マッシヴ様のいうとおり

縁代まと

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第四章

第127話 三つの道にて

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 初めは何も起こらなかったように思えた。

 しかしどこからともなく風が吹き、それが濡れた頬を撫でて伊織は水面から顔を上げる。
 風は伊織たちの周りを舞い、二人と一匹を守るように顔周りを保護して酸素を届けた。
 自然界ではありえないもの。それこそがこの風がニルヴァーレの手によるものだという証左だ。
 暗い道を流されながら、それでも傍にニルヴァーレがいる気がして伊織は状況に似つかわしくない安堵感を感じた。
 いや、実際に魔石としてニルヴァーレは伊織の傍にいるのだ。

(……ありがとうございます)

 今度はちゃんと自分の口で伝えよう。
 そう決心しながら、今は心の中だけでそう呟いた。

 何がどうなっているのかわからない、そんな顔をしているネロの手を引いて水の中を流され続ける。
 二人はついには水で満たされ顔を上げる隙間のない道に入り込み、互いにどうにかこうにか離れ離れにならないようにしながら冷たい闇の中を進んでいった。
 水中だというのに辛うじて呼吸ができるというのは不思議な感覚である。
 しかし呼吸はできるものの、手足からはどんどん体温が奪われていく。

 流れる水の先がどうなっているのか見当もつかないが――伊織たちに出来るのは、今の状態のままひたすら耐えることだけだった。

     ***

 静夏はバルドを瓦礫の隙間から助け出し、念のためだと彼を背負って移動していた。
 その最中もバルドは頭痛を訴え続けている。

「すまない、耐えてくれ。村まで戻れば医者が――」
「あー、いや、多分痛いのは今だけだから気にしないでくれ。こっちこそすまない。これは久しぶりに頭をやられたからだな……でも全部じゃないか、虫食いすぎる。明瞭じゃない。とにかく今の損傷だけでも早く戻れ、この……」

 む? と静夏は眉を僅かに寄せる。
 そして「もしやこれはうわ言の類ではないだろうか」とすぐに思い至った。
 もしくは意識が朦朧としつつあるのか。どうにもバルドが何を言っているのかわからないところがある。
 バルドを簡易的に確認したところ体にも頭にも傷はなかったが、暗い中でもわかるほど彼の服は血で汚れていた。髪を束ねていた紐は解けて今は銀髪を流れるままにしており、その銀色すら赤色で汚れている。

 そして気になるのが彼が倒れていた場所におびただしい血痕が残っていたことだ。

 しかし人間があれだけ出血すれば命はない。恐らく魔獣のものだろう、と静夏は結論付ける。
(だが外傷がなくとも頭を打ったのなら油断ならない)
 会話を続けて意識を保ってもらった方がいい。
 そう判断した静夏は足を進めながら語りかけた。

「……昔、頭を打って記憶を失った主人公が再び頭を打って記憶を取り戻したという話を読んだことがある。バルド、もし頭を打ったのなら何か思い出したことはないか?」
「思い出したこと?」
「ああ。記憶喪失だと言っていただろう」

 あー、とバルドは再び間延びした声を漏らした。
 まるで寝起きに質問された人間のような反応だ。そのまま遠くを見るように目を細めて口を開く。
「そうだな……うん、ちょっと気づくことはあった」
「ほう」
「ただ仮説の域を出ないし情報が穴ぼこすぎるんだ、確信を持ってから言いたい」
「それは残念だな」
 多分何も面白いことはないぜ、そう言いながらバルドは静夏の背に揺られ、そして小さく笑った。

「なんだ?」
「なんかおんぶって懐かしいなぁと思ってさ。いや、される側の話じゃねぇんだけど」

 記憶喪失なのに感じる懐かしさ。
 なんとなく選んだ話題だったが、本当に記憶でも戻ったのだろうか。そう考えているとバルドが続けて言った。

「伊織は――」
「伊織は?」
「ネロ……そう、ネロと左手の道に放り込んだ」

 巻き込まれていないかどうかはわからない。
 今の状態のバルドの言葉だと信憑性に欠ける。
 しかし一番間近にいた人物からそう言われ、静夏は泣きたくなるほど安堵して胸を撫で下ろした。
 仲間は全員心配だが、息子の安否を聞くと勝手に涙腺が反応してしまうのは今も昔も世界を跨いでさえも母だからだろう。
 バルドは直近の記憶だというのに、遥か昔のことを思い返すようにしながら言葉を続ける。

