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第二章
第50話 人間であると聖女は言う
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美しいものを好きになった理由は覚えていない。
ニルヴァーレの振る舞いを見た他人はよくその理由を予想した。
幼い頃に憧れたものが美しかったからだの、醜いものにトラウマがあるだの、それはもうエンターテインメントとして消費するように。
しかしニルヴァーレに言わせてみれば、好き勝手に挙げられたそれはすべて下世話で的外れな予想だった。
理由は覚えていないのではない。
きっと初めからそんな明確なものはないのだ。
ニルヴァーレは物心ついた頃から美しいものが好きであったし、それは幼くも様々な経験を積み重ね、己の中から引き上げた感性によるものだった。
僕は美しいものが好きだ!
そう自覚したことで自分自身も美しくあろうとし、そして美しくあれたことで自分が大好きになった。
前向きな思い込みだと言う者もいるかもしれないが、ニルヴァーレは今ではそれすら含めて自分が好きになっている。
反して美しくないものは興味の対象外だった。
例外は『自分という存在に連なるもの』だ。
ニルヴァーレの父親は家族を顧みない人間で、母親はそれを嫌ってニルヴァーレを置いて出て行ってしまった。子供まで置き去ったのは自由を渇望していたからかもしれない。
父、カルガッサスは一言で表すなら魔法の研究に人生をつぎ込んだ人間である。
顔はニルヴァーレから言わせれば鷲鼻気味の凡人以下。
長身であり痩せぎすで、いかにも不健康な見た目をしていたが伸ばしっぱなしだった髪の毛はニルヴァーレと同じ色合いをしていた。
瞳も半分は父の色を受け継いでおり、それが酷く嫌だったのをニルヴァーレは覚えている。目も髪も色そのものは美しい部類だ。しかし美しくない父に似たことが許せない。
美しくないものが存在しているのはいい。
目を逸らし気にもしなければいいのだから。
しかしそれが自分の父親、自分を構成しているものの半分を担っている人間であることがどうしても許せなかった。
だが感性はたゆたう波のようなもので、決してそれひとつのみではない。
特に、当時はまだ子供であり人格の完成しきっていなかったニルヴァーレはそれが顕著だった。
子供として親に認められたい。愛してほしい。
そんな想いも当時のニルヴァーレの中にはたしかにあったのだ。
そう幼いながら葛藤して生きていたニルヴァーレとヨルシャミが出会ったのは、ニルヴァーレが十歳の頃。
ヨルシャミは流行り病により両親や兄弟を失った孤児のエルフノワールで、彼の魔法の才能を見抜いたカルガッサスが引き取って弟子にした少年だった。
奇しくも彼はカルガッサスにとって理想的な才能を、そしてニルヴァーレにとって理想的な『すべて』を持っていた。
***
ばつり、と嵌めていた黒手袋が破けたのを見たニルヴァーレは、それを歯で噛んで引き抜くと無造作に水面へと捨てた。
戦闘に夢中になっているだけではない。
他人の目から見ても明らかなほど余裕がないのだ。
だというのにこの世のものならざる暴風でできた龍はワイバーンと死闘を繰り広げ続け、ニルヴァーレ本人も静夏と戦うのをやめない。
やめなければ行きつく先がどうなるのかわかっているのに、だ。
「ニルヴァーレ」
「皆まで言うな。わかっているよ、でもやめたくないんだ。ここで勝ってヨルシャミを奪取する、そんな目的を持って戦うことが楽しくてね」
静夏は目を細める。
静夏は千年も生きたことはないが、元々長命種ではない人間が長く生きた結果、日々が無味乾燥としたものに置き換わってしまうことがあるという話は聞いたことがあった。いくら体が耐えられても精神が膨大な時の流れに耐えられないのだ。
ニルヴァーレはどうだったのだろうか。
静夏はそうニルヴァーレの半生を思う。
元来の性格とヨルシャミを渇望する心を支えに生きてこられたかもしれないが、きっと景色が灰色に見えるほど様々なものに飽いたこともあっただろう。
いま戦っている彼は楽しそうだ。
美しく、そして新しいものに囲まれ、命のやり取りをすることが楽しくて堪らないという顔をしている。敵対していても伝わってくる強い感情だ。
