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第二章
第51話 自由と自分勝手 【★】
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ニルヴァーレがうっすらと目を開けると、ヨルシャミが間近で見下ろしていた。
あれだけ追い求めていた対象だというのに腕の一本も上げられない。
(そうか、僕がもう脅威じゃないから傍に来たのか)
ニルヴァーレはそう得心がいった様子で再び目を閉じようとする。
それをヨルシャミの声が引き留めた。
「ニルヴァーレよ、なぜお前はここまで無茶をした。お前なら仕切り直せばもっと効率の良い作戦のひとつやふたつ練れただろうに」
「久しぶりに……『今』が楽しかったんだよ。過去でも、未来でもなく……」
昏々と眠り続け、そして突然ナレッジメカニクスの施設から逃げ出したヨルシャミが生きていたとニルヴァーレが知った時、あそこまで強い喜びを感じたはいつぶりだったかわからない。
目的のために探し回るのも楽しかった。
想像よりも早く邂逅したのが惜しかったくらいだとニルヴァーレは語る。
「でも、もし時間を置いて……そのせいでこの感情が失われてしまったらと思うと、嫌だったんだ。もったいないじゃないか」
「命と天秤にのせたものがそれか」
「感じる価値は人それぞれさ」
無味乾燥とした長い時間よりも、彩りに溢れた短い今この瞬間こそが美しく、なによりも優先したかった。だというのにその極彩色の美しさが今後失われてしまい、また寒々とした日々が続くかもしれない。
なら、この今という瞬間を目一杯楽しむべきだと感じた。
そう掠れた声で言いながら、ニルヴァーレは脇腹から胸の上へ手を這わせるようにゆっくりと腕を上げて己の胸元に軽く触れる。
そして何かを確認して長い息を吐いた。
それは安堵の吐息にも似ていた。
「ヨルシャミ、あの羽虫の召喚痕を見た時にすぐに君だとわかったよ。……召喚痕がお父さんそっくりだ」
「――師は魔導師としては尊敬できる存在だったが、父親としては難があったな」
未だに召喚痕にまで父の面影を感じていたとは思わなかった。
そう感じながらヨルシャミは口の端を上げる。
「お前も息子としては難があったが」
「手厳しいなぁ」
「己の基準のみで美しさに固執しなければよかったのだ。師は老いて皴にまみれ目が濁り、節々が骨張ろうとも――そして病に侵されようとも、良いも悪いもすべてひっくるめて己の生きたい道を生き続けた。私から見れば美しい生き様をしていたぞ」
ニルヴァーレは小さく唸る。
ヨルシャミに言われて今一度父親を見てみたくなったが、彼はとうの昔に朽ち果ててしまった。今では墓すらどこにあるかわからない。
しかし、なんとなくはわかった。
老いても美しいものはあるのだ、と。
時を止めた自分は果たして美しかったのだろうか。
美しくあれたのだろうか。
「そうか――そうか、僕はまだ美しくなれる可能性があったのか」
老いてなお美しい自分というのはなかなかに惹かれるものがある、とニルヴァーレは子供のように笑う。
そして静夏の拳に目をやって言った。
「でも負けてしまった僕はその可能性を確認することができない。あーあ! 久しぶりに心の底から残念だ!」
「まだ治療すれば――」
暗に何を指しているのか察した伊織がそう言いかけるも、ニルヴァーレは胸元をトントンと指先で叩く。
「延命装置が壊れてしまった。聖女の拳によるものだ。……なんてね、僕が無茶な使い方をしたからだよ! これを放置しておけば延々と僕を生かし続けようと莫大な魔力を食い続ける。そのせいで僕が死ぬのにお笑い種だ」
だから、とニルヴァーレは小さな魔法陣を指先で生み出した。
魔力操作が覚束ないが、元からこういった事態を想定して作った魔法だ。だからちゃんとやれ、とニルヴァーレは自身の手先に悪態をつく。
この魔法をかける対象は、本来なら他人だった。
今はニルヴァーレ自身を指定している。
「僕に可能性を示してくれてありがとう! お礼として、最期に僕の魔力と魂を結晶化させて君たちに贈ろう」
「っな……」