「サルサム、……サルサムたちは? どうなった?」
「……サルサムはリータやミュゲイラたちと反対側の道に進んだ。ヨルシャミの状態が芳しくないため先に街へ向かってもらっている」
「そうか、ひとまずは無事でよかった。……よし、静夏、止まってくれ」

 バルドは静夏に足を止めさせると、背中から降りて自分の足で地面に立った。
 胡乱なことを言っていたというのに不思議とふらついておらず、しっかりとした立ち姿だ。そのままきびきびとした動きで出口に向かって歩き始める。

「もう大丈夫、自分で歩ける。早く村に戻ってこれからどうするか検討しよう」

 そう言うバルドはどこか別人のように、しかしどこか見知ったままの人物のように思えた。
 そして暗いからこそ見間違えたのだろうか、血の汚れも思っていたより随分と少ない。それこそ魔獣の返り血だけに見える。落盤が起こる前のバルドの様子はどうだったろうか、と静夏は思い返そうとしたが――今労力を割くべきはそこではない、と思い直す。
 同じ顔、同じ声のままだというのに僅かな違和感が拭えないが、しかし確かにバルドなのだ。
 静夏は数歩で彼の隣に追いついて歩み始める。

「……わかった」

 そして、短く答えて頷いた。

     ***

 ミュゲイラは明るい光に目を細めて空を仰いだ。

 トンネル内の暗さに慣れた目には眩しいが、足は止めずに街へと向かって歩き続ける。
 その腕に抱かれたヨルシャミは頭部に布を当てた状態のまま未だに意識を失っていた。頭部は負傷すると出血量が多いため傷の重傷度を見るのは難しいが、意識が戻らないというのは最悪の状態だろう。
 呼吸はしているが少し音がおかしい。
 姉の隣を早足で進むリータはヨルシャミの腕がだらりと垂れているのに気がつくと、そっと胸の前で組むように持ち上げた。

「走りたいとこだが衝撃は与えない方がいいよな……リータ、街はトンネルを抜けてから近いのか?」
「うん、徒歩だと三十分くらい。お姉ちゃんの歩幅ならもう少し早く着くと思う」
「ならあたしとサルサムはこのスピードのまま進むから、お前は先に街まで走って医者の手配をしといてくれないか?」
 サルサムが「俺がヨルシャミを抱えてお前が走った方が早いんじゃないか」と提案したが、ミュゲイラは首を横に振った。
「こいつ一人抱えて歩くのはサルサムにも出来るだろうけど、衝撃を抑えて歩くのって難しいだろ」

 たしかに歩行の仕方が異なる。
 加えて短時間というわけではなく、筋力と体幹共にしっかりとしているミュゲイラの方が適任だ。サルサムは音を殺して歩く方法は知っているが、それは単独での行動に限ったこと。今使えるものではなかった。
 それに、とミュゲイラは笑う。

「リータの健脚はあたしより上なんだ、長い距離を早く走るのにも向いてる」
「……なるほど。じゃあせめてミュゲイラの荷物は持とう。あともし体力が切れたら回復する間は代わってくれ、それくらいの間ならお前の真似事くらいはできる」
「ああ、そん時は宜しく!」

 リータもミュゲイラに頷いた。
「じゃあ伝えに行ってくるね。……お姉ちゃんも無理しちゃダメよ」
 ミュゲイラは敢えて明るく振る舞っているが、マッシヴ様と離れ離れになった上に自分のせいでヨルシャミに怪我をさせたと思っている。
 リータはそんな姉の心情を思って両耳を下げたが、ミュゲイラは「大丈夫」とゆっくりと言った。

「姉御がいなくても何とかしてみせる。こんな時にぴーぴー泣きついてたらあたしはあたしが許せなくなるからな。……ヨルシャミも絶対に助ける」
「――うん、絶対に!」

 リータはミュゲイラ、ヨルシャミ、サルサムを順番に見ると、背中を向けて街へ続く道を走り始めた。
 何としてでも姉たちと共にヨルシャミを救うために。
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