マッシヴ様のいうとおり

縁代まと

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第七章

第240話 無糖の記憶

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 夢路魔法の世界で再現した伊織の故郷。
 そんな場所へと赴き、三人でデートをするという特異なシチュエーションの最後に訪れたのは――伊織がずっと意識的に後回しにしていた場所だった。

 即ち伊織の実家、藤石家である。

 静夏の実家は離れがあるほど大きいが、結婚後に住んでいたのは普通の一軒家だった。
 小さいながらも庭が付いている。以前は二階のベランダで洗濯物を干していたものの、階段の上り下りが困難になるほど静夏の体調が悪化してからは庭で干していたのを伊織は思い出す。
 やがてそれは伊織の仕事になっていた。

「……自分の家を見られるのって妙に気恥しいんだけど、ヨルシャミたちは僕のルーツを見たいと思ってくれたから、ここは外せないなと思ったんだ。――けど、うん、ちょっと勇気いるなぁ」

 伊織は敢えて笑ってみせたが、玄関のドアを開けようと腕を伸ばすことすらできない。

 今までの場所は心のどこかで『今はもう帰れない故郷』のような感覚で見ていた。
 しかし『今はもう帰れない我が家』となると少し話が変わってくる。そう今思い知ったのだ。
 伊織は唾を飲み込もうと喉を動かしたが、口の中は乾燥しており唾液などない。折角二人にここまで来てもらったのだ、勢いで無理やり開けてしまおう、と考えたところでヨルシャミが片手を繋いだ。

「辛くとも見せてくれようとしているなら止めん。その代わりこうしておいてやろう」
「ヨルシャミ……」

 効果のほどはわからないがな、と笑うヨルシャミに微笑み返し、伊織は玄関のドアに腕を伸ばす。
 鍵がかかっていないのは感覚的にわかっていた。
 がちゃりと音をさせてドアを開き、玄関の中に入る。よく使っていた墨の消臭剤の香りが鼻に届いた。入って右手側にシューズラックがあるが、伊織も静夏もそんなに種類を持っていないため半分ほどしか埋まっていない。
 伊織はヨルシャミとニルヴァーレをリビングへと通し、自分がどういう時にどんな風に過ごしていたかゆっくりと話し始めた。

「このソファは元々三人用に買ったらしくて、小さい頃はよく飛び跳ねてたなぁ……ここだけの話、母さんが長期入院するようになってからはたまにベッド代わりに使ってたんだ」
「ほう、それは腰を傷めると叱られそうであるな。秘密にしておいてやろう」
「あはは、宜しく頼むよ。あとこっちはキッチンと繋がってて、料理を覚える前はインスタント……ええっと、いつでも簡単に食べれる美味しい保存食……? で済ませることが多かったから、お湯を沸かすことくらいにしか使ってなかったんだ」
「覚えてからは?」
「弁当まで作ってフル稼働かな……!」

 イオリイオリ、とニルヴァーレがリビングのテレビを指さして言う。

「あれは何かのモニターか? 本部で似たのを見かけたぞ」
「うわ、ナレッジメカニクスってモニターまであるんですか!」

 しかしあれだけの機械技術を持っているなら当たり前ではある。
 伊織がそう思っているとヨルシャミも「地下施設で見たな」とテレビをつついた。複数作ることができる技術もあるらしい。

「ナレッジメカニクスにあったなら実験用かもですけど、これは娯楽用ですよ。映るかな……」

 伊織はリモコンを手繰り寄せてスイッチを入れてみる。
 番組は伊織が見たことのあるものに限るのだろう。映ったには映ったがチャンネルを変えてもすべて見覚えがある番組ばかりで時期も統一感がなく、全チャンネルで再放送を見ているような気分だった。
 しかしニルヴァーレは興味を引かれたのか、伊織に説明を受けた上でリモコンのボタンをぽちぽちと押す。

「へえ、映像データを見せられる時にしか使ってなかったけど……こういう風に娯楽にも使えるのか。ページを捲らないで済む本みたいだな」
「好きに弄ってていいですよ、折角なんで飲み物でも入れてきます」

 なんだか子供みたいだなぁ、とニルヴァーレの背中を見て笑ってから伊織はキッチンに向かった。
 と、手を離さなかったヨルシャミがそのままついてくる。

「……? ヨルシャミも観てていいのに」
「ニルヴァーレとあれに齧りついて観るというのが好かん。まあ気にはなるがな……ちょっとだけ! 少しな!」

 ちらちらとテレビに視線を投げるヨルシャミを見て伊織は再び笑った。
 そのまま手を引いて進む。

「じゃあ早く用意して行こう。ジュースとかあった……か、な……」

 冷蔵庫を開いた伊織は中にあった無糖のボトルコーヒーを見て首を傾げる。
 隣に並ぶジュースや牛乳はよく飲んでいたのでわかる。しかしボトルコーヒーに心当たりがないのだ。
 不思議そうにしているとヨルシャミが手元を覗き込んできた。