その戦う理由が人間くさく、そしてそんな理由そのものがニルヴァーレが今まで支えにしてきたものだからこそ、余計に人間らしかった。
「――では最期まで付き合おう」
「そうこなくっちゃ。まあ最期を迎えるのはそっちかもしれないけどね!」
タンッと高く跳んだニルヴァーレは静夏の肩を掴んで起点にし、そのまま空中で体を捻ってあっという間に背後をとった。
広い背中の中央へ全体重をかけた肘を打ち込む。
しかし、しなやかな筋肉がそれを邪魔した。静夏は体を回転させながら、その勢いをそのまま攻撃に活かしてニルヴァーレの脇腹を蹴りつける。
その時、ワイバーンの咆哮がびりびりと水面を小刻みに揺らし、風の龍に勝利したことを知らせた。
次の龍を呼び出す余力がないのかニルヴァーレが舌打ちする。
「魔力はまだあるが――困ったな」
延命装置が暴走している。
もうずいぶんと前からニルヴァーレはそれを自覚していた。
それはそうだ、処置をした時と同じ状態を保つために溜め込んであった魔力を無理やり引き出して使ったのだから。
だが、ニルヴァーレはそんな危険を冒してでもヨルシャミを奪い返したかった。
だからこそ恐ろしい状況にも関わらずニルヴァーレは笑っている。
「まったくもって無様ではあるが……目標を成さんがために必死になっている僕は人間らしく美しいと思わないか、聖女!」
「人間にあるまじき行いは看過できないが、そうだ。今のお前だけを見るならば美しいと同意しよう」
静夏とニルヴァーレは真正面から拳を突き出す。
「……ニルヴァーレよ、お前は美しくある前に――たしかに人間だ」
「そうか」
人間として許されないことを繰り返し、人間とは思えないほど長い時を生きた者。
それを静夏は今も人間のままだと断じる。
ニルヴァーレは血の混じった碧眼を空気に晒し、そして歯を見せて笑った。
「僕は人間か!」
己の拳が弾かれ、静夏の拳が胸元へと突き刺さる。
その衝撃を感じながらニルヴァーレは天を向く視界に青空を捉えた。
その空は、千年前からちっとも変わらない空だった。
***
老いて弱って死んだ父を見たあの日、美しいままでいられる方法を探した。
それは程なくしてナレッジメカニクスという組織からもたらされ、代わりに人間であることを捨てることになった。――捨てたと思っていた。
人間ではないのだから非道なことにも手を染められ、興味のないものがどんどん増え、世界に好きなものがなくなっていき、仲間と呼べるほどのものも、家族と呼べるほどのものもなくなった。
思えば血縁という忌々しいもので家族を得ていられたのは、見方を変えれば貴重なことだったのかもしれない。
もうこの世に自分の血縁はほとんど残っていないのだから。
もし残っていれば、興味がなく価値のないものでも家族になれたというのに。
――ああ、あの頃からそんなものをここまで欲していたのか、僕は。
気づきたくなかったな、とニルヴァーレは自分自身に肩を竦めたくなった。
しかし、この日現れた聖女は自分を人間だという。
人間だと呼ぶ。人間として扱う。
人間であることを捨てるのが簡単なら、人間であることを拾うのも簡単なことだったのかもしれない。
静夏はニルヴァーレがそんなことを思えるほどあっさりと言ってのけた。
ニルヴァーレは地面に倒れ込む直前に、血に濡れて随分と不格好になったヨルシャミを見遣った。
その傍に立ち並ぶ伊織も、自分に最後の一撃を打ち込んだ静夏も、すべて美しいと思える。
美しいものは昔から好きだ。
しかしその頃考えていた美しさは狭い範囲の中でのこと。
様々なものを見て、様々なものを欲した後である「今」は違う。
この世を生きようとする者の、生きようとする姿までもが美しいのだ。
その答えに納得し――ニルヴァーレは受け身を取ることなく、そのまま自分の身が地に埋まることを許して目を閉じた。
ニルヴァーレの振る舞いを見た他人はよくその理由を予想した。
幼い頃に憧れたものが美しかったからだの、醜いものにトラウマがあるだの、それはもうエンターテインメントとして消費するように。
しかしニルヴァーレに言わせてみれば、好き勝手に挙げられたそれはすべて下世話で的外れな予想だった。
理由は覚えていないのではない。
きっと初めからそんな明確なものはないのだ。
ニルヴァーレは物心ついた頃から美しいものが好きであったし、それは幼くも様々な経験を積み重ね、己の中から引き上げた感性によるものだった。
僕は美しいものが好きだ!