さすがにこれにはヨルシャミも驚いたようで、半ば身を乗り出して魔法陣を見た。
「そんな魔法は存在しないはずだぞ。もしや」
「僕が作った。本来は装置の動力源の補助……魔石の補給ができない時に他人を犠牲にして命を繋ぐためのものだ。まさか自分に使う日が来るとは思わなかったよ。でもこのまま暴走して枯れ果ててしまうよりはいい」
魔石としてでもいいから君たちと共に連れて行ってくれ。
そう言ってからニルヴァーレはヨルシャミを見上げた。
「時間がないからひとつだけ君に教えておこう」
「ほう、ならナレッジメカニクスの本部がある場所でも――」
「ヨルシャミ、君の元の肉体は僕の手で保管してある」
虚をつかれた顔でヨルシャミは「は!?」と声を上げた。
そんな素っ頓狂な声を聞いてニルヴァーレは満足げに笑い、そして躊躇いなく魔法を発動させる。
小さな魔法陣から発されたとは思えないほどの光が辺りを照らし、木々の間を抜けていく。まるで一瞬のまばゆい突風のようだった。
「……」
光が収まると同時に、ニルヴァーレの倒れていた場所に何かが現れる。
それは青色と薄緑色の混ざった手の平サイズの石だった。
透き通っており普通の魔石にも見えるが、中で渦巻く魔力の質と量が桁違いだ。
石が現れた代わりにニルヴァーレの姿は消え、ヨルシャミは深く息を吸ってから短く吐く。
「……自分勝手で自由な奴だな!」
***
もう色褪せた記憶しかないのか、久方ぶりに目にした生家は白黒だった。
人間にだけ色がついている。
ニルヴァーレは自分の目の前で息を引き取った父を見た。
ベッドに横になったカルガッサスの顔色は悪く、しかし死人にしては明るい色はついさっきまで生きていたことを示していた。
ああ、こんな顔をしていたっけ、と改めて思う。
似ていないと思っていたが目元など自分にそっくりだ。――ようやくそっくりだということを認められた。
遅くにできた子供だったニルヴァーレはすでに老い始めた父しか知らない。
若い頃はもう少しだけ自分に似ていたのだろうか、とそんな思考を今初めてした。
その時、ニルヴァーレが振り返るとそこにヨルシャミがいた。
カルガッサスが亡くなった当時の彼だ。
ニルヴァーレが一八歳だった頃だ。黒い髪と暗い緑色をした瞳の色合いがとても好きだったのを覚えている。
彼は父親に引き取られてから魔法の才能を更に開花させ、様々なことを呑み込み上達していった。外見と才能、そのどちらも鮮烈でニルヴァーレはこの時人生で初めて自分以外の者を美しいと思ったのだ。
「だから手元に置いておきたかったんだよ。いいなぁと思いながら眺めたかった」
手元に置いておきたい。
それは仲間にしたい、仲間になりたいと同じ意味だとニルヴァーレはすでに知ってしまっている。自覚しなければここまで心を掻き乱されることはなかっただろう。
「あのイオリとかいう奴、本当に余計なことに気づかせてくれたな……」
最後になじっておけばよかった、とニルヴァーレは肩を竦める。
すると目前のヨルシャミが片側の口角を上げて笑った。おかしい。師を亡くした彼はこの場面で家を出ていったはずだ。
それはひとりの旅で、ニルヴァーレは連れていってもらえなかった。
次にヨルシャミと再会したのはニルヴァーレがナレッジメカニクスに入ってからのことだ。
ヨルシャミはあの時とは異なる言葉を発する。
「自由に生きたか、ニルヴァーレ」
「……自由に生きたとも」
死出の旅への道先案内人か。
そんなことを思いながらニルヴァーレが答えると、ヨルシャミは黒髪を揺らしながら近づき言った。
「自由などとのたまうなら、もっと自由になってみればどうだ」
「……どういう意味だ?」
すでに肉体も何もなく、これはきっと魂が最後の最後に見ている夢だろうに。
そう考えているとヨルシャミがニルヴァーレの背後を指さした。
つられて振り返るとそこには死した父もベッドもなく、それどころか色褪せた家すらない。
そして背中を向けて初めてニルヴァーレはハッとした。
さきほどのあれはヨルシャミではない。
ヨルシャミの形をした――自分の望みだ。それが自由になってみろと言っている。
「自由と自分勝手は紙一重なんだが」
ニルヴァーレは口元を引き攣らせつつ一歩前へと出た。
