Cry Baby

犬丸まお

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煌の話

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 丘だかなんだかよく解らないのにヒルだとか、ヘドロの堆積した海辺をウォーターフロントだとかもてはやされている中、都市にありながらすっかり近代的な都市開発から取り残された一角。
 例えるなら、豪華な家具を並べ置いた裏側とでもいうのだろうか。掃除が行き届かず埃が溜まり、光も当たらない場所。
 ある意味、遺産のようなこの界隈。こんな処に住んでいるの人間の殆どは、いつか成り上がる夢を追い求めているハングリー精神が旺盛な奴や、嘗て夢を見てた事すら忘れ、ただ惰性で都市に住み続けている奴らばかりだ。
 しかし平たく言えば、貧しいという事を共通とした人間の集まり。
 俺もそんな奴らの一人として、この近代社会から取り残された地区に住んでいる。
 今にも崩れそうな二階建木造アパートの一階角部屋。
 鍵なんて掛けてても掛けなくても大して代わりのないドアを開け、部屋に転がり込んだ。
 どうせ、鍵なんて掛けた処で、盗まれて困るようものはないんだけれど。それに、例え掛けててもこんなちゃちな鍵、針金一本で簡単に開いてしまう。そんな施錠なんて、意味のないただの習慣。
 四畳半一間の部屋は、申し訳程度の流しがあるだけでほかには何もない。両サイドには張り付くように古いビルが立っていて、日も当たらない。そのせいでいつもそこはかと無く湿気ぽい部屋。当然風呂もなければトイレも共同。今時、こんな処もねぇよな、なんて思いつつも。家主に失礼なので、口にはしない。大体、ここに来るまでは宿無しだった俺にそんな事を言う資格もないが。



 一晩中土と戯れていたせいで、冬だってのに汗を掻いてるし泥まみれだ。
 本当はこのまま寝てしまいたいけど、朝陽あさひが嫌な顔をするから流しでタオルを濡らして、汚れた服を脱ぐと躯を拭く。こんな深夜にわざわざ風呂に行きたくはないし、たかだか風呂屋の癖に無駄に洒落っ気を出したせいで、値上がりした入浴料を払うのも勿体ない。
 一日や二日、風呂に入らなくても死にやしない。寧ろ散々汚れてから、一息に綺麗になる方がいっそすっきりするってもんだ。
 躯を拭きながらふと部屋の隅に目をやると、汚れた服を放り込んでいる紙袋から、服があふれていた。

 「そろそろ洗濯しなきゃなぁ」

 溢れ返った衣服を拾い上げ今脱いだものといっしょに、袋に無理矢理押し込む。その瞬間、乾いた音と共に袋が裂け、中身が辺りに散らばってしまった。

 「ちっ、なんだよー。ボロ袋め」

 「こうは洗濯物溜めすぎなの。だいたいそれ臭いから、早くなんとかしろよー」

 後ろから嫌味な言葉を投げ付けられる。

 「どーもすみませんね。御迷惑おかけして」

 小煩い男が帰宅してきた。
 この部屋の主人である朝陽は、馬鹿が付くほどの綺麗好き。コイツときたら、ビンボーなくせにまめにランドリーには行くし、意地になってるとしか思えないほど、どんな時でも風呂に入る。
 この間だって、バイトから戻った朝陽が、風呂に行く金はないがどうしても風呂に入りたいと言い張り、小さな流しに水を溜めてそこで頭を洗い、躯までもを洗おうとしていた。さすがに180を超える俺よりも小柄だとは言え、小さな流しに大人の男が入ることはできないから、タオルで拭くに留めていたけれど。
 それでも何度も丁寧に躯をこすっていた。濡れ髪を乾かすドライヤーもなければ、暖房もない寒い部屋で震えながら。
 俺はそんな朝陽をただ呆れて眺めていた。風邪を引いたって医者に係ったり薬を買う金なんて微塵もないってのに。あそこまでゆくと、綺麗好きというよりは病的な潔癖性。

 「はい、土産」

 そういって靴を脱いだ朝陽は、スーパーの袋を吊り上げて見せた。

 「期限切れの弁当、特別にいただきましたー!」

 「おおー、すげぇじゃん」

 袋に手を伸ばすと、朝陽はすっと俺の手から袋をかわす。

 「なんだよ?」

 「感謝します朝陽様って言ったら、やるよ」

 「はぁ? 何言ってんだ」

 「あ、いらない? ならいいよ。オレが全部食うからさ」

 「な……」

 ちっ、足元みやがって。
 今日稼いだ分は家賃と光熱費で消えるから無駄金は使えない。だから、一日何も食わずに働いた。昼に煙草一本吸って、公園で水を飲んだきり。正直腹が空きすぎて、腹が減ってるのかいないのかわからなくなってる。
 別にこれで食わなきゃ、それでも平気なんだろうが、肉体労働をしている身としては、この辺りで栄養補給をしておかなければ本気で躯が持たない。

