啓蟄のアヴァ

藤井咲

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第一章

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 全身がべたべたして気持ち悪い。
全身から出る汗が膨張した自分の身体をベッドに浮かべていた。

今回の夢も問題なく転送されたようだ。チカチカと青い光が手の甲で羽ばたいている。

(眠るの嫌だな)一瞬自分の頭に出てきた言葉に驚く。
そんなことはない。眠る為に私は夢を売っているんだ。嫌だなんて思うはずがない。
私にとって一番大切なことは、ベッドに入って、毛布にくるまって、眠ることだ。
おかしな時間に起きる事が増えたから少し不安定になっているのだろう。

 外は真っ暗だ。
シャワー室に向かう途中、廊下に埃がたまっていることに気づいた。
ここ二週間くらいは眠って、起きて最低限の水分と栄養をとって、またベッドに戻ることが続いていたから掃除を指示していなかった。バスタブにも埃が重なっている。
身体の節々が骨まで冷たい。
シャワーのノズルをひねると水が勢いよくでてきた。お湯がなかなか出ない。
久しぶりに使うので感度が遅いのかと、裸のまま水がお湯にかわるのをぼーっと待った。
ようやく水しぶきの温度が変わり、頭からシャワーをかけて全身を流していく。
髪を洗い水を止めて身体を洗う。何十年も同じように洗ってきた私の身体はまだ冷たい。
お湯をまた出して、なんとなく自分の膣に指を入れてみた。冷蔵庫の中みたいな冷たさだ。でも少し濡れてる。久しぶりに自慰をした。

 シャワーからあがるとマナーモード状態が切り替わって、光が通知を知らせる。兄だ。
何回も無視をすると行動に出るタイプなので今回の通話に出ることにした。

「はい」と答えると声が流れてくる。
あちらは画像をオンにしているのだろう、兄の鮮明な顔が空間にうつる。
背景は黒とピンクがぼんやりと浮かんでいてよく見えない。

「元気なの?」最近連絡に応答しなかったことには触れずに、ぶっきらぼうに聞いてきた。
薄暗い部屋にうつる兄は長い髪を無造作に結んで、口をへの字に曲げている。見るからに不機嫌そうだがこれが兄の通常の表情だ。
あまり笑うことのない兄の頬は、前回見た時よりもこけたかもしれない。

「元気だよ、Jは?」「変わりないよ。」

二人とも口を閉じて沈黙が続く。
無駄を嫌う兄は何か用がある筈なのに、今日はまるではっきりとしない。
いつも要件だけを伝える口はずっと結ばれたままだ。

「ニュクスがお前に会いたがってるよ」
この言葉はいつも要件を伝えた後、連絡を切る時の定型文のようなものだ。
今日の兄は少しおかしい。

「そう。ママも元気?」「相変わらずだよ」また沈黙。

「…今日は何か用事があったんじゃないの?」

顔を少し俯けて話すJは普段の兄には見えない。
何かつらいことでもあったのだろうか。だとすると、電話をする相手を間違えている気がする。
ぼんやりと兄の黒い髪を見ていると、兄は顔をあげ口を開いた。

「今どこにいるの?」「どうして?」

「映像がオンにならないから外にいるのかと思って」

そんななんてことないことを酷く言いづらそうにいう兄は本当におかしい。
一緒に育った時には見たことがない様子だ。
心配そうにこちらを気にする兄はあの人に被って見える。

「部屋にいるけどシャワー浴びたばかりだから、…なんで?」

「そっか」兄はそう言って、「じゃあ、また連絡する」と早口で言い通話を一方的に切った。

 ぼんやりと部屋を照らしていた映像が突然切れて一気に真っ暗になる。
なんだったんだろう、変なJ。
ベッドサイドに置いてある水を一口飲むとまた睡魔が襲ってきた。
眠りの感覚がより長くなっている気がする。次はいつ起きるだろう。
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