紙一重だが、仕方がない。
なぜなら、自分はそういう人間なのだから。
元の姿のヨルシャミ(イラスト:縁代まと)
あれだけ追い求めていた対象だというのに腕の一本も上げられない。
(そうか、僕がもう脅威じゃないから傍に来たのか)
ニルヴァーレはそう得心がいった様子で再び目を閉じようとする。
それをヨルシャミの声が引き留めた。
「ニルヴァーレよ、なぜお前はここまで無茶をした。お前なら仕切り直せばもっと効率の良い作戦のひとつやふたつ練れただろうに」
「久しぶりに……『今』が楽しかったんだよ。過去でも、未来でもなく……」
昏々と眠り続け、そして突然ナレッジメカニクスの施設から逃げ出したヨルシャミが生きていたとニルヴァーレが知った時、あそこまで強い喜びを感じたはいつぶりだったかわからない。
目的のために探し回るのも楽しかった。
想像よりも早く邂逅したのが惜しかったくらいだとニルヴァーレは語る。
「でも、もし時間を置いて……そのせいでこの感情が失われてしまったらと思うと、嫌だったんだ。もったいないじゃないか」
「命と天秤にのせたものがそれか」
「感じる価値は人それぞれさ」
無味乾燥とした長い時間よりも、彩りに溢れた短い今この瞬間こそが美しく、なによりも優先したかった。だというのにその極彩色の美しさが今後失われてしまい、また寒々とした日々が続くかもしれない。
なら、この今という瞬間を目一杯楽しむべきだと感じた。
そう掠れた声で言いながら、ニルヴァーレは脇腹から胸の上へ手を這わせるようにゆっくりと腕を上げて己の胸元に軽く触れる。
そして何かを確認して長い息を吐いた。
それは安堵の吐息にも似ていた。
「ヨルシャミ、あの羽虫の召喚痕を見た時にすぐに君だとわかったよ。……召喚痕がお父さんそっくりだ」
「――師は魔導師としては尊敬できる存在だったが、父親としては難があったな」
未だに召喚痕にまで父の面影を感じていたとは思わなかった。
そう感じながらヨルシャミは口の端を上げる。
「お前も息子としては難があったが」
「手厳しいなぁ」
「己の基準のみで美しさに固執しなければよかったのだ。師は老いて皴にまみれ目が濁り、節々が骨張ろうとも――そして病に侵されようとも、良いも悪いもすべてひっくるめて己の生きたい道を生き続けた。私から見れば美しい生き様をしていたぞ」
ニルヴァーレは小さく唸る。
ヨルシャミに言われて今一度父親を見てみたくなったが、彼はとうの昔に朽ち果ててしまった。今では墓すらどこにあるかわからない。
しかし、なんとなくはわかった。
老いても美しいものはあるのだ、と。
時を止めた自分は果たして美しかったのだろうか。
美しくあれたのだろうか。
「そうか――そうか、僕はまだ美しくなれる可能性があったのか」
老いてなお美しい自分というのはなかなかに惹かれるものがある、とニルヴァーレは子供のように笑う。
そして静夏の拳に目をやって言った。
「でも負けてしまった僕はその可能性を確認することができない。あーあ! 久しぶりに心の底から残念だ!」
「まだ治療すれば――」
暗に何を指しているのか察した伊織がそう言いかけるも、ニルヴァーレは胸元をトントンと指先で叩く。
「延命装置が壊れてしまった。聖女の拳によるものだ。……なんてね、僕が無茶な使い方をしたからだよ! これを放置しておけば延々と僕を生かし続けようと莫大な魔力を食い続ける。そのせいで僕が死ぬのにお笑い種だ」
だから、とニルヴァーレは小さな魔法陣を指先で生み出した。
魔力操作が覚束ないが、元からこういった事態を想定して作った魔法だ。だからちゃんとやれ、とニルヴァーレは自身の手先に悪態をつく。
この魔法をかける対象は、本来なら他人だった。
今はニルヴァーレ自身を指定している。
「僕に可能性を示してくれてありがとう! お礼として、最期に僕の魔力と魂を結晶化させて君たちに贈ろう」
「っな……」
さすがにこれにはヨルシャミも驚いたようで、半ば身を乗り出して魔法陣を見た。
「そんな魔法は存在しないはずだぞ。もしや」
「僕が作った。本来は装置の動力源の補助……魔石の補給ができない時に他人を犠牲にして命を繋ぐためのものだ。まさか自分に使う日が来るとは思わなかったよ。でもこのまま暴走して枯れ果ててしまうよりはいい」
