになっちゃったんだね。
小さな王様は女王様も御姫様も守りたくて仕方ないんだよ。
Jはびっくりしちゃったんだと思うよ。どっちの味方って訳じゃないから許してあげて、アヴァ。」

ジャックのJに対する甘さは健在で、何でもないことといった様子に感化され私は落ち着きを取り戻し始めた。
ここに来る前の悲しい気持ちが蒸発していくように気持ちが軽くなる。

「―私、家を出ようかな。
ジャックは全然帰ってこないし、ママの言うようにもう成人してるんだし。
すぐにとはいかないけど。」

「いいじゃん。なんで直ぐじゃ駄目なの?」

「だって、私お金持ってないし、国からのお金はアカデミー生には支給されないし。
かといってお金出してもらうのは本末転倒というか。」

「そっかそっか、そしたら、そうだな、最初の半年間だけ僕が出してあげる。
お母さんには叶わないけどそれなりにお金貰ってるから、頼ってくれていいよ。
アヴァの独り立ち、応援させて。」

「え、でも、それじゃママにお金貰うのと変わらなくない…?」

「そうかな?―じゃあ、そうだな。成人祝いってことでどうかな?
半年間分しかあげられないからその後のお金とか、どうやって使うかは全部アヴァが決めなくちゃいけないよ。アカデミー生を続けるなら半年の内に兼用出来る仕事も見つけなきゃいけないし、管理者AIも自分で設定して、操作して、生活全部がアヴァ自身の責任になるからね。
半年後にお金が無くなっても、それはアヴァの責任になる。出来る?」

「…うん。やる。」

「よし。じゃああとで送金しとく。
二十年間しっかり生きてくれたことへのプレゼントだよ。
ごめんね、面と向かってお祝い出来なくて。」

「ううん、ううん、凄く嬉しい。本当に有難う。いつも有難う、ジャック。」

「どういたしまして。
アヴァはしっかりしてるからそんなに心配してないけど、何かあったらJを頼るんだよ。
僕は研究所にいなきゃいけないから。これくらいしか出来なくてごめんね。」

「充分だよ、ジャック。有難う。
…ねえ、ほんとにちょっとだけでも顔を見ちゃ駄目?」

「―うん、ごめんね。
今の研究が終わったら、とっておきの成果を見せてあげるから、それまで待っててね。」

「分かった。ジャック、あんまり無理しないでね。
家が決まったら絶対遊びに来てね!」

「そうだね、アヴァはどんな家を選ぶのかな。楽しみだね。
気を付けて帰るんだよ。」

 後ろのエレベーターのドアが開いた。「またね」、そう言って塔に戻る。
ジャックの声はもう聞こえず波音だけが響く。
エレベーターは音もなく上がり、タウン階につくと一台のキックボードが止まっていた。
Jがその隣でシガーを吸っている。

「帰るよ。」シガーの煙が重そうにゆっくりと上がっていった。
私は頷いてJの乗るキックボードの後ろに乗り込んだ。

「ジャックに会えたの?」

「うん、話した。」

「良かったね。」

「うん。ごめんなさい。」

Jと一緒に帰る夜の道はさっきと違って怖くなかった。

 その夜私は海上都市全ての家に目を通し、テッセラ州とエクシ州の境に位置する家を見つけた。管理者AIが元々備わっている家もあったが総じて高く審査も厳しかったので、こじんまりとした一人用の部屋を契約し中古の管理者AI≪him≫を購入した。
悩んでいたことが嘘のように物事の進みが早く、私はじっと動かなかっただけの自分を恥じた。微動だにせずいれば嵐は過ぎると思っていた。でも実際は私がその場から離れるだけで良かった。
あの夜の後も母は相変わらず私に文句を言ってはワインを煽ったが、そんな母に私も負けじと言い返すようになった。
Jはあの日から毎日夕食を一緒にとり、母と私のやり取りを苦い顔をしてみていたが口は挟まなかった。
母とJに家を出ると伝えたのは家を出る前日で、二人は驚きや寂しさ、嬉しさを全て詰め込んだ難しい顔をしていた。私は家を出ると決めた日から丁度二週間で二十年間住んだ家を出て、運の良いことにアカデミーの中で仕事も見つけることが出来た。
ジャックはやっぱり一度も帰ってこなかった。
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