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赤髪のあんちくしょう その4
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「はあぁぁ……」
溜息が深すぎて、息と一緒に魂まで口から飛び出しそうだ。
「大丈夫か?」
「駄目、全くもって大丈夫じゃない」
「とんだ災難だよなぁ……」
ライリーから心底同情すると言わんばかりの視線を向けられる。
そう。ここ数日の俺は大変にお疲れなのだ。
そしてこの疲労感と引き換えに、俺は新たなことを学んでいる最中でもある。それは、恋の病に冒されている奴はとことん厄介だということだ。怪我は治せても病は治せないのが白魔法だが、アウローラ曰く、この恋の病というやつはどんな薬を使っても治せないらしい。熱が自然に冷めるのを待つしかないだろうと言われてしまった。ただ、間違っても曖昧な態度は取らないようにとも。当然俺は、はっきりと拒否している。
赤髪は学舎裏で俺に伴侶になれと宣ってから、ほぼ毎日俺に言い寄ってくるようになった。その度に断っているにも関わらず、全く諦めてくれない。昨日もカフェテリアでランチを楽しんでいたら、強引に俺の隣に席を取ってずっと自分を売り込み続けていた。お陰でせっかくの食事を落ち着いて食べることができなかった。パーシヴァルが諌めてくれたが、機会は平等に与えられるべきだ、と訳の分からない主張をして全く話が通じない。うんざりした俺は、食事もそこそこに席を立ったのだ。
「……今日はカフェテリアに行くのはやめよう」
昨日のことを思い返せば、カフェテリアでランチを楽しむ気はすっかり失せた。大体、あんなうるさい奴が一緒だったらパーシヴァルにも迷惑がかかる。
幾度目になるか分からない溜息を吐きながら、俺はケット・シーを呼び出す。
「……なんか御用かにゃ」
現れたケット・シーがご機嫌斜めだった。これは公爵家で厚待遇を受けていたところを、無理矢理召喚出した所為だろう。
「用があるから呼んだんだけどさ。だけど、そんなに公爵家の居心地が良ければ、俺のところになんか居ないで、公爵家の猫になってもいいんだよ」
俺はニッコリと言ってやる。まぁ、本当にケット・シーが望むのであればそれでもいいんだけど。ただ、そうなると俺との契約は切れるので、この世界に存在するための魔力がケット・シーには与えられなくなる。でも、彼なら幻獣としての力はそこそこにあるので、ただの猫にはなってしまうけどこの世界に留まれるはずだ。公爵家で大切にして貰えるなら、そういう生き方も選択肢の一つだろう。
「べ、別に、そんな事は言ってないにゃ! どこにお使いにいけばいいのかにゃ?」
ケット・シーは慌てて俺に縋りつく。
公爵家の居心地はいいが、普通の猫暮らしは望んではないようだ。
「パーシヴァルの所に行って、今日は一緒にランチは出来ないって伝えてくれる?」
「分かったにゃ!」
ケット・シーはぴょんと飛び上がると、タタっと駆けて行った。
「……驚いた。サフィラスは召喚魔法も使えるんだな」
「うん、まぁ一応ね」
ランチを抜くことにはなるが、仕方がない。幸いにも赤髪は夜は自分の部屋で食事をするらしく突撃してこない。だから夕食までの辛抱だ。食に執着している俺だけれど、一食抜くくらいなんて事はない。伯爵家にいた頃なんか1日一食だったし、冒険者が旅の途中で一食ニ食抜くなんて割と普通にある。どうしてもお腹が減るようなら一旦寮に戻って、アデライン夫人が送ってくれたお菓子を食べて夕まで凌げばいい。日持ちのするお菓子があってよかった。ありがたいことだ。
午前の授業が終わり、昼はどこに隠れて過ごそうかなと考えていれば、ケット・シーが何かの包みを持って戻ってきた。
「あれ、公爵家に戻ったんじゃないの?」
用事が済んだら公爵家に戻るのだろうと思っていたので、なんの気もなしにそう言えば、ケット・シーはまたしても慌てて俺に飛びついてきた。
「そんな事言わないで欲しいにゃ! ご主人はご主人だけにゃ!」