魔石としてでもいいから君たちと共に連れて行ってくれ。
そう言ってからニルヴァーレはヨルシャミを見上げた。
「時間がないからひとつだけ君に教えておこう」
「ほう、ならナレッジメカニクスの本部がある場所でも――」
「ヨルシャミ、君の元の肉体は僕の手で保管してある」
虚をつかれた顔でヨルシャミは「は!?」と声を上げた。
そんな素っ頓狂な声を聞いてニルヴァーレは満足げに笑い、そして躊躇いなく魔法を発動させる。
小さな魔法陣から発されたとは思えないほどの光が辺りを照らし、木々の間を抜けていく。まるで一瞬のまばゆい突風のようだった。
「……」
光が収まると同時に、ニルヴァーレの倒れていた場所に何かが現れる。
それは青色と薄緑色の混ざった手の平サイズの石だった。
透き通っており普通の魔石にも見えるが、中で渦巻く魔力の質と量が桁違いだ。
石が現れた代わりにニルヴァーレの姿は消え、ヨルシャミは深く息を吸ってから短く吐く。
「……自分勝手で自由な奴だな!」
***
もう色褪せた記憶しかないのか、久方ぶりに目にした生家は白黒だった。
人間にだけ色がついている。
ニルヴァーレは自分の目の前で息を引き取った父を見た。
ベッドに横になったカルガッサスの顔色は悪く、しかし死人にしては明るい色はついさっきまで生きていたことを示していた。
ああ、こんな顔をしていたっけ、と改めて思う。
似ていないと思っていたが目元など自分にそっくりだ。――ようやくそっくりだということを認められた。
遅くにできた子供だったニルヴァーレはすでに老い始めた父しか知らない。
若い頃はもう少しだけ自分に似ていたのだろうか、とそんな思考を今初めてした。
その時、ニルヴァーレが振り返るとそこにヨルシャミがいた。
カルガッサスが亡くなった当時の彼だ。
ニルヴァーレが一八歳だった頃だ。黒い髪と暗い緑色をした瞳の色合いがとても好きだったのを覚えている。
彼は父親に引き取られてから魔法の才能を更に開花させ、様々なことを呑み込み上達していった。外見と才能、そのどちらも鮮烈でニルヴァーレはこの時人生で初めて自分以外の者を美しいと思ったのだ。
「だから手元に置いておきたかったんだよ。いいなぁと思いながら眺めたかった」
手元に置いておきたい。
それは仲間にしたい、仲間になりたいと同じ意味だとニルヴァーレはすでに知ってしまっている。自覚しなければここまで心を掻き乱されることはなかっただろう。
「あのイオリとかいう奴、本当に余計なことに気づかせてくれたな……」
最後になじっておけばよかった、とニルヴァーレは肩を竦める。
すると目前のヨルシャミが片側の口角を上げて笑った。おかしい。師を亡くした彼はこの場面で家を出ていったはずだ。
それはひとりの旅で、ニルヴァーレは連れていってもらえなかった。
次にヨルシャミと再会したのはニルヴァーレがナレッジメカニクスに入ってからのことだ。
ヨルシャミはあの時とは異なる言葉を発する。
「自由に生きたか、ニルヴァーレ」
「……自由に生きたとも」
死出の旅への道先案内人か。
そんなことを思いながらニルヴァーレが答えると、ヨルシャミは黒髪を揺らしながら近づき言った。
「自由などとのたまうなら、もっと自由になってみればどうだ」
「……どういう意味だ?」
すでに肉体も何もなく、これはきっと魂が最後の最後に見ている夢だろうに。
そう考えているとヨルシャミがニルヴァーレの背後を指さした。
つられて振り返るとそこには死した父もベッドもなく、それどころか色褪せた家すらない。
そして背中を向けて初めてニルヴァーレはハッとした。
さきほどのあれはヨルシャミではない。
ヨルシャミの形をした――自分の望みだ。それが自由になってみろと言っている。
「自由と自分勝手は紙一重なんだが」
ニルヴァーレは口元を引き攣らせつつ一歩前へと出た。
紙一重だが、仕方がない。
なぜなら、自分はそういう人間なのだから。
元の姿のヨルシャミ(イラスト:縁代まと)
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