 「カンシャシマス。アサヒサマ」

 棒読みで言ってやると、朝陽は満面の笑みを浮かべ、勝ち誇ったように「よろしい」だなんて言って、ようやく袋を俺に渡した。

 ……馬鹿馬鹿しい……

 時折り見せる、無闇にえらそうな態度はいったいなんなんだ?
 よっぽどストレスが溜まってるんじゃないだろうか。
 この狭い部屋には当然卓なんかない。二人向かい合って、背を丸めながら仄かに暖かい弁当を食う。きっと店のレンジで温めて来たんだろう。本当にマメな奴。

 俺らは夢なんかじゃ腹は膨れない事を知っている。
 だから馬鹿げた夢や希望なんか抱いて胸を膨らませたりしない。とにかく、ただひたすらその日を生きてゆくことだけを考える。そんな生活をしながらも、なんでここを離れないでいるのか。
 俺は多分意地なのだと思う。
 今となっては遠い昔のようにも思うが。実はそう昔でもない過去。俺にはささやかだがそれなりの夢があった。
 自分の店を持つ。
 その為にがむしゃらに頑張っていたし、苦労さえも苦と思わなかった。今のこの一足一足が、必ず夢の実現に繋がると信じていたからだ。どんな事も、夢へとつながる。そしていよいよ夢を目前にしたその時。店に関する総てを任せていた奴に、資金をまるごと持ち逃げされてしまった。
 たった一夜にして、俺は全財産と夢を失った。何の疑いもなく人を信じ、資金の全てを渡してしまった自分が情けなかったし、俺をだました奴らも許せなかった。それから俺は金を持ち逃げした奴らを探しまくったけれど、今だに見つかっていない。俺の汗と苦労の結晶は、今頃下らないことに消費されて消えてしまっただろう。
 全てを失った俺は、もう何に対しても真剣には成れなかった。ギャンブル、酒に女。職を点々とし、その日暮しをするようになり、後は坂道を転がるように落ちていった。まともに働かなくなった俺に、家賃を払える能力があるわけもなく、まもなく宿無しになった。
 朝陽と会ったのはそんな時だ。
 いつものように金もないくせに酒を飲み、酔った勢いで、相手も選ばず喧嘩を吹かけていた。けれどその日は相手が最悪だった。見るからに堅気じゃない雰囲気は漂っていた。
 それでも、ヤケッパチな俺は自分の鬱憤さえ晴らせればそれで良かった。
 後の事なんて、これっぽっちも考えられないまま、相手に突っかかる。
 完全に自暴自棄だった。
 けれど、そいつのスカーフェイスは伊達じゃなく、俺は散々ボコボコにやられて、路地裏の塵捨て場に放り出された。大げさでもなんでもなく、その時は本当に死ぬんだろうと思った。それでも、そのまま死んじまうならそれも仕方がないと諦念もあったと思う。
 もう、今更何に希望を持って生きていけばいいんだと。
 霞む視界で、都会の狭い空を眺めながら、早く楽になりてぇなぁなんて、ぼんやりと思っていた。
 その瀕死の俺を拾ったのが朝陽だ。

 「お前、大丈夫?」

 倒れている俺に随分と間延びした声で話掛けてきた朝陽は、動けない俺を無理矢理引きずり立たせ、このボロアパートまで連れてきたのだ。
 見るからに金がない様子の朝陽だったが、それでも俺の面倒を看てくれた。怪我の手当から、食い物に至るまで。
 朝日は小柄で線の細い中性的な男だった。薄茶の髪をして小綺麗な顔をして、こんな掃き溜めのような場所が酷く不釣り合いにも見えた。けれど、ここに集まる奴らは皆、大なり小なり人には言えないような事情を抱えている。朝日にも、そんな理由が何かしらあるのだろう。何かに追い立てられるように、朝早くから夜遅くまで働いている。俺はそんな朝日の様子を、ペラッペラの布団の中で、薄ぼんやりとした意識の中で眺めていた。

 まともに動けるようになるまで俺は朝陽の世話になり、すっかり動けるようになってからも行く場所のなかった俺はここに居ついてしまった。
 朝陽も好きなだけ居ればいいと言い、俺を追い出す事はしなかった。暫くは何もせず、日永一日ぼんやりと過ごしていたけれど、さすがに朝から深夜まで働いている朝陽の世話になるのは申し訳なくなり、とりあえず働くようになった。
 今は家賃とそれに関わる生活費を折半している。
 それでも。無気力な事に代わりはない。もう一度夢を見ようとか、かつての暮らしを取り戻そうとか、そんな事は微塵も感じない。ただ、朝陽と居るようになって、とりあえずは生きていようか、という気にだけはなった。


 あの夜、朝陽に拾われなければ、きっと本当に死んでいた。
 こうして朝陽に会って、生きてるってのも何かの縁があってこそなのだろう。
 それならもう少しだけ、俺に何が残されているのか見てみよう。そう思っている。
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