や、別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだけど。召喚獣にしては勝手すぎるところがあるケット・シーだけど、俺との契約が嫌ではないならそれは嬉しいことだ。
「そんな事はわかってるよ。ケット・シーは俺の大事な友人だ」
「本当にゃ?!」
「本当だって。それで、どうしてまだ学院にいるんだい? パーシヴァルに会えなかったの?」
「荷物を預かって来たのにゃ」
ケット・シーは持っていた包みを俺に差し出す。
「なんだろう?」
受け取って少し重たい包みを開いてみれば、それは肉をたっぷりと挟んだサンドウィッチだった。パーシヴァルは俺の伝言でいろいろ察してくれて、これをケット・シーに託してくれたらしい。昼抜きを覚悟していたから、この差し入れは心底ありがたい。
パーシヴァルは本当にいい奴だ。俺はパーシヴァルの為なら、どんな事だって全力で力を貸すと誓うぞ。
「そうだ。折角だから一緒に食べようか、ケット・シー」
「いいのかにゃ?」
ケット・シーは金色の目を爛々と輝かせる。
「勿論だよ」
俺はケット・シーを連れて、つい最近まで魔法演技の練習をしていた森に転移した。たまにはこんな場所で、静かにランチを楽しむのも悪くはない。
切り株に腰掛けて、木々の香りが爽やかな微風に吹かれながらケット・シーとサンドウィッチを分けあって食べる。
「美味しいにゃ!」
ケット・シーがご機嫌にサンドウィッチにかぶりつく。
基本的に幻獣は魔力さえ補給されていれば食べなくても平気なんだけど、好奇心旺盛な彼は人間の食べ物を好んでよく食べる。公爵家でもさぞ良いものをご馳走になっているんだろう。美味しいもの好きは俺に似たのかもな。
誰に邪魔される事なくケット・シーと長閑なランチを楽しんで学院に戻った俺は、このまま何事もなく1日を終えられるとばかり思っていた。
まさか、恋の病というやつが人を徹底的に愚かにするとは、恋愛経験の全くない俺には知る由もなかったんだ。
「サフィラス」
人気のない図書館の一角で古い本の背に書かれた書名を追っていた俺は、名前を呼ばれて不覚にも少し驚いてしまった。
「赤髪……」
その場所ゆえにか静かに近づいて来たようで、こんなに側に来られるまで気がつかなかった。昼時を上手く逃げ切っていた事で、ついつい気が緩んで油断していたのもある。しかも、俺は人目を避けて、上の階の古書ばかりが並ぶ奥まった処にいたのだ。滅多に人が入らない所なので、余程の事がなければ見つけられないはず。だから赤髪がこんな所にまで来るのは予想外だった。剣士の勘か? とも思ったけれど、俺の視界の端に見覚えのある茶髪の後ろ姿がちらりと見えた。
……はーん。あいつが赤髪をここまで誘導したんだな。最近すっかり顔を見なくなったから、気が済んだのかと思ったけど。どうしたって俺が気に入らないんだな。あれも恋の病の一種だろうけど。本当に恋の病っていうのは厄介な病だな。
転移で逃げちゃってもいいけど、このままだと学院にいる間ずっとパーシヴァルとランチを食べることもできないし、赤髪を避けるために余計な手間がかかる。ここは改めてガツンと言ってやった方がいいだろう。どんなに言い募ったところで、俺が首を縦に振る事はないってね。
「……あのさ、」
何度だってはっきりキッパリ言ってやろうと口を開けば、思いの外早い動きで赤髪は俺を囲い込むようにダンッと両手を壁につく。その所為で俺は、壁と赤髪に挟まれる形となってしまった。
「俺は本気だ。絶対にお前を伴侶にする」
怖い顔をした赤髪が見下ろしてきたけれど、そんな事で怯む俺ではない。
「いや、だから俺は誰の伴侶にもならないって言ってるだろ。あんた、相当しつこいよ。迷惑だからいい加減……」
んんん? なんだ、どうした? と思っている間に、赤髪の顔がグッと近づいてきたので、俺は漸く自身の危機に気がついた。
「っ!!」
咄嗟に赤髪の股間に膝蹴りを食らわせて、次の瞬間には転移をしていた。
大丈夫、落ち着け俺! 紙一枚分の猶予はあった。間一髪だ、ギリギリ触れてないぞ! だけど赤髪の息が口に当たった。
うわ、うわ、最悪だ! 気持ち悪い! あれはないって! 絶対ない!