そう自覚したことで自分自身も美しくあろうとし、そして美しくあれたことで自分が大好きになった。
前向きな思い込みだと言う者もいるかもしれないが、ニルヴァーレは今ではそれすら含めて自分が好きになっている。
反して美しくないものは興味の対象外だった。
例外は『自分という存在に連なるもの』だ。
ニルヴァーレの父親は家族を顧みない人間で、母親はそれを嫌ってニルヴァーレを置いて出て行ってしまった。子供まで置き去ったのは自由を渇望していたからかもしれない。
父、カルガッサスは一言で表すなら魔法の研究に人生をつぎ込んだ人間である。
顔はニルヴァーレから言わせれば鷲鼻気味の凡人以下。
長身であり痩せぎすで、いかにも不健康な見た目をしていたが伸ばしっぱなしだった髪の毛はニルヴァーレと同じ色合いをしていた。
瞳も半分は父の色を受け継いでおり、それが酷く嫌だったのをニルヴァーレは覚えている。目も髪も色そのものは美しい部類だ。しかし美しくない父に似たことが許せない。
美しくないものが存在しているのはいい。
目を逸らし気にもしなければいいのだから。
しかしそれが自分の父親、自分を構成しているものの半分を担っている人間であることがどうしても許せなかった。
だが感性はたゆたう波のようなもので、決してそれひとつのみではない。
特に、当時はまだ子供であり人格の完成しきっていなかったニルヴァーレはそれが顕著だった。
子供として親に認められたい。愛してほしい。
そんな想いも当時のニルヴァーレの中にはたしかにあったのだ。
そう幼いながら葛藤して生きていたニルヴァーレとヨルシャミが出会ったのは、ニルヴァーレが十歳の頃。
ヨルシャミは流行り病により両親や兄弟を失った孤児のエルフノワールで、彼の魔法の才能を見抜いたカルガッサスが引き取って弟子にした少年だった。
奇しくも彼はカルガッサスにとって理想的な才能を、そしてニルヴァーレにとって理想的な『すべて』を持っていた。
***
ばつり、と嵌めていた黒手袋が破けたのを見たニルヴァーレは、それを歯で噛んで引き抜くと無造作に水面へと捨てた。
戦闘に夢中になっているだけではない。
他人の目から見ても明らかなほど余裕がないのだ。
だというのにこの世のものならざる暴風でできた龍はワイバーンと死闘を繰り広げ続け、ニルヴァーレ本人も静夏と戦うのをやめない。
やめなければ行きつく先がどうなるのかわかっているのに、だ。
「ニルヴァーレ」
「皆まで言うな。わかっているよ、でもやめたくないんだ。ここで勝ってヨルシャミを奪取する、そんな目的を持って戦うことが楽しくてね」
静夏は目を細める。
静夏は千年も生きたことはないが、元々長命種ではない人間が長く生きた結果、日々が無味乾燥としたものに置き換わってしまうことがあるという話は聞いたことがあった。いくら体が耐えられても精神が膨大な時の流れに耐えられないのだ。
ニルヴァーレはどうだったのだろうか。
静夏はそうニルヴァーレの半生を思う。
元来の性格とヨルシャミを渇望する心を支えに生きてこられたかもしれないが、きっと景色が灰色に見えるほど様々なものに飽いたこともあっただろう。
いま戦っている彼は楽しそうだ。
美しく、そして新しいものに囲まれ、命のやり取りをすることが楽しくて堪らないという顔をしている。敵対していても伝わってくる強い感情だ。
その戦う理由が人間くさく、そしてそんな理由そのものがニルヴァーレが今まで支えにしてきたものだからこそ、余計に人間らしかった。
「――では最期まで付き合おう」
「そうこなくっちゃ。まあ最期を迎えるのはそっちかもしれないけどね!」