「どうした? その大きな箱におかしなものでも入っていたか?」
「あ、いやその、……コーヒー、僕も母さんも飲めないんだ。なんで入ってるのかなって」
「それはコーヒーなのか。ふむ……記憶にないものは再現されない。これは意識したものではない無意識下の再現だろうが、それでも一度はここで見ているはずだぞ」

 ここで、ということは店で売られていたものを冷蔵庫内に再現してしまったという線はないようだ。
 伊織は不思議に思いつつボトルコーヒーを手に取り、ずっしりとした重みを腕に感じた瞬間目を見開いた。

 自分が今の身長よりもっと背が低かった頃、このパッケージを目にした。
 以前に誰かが飲んでいるのを見て憧れていたものだ。

「あ、これ――」
『こら伊織、ずっと冷蔵庫を開けっぱなしじゃないか』

 背後から突然声をかけられて伊織は肩をびくりと跳ねさせる。
 振り返ると部屋着の男性が立っていた。
 前髪を左右に分けた、どこか眠そうな目の男性。目の色は過去の伊織と同じ薄茶で、髪の色素も茶系寄りなせいか全体的な印象が薄い。
 それでも一目見た瞬間それが誰かわかった。

「父さん」

 呼んだ声に反応はなく、男性は――伊織の父親、織人(おりと)は冷蔵庫の中を覗き見る。

『なんだ、それが気になるのか。多分伊織の口には合わないと思うよ』

 これは今の自分ではなく過去の自分にかけられた言葉だ、と伊織は理解した。
 同じものが見えているらしいヨルシャミは何度か瞬きをして小さく呟く。
「無意識下の再現があるなら無意識下の記憶の再生もありえる、か……? いやしかし何という再現度だ、シミュレーションでもなく記憶をそのまま再生するとは」
 珍しいことなのだろうか。
 伊織はそう気になったが、問うこともできず父親から目を離せないでいた。
 織人は伊織がとても幼い頃に亡くなったため、姿形などほとんど覚えていないと思っていたのだ。しかしこの記憶を見た瞬間、雰囲気や声や匂いや手の平の厚みまで一気に思い出した。そうだこんな人だった、と。

 織人はボトルコーヒーを手に取ると食器棚に近づき――そして消えた。
 伊織はぎょっとしたがすぐに冷蔵庫の前に現れる。どうやら子供の頃の伊織が見ていなかった部分は再現されないらしい。

『ほら、一口舐めてごらん』

 差し出されたカップ。
 それは質量を持って目の前に存在しており、伊織はおずおずとそれを受け取った。
 しばらくして織人は肩を揺らして笑い、まだコーヒーを飲んでもいない伊織の頭を撫でる。

『苦いだろ』

 子供の頃の伊織はコーヒーを一舐めして顔をしかめたらしい。
 伊織はカップのコーヒーを啜る。無糖のためとても苦い。現実世界では感じない味覚を刺激され余計にそう感じたが、今なら飲めないほどではなかった。
 しかしその苦みがどうにも目元を刺激し、気がつくと伊織は鼻を啜っていた。
 父親の形をした『記憶』が薄らいで消える。

「……父さんの記憶、具体的なものはほとんど頭の中に残ってないと思ってたんだ」

 それでも本当は覚えていた。
 そのことがなぜか嬉しい。
 ずっと父親の存在は認識していても、どこか古い記憶の中にだけ存在するフィクションの存在として見ていたせいかもしれないと伊織はようやく自覚した。

「……覚えていないと思っても、お前にとっては大切な記憶だったのだろうな」
「――うん」

 伊織はヨルシャミに頷き、涙がコーヒーに入らないようにしながら再びカップに口をつける。
 これだけは父親が消えてもなくならなかった。

 記憶をもう一度目にし、覚え直す。
 そんな気持ちも持って訪れた故郷で、思わぬ記憶を再び目にすることができた。
 短い間だが父親は、織人は自分の傍に存在していたのだ。

 ああ、このまま泣いてちゃニルヴァーレさんに吃驚されるな、と伊織は泣き止もうとしたが、如何せん涙腺が言うことを聞かない。
 するとヨルシャミの腕が伸び、織人のように伊織の頭を撫でた。

「ゆっくりでいい。あれはテレビに夢中だ」
「ありがとう、……ぅお」

 ヨルシャミの気遣いに触れて表情を緩めたところで伊織はぎょっとする。
 いつの間にかニルヴァーレがソファに腰掛け、我が物顔でクッションを抱えながらテレビの設定を弄っていた。
 そのリモコンさばきは既に伊織より手慣れており、あっという間に映像が鮮やかに映るように微調整される。

「よし! これでより美しく見ることができるな!」
「ニルヴァーレさんの進化スピードやばい」
「妙なところで才能を開花させているな」

 伊織とヨルシャミは顔を見合わせ、そして泣いていたことなど忘れてしまったかのように小さく噴き出して笑った。
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