俺は込み上げる不快感を拭う為に、袖で無茶苦茶くちびるを擦る。
「おや? そこにいらっしゃるのはサフィラス様じゃないですか」
「……え?」
聞き覚えのある声に振り返れば、ジェイコブさんがいた。
「一体どうされましたか? パーシヴァル様はご一緒ではないのですかな?」
「え……いや、あの……あれ?」
スッと頭が冷静になったので周囲を見回す。俺が無意識に転移をした先は、ヴァンダーウォールの城の前だった。
どうやら今の俺が一番安全で身を守れる場所だと思っているのは、ヴァンダーウォール領らしい。確かに、この国の盾で剣となる屈強な兵士が集まっている場所だもんな。何処よりも安全であることに間違いない。何より俺は此処でめちゃくちゃ寛いでいた。安心安全に加えて、心地の良い場所として意識に刷り込まれているんだろうなぁ。俺もあまりケット・シーの事を言えないよな。
「なんか、気がついたら此処に来ちゃってて……なので、今日はパーシヴァルは一緒じゃないんです。すみません」
「そうでしたか。折角いらしたのですから、奥様とお茶でもいかがでしょうか? きっと奥様もサンドリオン様もお喜びになると思いますよ」
ジェイコブさんは突然城の敷地内に現れた俺を不審がる事もなく、にこにこと受け入れてくれた。
「いえ、いきなり来ておいて、そんな厚かましい事は流石に……」
「いいえ、奥様は間違いなくお喜びになりますよ。寧ろ、お顔も見せずお帰りになられたら、がっかりなさいます。それに、そろそろミートパイとレモネのタルトが焼きあがる頃合いです」
「ミートパイとレモネのタルト……」
トマトで煮込んだ挽肉がぎっしり詰まったサクサクなパイと、爽やかなレモネクリームたっぷりのタルト。タルトには蜜漬けのレモネが乗ってるんだよな。
俺はごくりと唾を飲み込む。
「焼き立ては格別に美味しゅうございますよ」
躊躇している俺に、ジェイコブさんがとどめの一言を放つ。
「ご馳走になります……」
焼き立てミートパイとレモネのタルトの誘惑には抗えない。俺は早々に遠慮はやめて、ジェイコブさんとサロンに向かった。
溜息が深すぎて、息と一緒に魂まで口から飛び出しそうだ。
「大丈夫か?」
「駄目、全くもって大丈夫じゃない」
「とんだ災難だよなぁ……」
ライリーから心底同情すると言わんばかりの視線を向けられる。
そう。ここ数日の俺は大変にお疲れなのだ。
そしてこの疲労感と引き換えに、俺は新たなことを学んでいる最中でもある。それは、恋の病に冒されている奴はとことん厄介だということだ。怪我は治せても病は治せないのが白魔法だが、アウローラ曰く、この恋の病というやつはどんな薬を使っても治せないらしい。熱が自然に冷めるのを待つしかないだろうと言われてしまった。ただ、間違っても曖昧な態度は取らないようにとも。当然俺は、はっきりと拒否している。
赤髪は学舎裏で俺に伴侶になれと宣ってから、ほぼ毎日俺に言い寄ってくるようになった。その度に断っているにも関わらず、全く諦めてくれない。昨日もカフェテリアでランチを楽しんでいたら、強引に俺の隣に席を取ってずっと自分を売り込み続けていた。お陰でせっかくの食事を落ち着いて食べることができなかった。パーシヴァルが諌めてくれたが、機会は平等に与えられるべきだ、と訳の分からない主張をして全く話が通じない。うんざりした俺は、食事もそこそこに席を立ったのだ。
「……今日はカフェテリアに行くのはやめよう」
昨日のことを思い返せば、カフェテリアでランチを楽しむ気はすっかり失せた。大体、あんなうるさい奴が一緒だったらパーシヴァルにも迷惑がかかる。
幾度目になるか分からない溜息を吐きながら、俺はケット・シーを呼び出す。
「……なんか御用かにゃ」
現れたケット・シーがご機嫌斜めだった。これは公爵家で厚待遇を受けていたところを、無理矢理召喚出した所為だろう。
「用があるから呼んだんだけどさ。だけど、そんなに公爵家の居心地が良ければ、俺のところになんか居ないで、公爵家の猫になってもいいんだよ」