タンッと高く跳んだニルヴァーレは静夏の肩を掴んで起点にし、そのまま空中で体を捻ってあっという間に背後をとった。
広い背中の中央へ全体重をかけた肘を打ち込む。
しかし、しなやかな筋肉がそれを邪魔した。静夏は体を回転させながら、その勢いをそのまま攻撃に活かしてニルヴァーレの脇腹を蹴りつける。
その時、ワイバーンの咆哮がびりびりと水面を小刻みに揺らし、風の龍に勝利したことを知らせた。
次の龍を呼び出す余力がないのかニルヴァーレが舌打ちする。
「魔力はまだあるが――困ったな」
延命装置が暴走している。
もうずいぶんと前からニルヴァーレはそれを自覚していた。
それはそうだ、処置をした時と同じ状態を保つために溜め込んであった魔力を無理やり引き出して使ったのだから。
だが、ニルヴァーレはそんな危険を冒してでもヨルシャミを奪い返したかった。
だからこそ恐ろしい状況にも関わらずニルヴァーレは笑っている。
「まったくもって無様ではあるが……目標を成さんがために必死になっている僕は人間らしく美しいと思わないか、聖女!」
「人間にあるまじき行いは看過できないが、そうだ。今のお前だけを見るならば美しいと同意しよう」
静夏とニルヴァーレは真正面から拳を突き出す。
「……ニルヴァーレよ、お前は美しくある前に――たしかに人間だ」
「そうか」
人間として許されないことを繰り返し、人間とは思えないほど長い時を生きた者。
それを静夏は今も人間のままだと断じる。
ニルヴァーレは血の混じった碧眼を空気に晒し、そして歯を見せて笑った。
「僕は人間か!」
己の拳が弾かれ、静夏の拳が胸元へと突き刺さる。
その衝撃を感じながらニルヴァーレは天を向く視界に青空を捉えた。
その空は、千年前からちっとも変わらない空だった。
***
老いて弱って死んだ父を見たあの日、美しいままでいられる方法を探した。
それは程なくしてナレッジメカニクスという組織からもたらされ、代わりに人間であることを捨てることになった。――捨てたと思っていた。
人間ではないのだから非道なことにも手を染められ、興味のないものがどんどん増え、世界に好きなものがなくなっていき、仲間と呼べるほどのものも、家族と呼べるほどのものもなくなった。
思えば血縁という忌々しいもので家族を得ていられたのは、見方を変えれば貴重なことだったのかもしれない。
もうこの世に自分の血縁はほとんど残っていないのだから。
もし残っていれば、興味がなく価値のないものでも家族になれたというのに。
――ああ、あの頃からそんなものをここまで欲していたのか、僕は。
気づきたくなかったな、とニルヴァーレは自分自身に肩を竦めたくなった。
しかし、この日現れた聖女は自分を人間だという。
人間だと呼ぶ。人間として扱う。
人間であることを捨てるのが簡単なら、人間であることを拾うのも簡単なことだったのかもしれない。
静夏はニルヴァーレがそんなことを思えるほどあっさりと言ってのけた。
ニルヴァーレは地面に倒れ込む直前に、血に濡れて随分と不格好になったヨルシャミを見遣った。
その傍に立ち並ぶ伊織も、自分に最後の一撃を打ち込んだ静夏も、すべて美しいと思える。
美しいものは昔から好きだ。
しかしその頃考えていた美しさは狭い範囲の中でのこと。
様々なものを見て、様々なものを欲した後である「今」は違う。
この世を生きようとする者の、生きようとする姿までもが美しいのだ。
その答えに納得し――ニルヴァーレは受け身を取ることなく、そのまま自分の身が地に埋まることを許して目を閉じた。
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