俺はニッコリと言ってやる。まぁ、本当にケット・シーが望むのであればそれでもいいんだけど。ただ、そうなると俺との契約は切れるので、この世界に存在するための魔力がケット・シーには与えられなくなる。でも、彼なら幻獣としての力はそこそこにあるので、ただの猫にはなってしまうけどこの世界に留まれるはずだ。公爵家で大切にして貰えるなら、そういう生き方も選択肢の一つだろう。
「べ、別に、そんな事は言ってないにゃ! どこにお使いにいけばいいのかにゃ?」
ケット・シーは慌てて俺に縋りつく。
公爵家の居心地はいいが、普通の猫暮らしは望んではないようだ。
「パーシヴァルの所に行って、今日は一緒にランチは出来ないって伝えてくれる?」
「分かったにゃ!」
ケット・シーはぴょんと飛び上がると、タタっと駆けて行った。
「……驚いた。サフィラスは召喚魔法も使えるんだな」
「うん、まぁ一応ね」
ランチを抜くことにはなるが、仕方がない。幸いにも赤髪は夜は自分の部屋で食事をするらしく突撃してこない。だから夕食までの辛抱だ。食に執着している俺だけれど、一食抜くくらいなんて事はない。伯爵家にいた頃なんか1日一食だったし、冒険者が旅の途中で一食ニ食抜くなんて割と普通にある。どうしてもお腹が減るようなら一旦寮に戻って、アデライン夫人が送ってくれたお菓子を食べて夕まで凌げばいい。日持ちのするお菓子があってよかった。ありがたいことだ。
午前の授業が終わり、昼はどこに隠れて過ごそうかなと考えていれば、ケット・シーが何かの包みを持って戻ってきた。
「あれ、公爵家に戻ったんじゃないの?」
用事が済んだら公爵家に戻るのだろうと思っていたので、なんの気もなしにそう言えば、ケット・シーはまたしても慌てて俺に飛びついてきた。
「そんな事言わないで欲しいにゃ! ご主人はご主人だけにゃ!」
や、別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだけど。召喚獣にしては勝手すぎるところがあるケット・シーだけど、俺との契約が嫌ではないならそれは嬉しいことだ。
「そんな事はわかってるよ。ケット・シーは俺の大事な友人だ」
「本当にゃ?!」
「本当だって。それで、どうしてまだ学院にいるんだい? パーシヴァルに会えなかったの?」
「荷物を預かって来たのにゃ」
ケット・シーは持っていた包みを俺に差し出す。
「なんだろう?」
受け取って少し重たい包みを開いてみれば、それは肉をたっぷりと挟んだサンドウィッチだった。パーシヴァルは俺の伝言でいろいろ察してくれて、これをケット・シーに託してくれたらしい。昼抜きを覚悟していたから、この差し入れは心底ありがたい。
パーシヴァルは本当にいい奴だ。俺はパーシヴァルの為なら、どんな事だって全力で力を貸すと誓うぞ。
「そうだ。折角だから一緒に食べようか、ケット・シー」
「いいのかにゃ?」
ケット・シーは金色の目を爛々と輝かせる。
「勿論だよ」
俺はケット・シーを連れて、つい最近まで魔法演技の練習をしていた森に転移した。たまにはこんな場所で、静かにランチを楽しむのも悪くはない。
切り株に腰掛けて、木々の香りが爽やかな微風に吹かれながらケット・シーとサンドウィッチを分けあって食べる。
「美味しいにゃ!」
ケット・シーがご機嫌にサンドウィッチにかぶりつく。
基本的に幻獣は魔力さえ補給されていれば食べなくても平気なんだけど、好奇心旺盛な彼は人間の食べ物を好んでよく食べる。公爵家でもさぞ良いものをご馳走になっているんだろう。美味しいもの好きは俺に似たのかもな。
誰に邪魔される事なくケット・シーと長閑なランチを楽しんで学院に戻った俺は、このまま何事もなく1日を終えられるとばかり思っていた。
まさか、恋の病というやつが人を徹底的に愚かにするとは、恋愛経験の全くない俺には知る由もなかったんだ。
「サフィラス」
人気のない図書館の一角で古い本の背に書かれた書名を追っていた俺は、名前を呼ばれて不覚にも少し驚いてしまった。
「赤髪……」
その場所ゆえにか静かに近づいて来たようで、こんなに側に来られるまで気がつかなかった。昼時を上手く逃げ切っていた事で、ついつい気が緩んで油断していたのもある。しかも、俺は人目を避けて、上の階の古書ばかりが並ぶ奥まった処にいたのだ。滅多に人が入らない所なので、余程の事がなければ見つけられないはず。だから赤髪がこんな所にまで来るのは予想外だった。剣士の勘か? とも思ったけれど、俺の視界の端に見覚えのある茶髪の後ろ姿がちらりと見えた。
……はーん。あいつが赤髪をここまで誘導したんだな。最近すっかり顔を見なくなったから、気が済んだのかと思ったけど。どうしたって俺が気に入らないんだな。あれも恋の病の一種だろうけど。本当に恋の病っていうのは厄介な病だな。
転移で逃げちゃってもいいけど、このままだと学院にいる間ずっとパーシヴァルとランチを食べることもできないし、赤髪を避けるために余計な手間がかかる。ここは改めてガツンと言ってやった方がいいだろう。どんなに言い募ったところで、俺が首を縦に振る事はないってね。
「……あのさ、」
何度だってはっきりキッパリ言ってやろうと口を開けば、思いの外早い動きで赤髪は俺を囲い込むようにダンッと両手を壁につく。その所為で俺は、壁と赤髪に挟まれる形となってしまった。
「俺は本気だ。絶対にお前を伴侶にする」
怖い顔をした赤髪が見下ろしてきたけれど、そんな事で怯む俺ではない。
「いや、だから俺は誰の伴侶にもならないって言ってるだろ。あんた、相当しつこいよ。迷惑だからいい加減……」
んんん? なんだ、どうした? と思っている間に、赤髪の顔がグッと近づいてきたので、俺は漸く自身の危機に気がついた。
「っ!!」
咄嗟に赤髪の股間に膝蹴りを食らわせて、次の瞬間には転移をしていた。
大丈夫、落ち着け俺! 紙一枚分の猶予はあった。間一髪だ、ギリギリ触れてないぞ! だけど赤髪の息が口に当たった。
うわ、うわ、最悪だ! 気持ち悪い! あれはないって! 絶対ない!
俺は込み上げる不快感を拭う為に、袖で無茶苦茶くちびるを擦る。
「おや? そこにいらっしゃるのはサフィラス様じゃないですか」
「……え?」
聞き覚えのある声に振り返れば、ジェイコブさんがいた。
「一体どうされましたか? パーシヴァル様はご一緒ではないのですかな?」
「え……いや、あの……あれ?」
スッと頭が冷静になったので周囲を見回す。俺が無意識に転移をした先は、ヴァンダーウォールの城の前だった。
どうやら今の俺が一番安全で身を守れる場所だと思っているのは、ヴァンダーウォール領らしい。確かに、この国の盾で剣となる屈強な兵士が集まっている場所だもんな。何処よりも安全であることに間違いない。何より俺は此処でめちゃくちゃ寛いでいた。安心安全に加えて、心地の良い場所として意識に刷り込まれているんだろうなぁ。俺もあまりケット・シーの事を言えないよな。
「なんか、気がついたら此処に来ちゃってて……なので、今日はパーシヴァルは一緒じゃないんです。すみません」
「そうでしたか。折角いらしたのですから、奥様とお茶でもいかがでしょうか? きっと奥様もサンドリオン様もお喜びになると思いますよ」
ジェイコブさんは突然城の敷地内に現れた俺を不審がる事もなく、にこにこと受け入れてくれた。
「いえ、いきなり来ておいて、そんな厚かましい事は流石に……」
「いいえ、奥様は間違いなくお喜びになりますよ。寧ろ、お顔も見せずお帰りになられたら、がっかりなさいます。それに、そろそろミートパイとレモネのタルトが焼きあがる頃合いです」
「ミートパイとレモネのタルト……」
トマトで煮込んだ挽肉がぎっしり詰まったサクサクなパイと、爽やかなレモネクリームたっぷりのタルト。タルトには蜜漬けのレモネが乗ってるんだよな。
俺はごくりと唾を飲み込む。
「焼き立ては格別に美味しゅうございますよ」
躊躇している俺に、ジェイコブさんがとどめの一言を放つ。
「ご馳走になります……」
焼き立てミートパイとレモネのタルトの誘惑には抗えない。俺は早々に遠慮はやめて、ジェイコブさんとサロンに向かった。
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