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33 遠い日の記憶について話します
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「小鈴、逃げるなよ」
耳元に響く宵の艶やかな声。背中には少し硬い感触。逞しい腕に後ろから抱きしめられ、徐々に伝わってくるぬくもりに鈴花は声を失った。唇が震え、逃れようと体を捻ればさらに強く抱きしめられる。
「宵……やめて」
自分の声が震えていることに気づき、情けないと歯噛みする。空回りする頭でなんとか鳩尾に肘鉄を入れることを思いついたが、それを実行する前に温かさが離れた。
「……悪い。けど、逃げないでほしい。俺は、お前の気持ちが知りたいだけだ」
鼓膜を直接くすぐるほど、その声は近い。少し弱く、切ない色をしていた。そのせいか、鈴花の心も少し締め付けられる。
鈴花は眉をハの字にし、しばらく石畳みを見つめていたが、「わかったわ」と振り返った。宵の顔から怒りは消え、逆に泣きそうな顔になっている。
(なんで、そんな顔をするのよ)
鈴花が逃げようとしたから傷ついたのか。難解な恋心を紐解けるほど、鈴花は恋に慣れていないし、また余裕もなかった。
「わかったわ……逃げないから」
鈴花は卓子のそばにある石造りの椅子に腰かけ、宵に向かいへ座るよう促した。今は卓子を挟むくらいがちょうどいい距離だ。灯りは足元しか照らしていないため、互いの顔は完全には見えない。
「小鈴は皇帝が好きなのか?」
座るなり直球の質問を投げつけて来て、鈴花はしばらく沈黙した。この質問は陽泉、潤と飲茶をした時にも訊かれたものだ。もう一度考えても、鈴花は違う答えを導きだせない。
「……私は、恋人がいたことがないから、はっきりとは言えないわ。でも、陛下のことは尊敬しているし、支えて尽くしたいと思っているのよ」
「それは、国とか玄家の誇りとか抜きで?」
そう問われ、鈴花は再度自分に問いかける。もし、玄家でも、妃嬪でもなかったとしたら……。
「そうね。それでも、陛下を皇帝として支えたいと思ったでしょうね」
「なんで? そんな数回会ったぐらいで、そこまで思えるのか?」
宵だって一目惚れというものがあることは知っているし、中には数回会っただけで結婚する例もなくはない。だが、鈴花の態度は恋する乙女とはまた違い、そこが腑に落ちないのだ。
鈴花はその疑問に対して、困ったように眉間に皺を寄せる。どう答えるのか悩んでいると、向かいから苛立った雰囲気を感じた。顔が見えない分、仕草や空気に敏感になる。
(話すしか、ないわね……)
作り上げた嘘の理由を述べたところで、宵が納得しないのは目に見えている。それならと、鈴花は遠い記憶の蓋を開けた。視線を池へと飛ばし、淡々と話し出す。
「昔……子どもの時に陛下に会ったことがあるの」
「子どもの時って……何歳だよ」
「……確か、九歳の時ね。玄家は避暑にいい保有地があって、そこに行ったの。桜が満開の時で、側院の枝垂桜が見事だった」
その枝垂桜が鈴花は好きで、木の下で寝転び空を見上げるのがお気に入りだった。
「その頃、お父様は私に色々な習い事をさせていて、嫌になっていたころだったのよ。それで、抜け出してそこに行っては綺麗な桜を眺めてたの。たまに愚痴や泣き言を聞いてもらってね」
父の教育や訓練は九歳の子どもには過酷で、鈴花はよく桜の木の下で泣いていた。嫌なことを吐き出したくて、桜の木に話しかけていたのだ。
宵は静かに鈴花の話に耳を傾けている。瞳を閉じ、声だけで鈴花の心を感じ取ろうとするように。
「そうしたら、ある日声が返って来たのよ。まぁ、最初は桜の精かと思ったんだけどね」
鈴花は懐かしむように目を細め、口元は弧を描く。桜は壁の側に立っていて、その向こうからかけられた声を勘違いしたのだ。その時のことを想いだしたのかくすりと笑うと、柔らかな声で続けた。
「すぐに違うって気づいたんだけど、その人は桜の精になってくれて……私の話を聞いてくれたの。その時、その男の子は自分のことも話してくれたわ。桜の国の公子だって言ってたけど」
鈴花は最初は桜の精だと思い込んだが、すぐに母親がこの保有地に公子の一人が療養に来ていると言っていたことを思い出したのだ。無礼を詫びようとしても、彼は桜の精だから気にしなくていいと優しい嘘をついてくれた。
そして自分は公子の中でも末で、他の公子の役に立てるように人間界へ修行に来ていると言ったのだ。今思えば、身代わりになるための訓練を受けていたのだろう。彼は恵まれない境遇を嘆くことはせず、国の良いところをしきりに挙げていた。そんな国を守りたいのだと。
「その話を聞くうちに、この人が皇帝になればいいのにって思ったの。優しくて、思いやりがあって、国を真に思っていることが分かったから」
「そう……」
彼と会えるのが楽しみで、夜になれば房室を抜け出して桜の木の下で声の主に話しかけていた。彼はいない時もあったが、毎日夜桜を見ながら待っていたのだ。
「話したのは一週間くらいだったかしらね……もう桜が散りかけの頃、彼は国に帰るって言ったわ。それで、最後に名前を聞いた……ショウゲツって。さよならって言われて、寂しくなったから桜の木に登ったの。壁の向こうに姿が見えるかもしれないと思って」
「桜の木に登るって、おてんばだったんだな」
宵は驚き、ついで喉の奥で笑った。卓子に頬杖をつくと、やわらかい視線を鈴花に向ける。
「こう見えて運動神経はいいのよ。……それで、ほんの少しだけ見えたの。その少年の後ろ姿が」
桜の枝が風にしなり、花びらは桜吹雪となって舞い上がる。その隙間から、栗色の髪をした少年の後ろ姿が見えたのだ。その絵になりそうな風景は今でも鮮明に覚えていて、鈴花の心に強い尊敬と憧れを刻み込んだ。
「まるで仙界のような幻想的な風景だったの。……その少年が、第五公子の鳳翔月様だと気づいたのはもう少し後になってからなんだけどね」
「……なるほどな。だから、あの皇帝にこだわるんだ。初恋ってやつか」
そういうことかと、宵は顎に手をやって口端を上げた。その表情は鈴花には見えなかったが、何かを企んでいるようで瞳は挑戦的だ。
「初恋……そうなのかしらね」
今まで考えたことがなかったが、そう言われればその言葉がしっくりくるような気もする。後ろ姿と声だけの少年に憧れを抱き、将来彼の、彼が支えたいと言った国のためにと思って努力をしてきた。
「……だから、あなたの気持ちには応えられないわ」
鈴花は指を組み、宵へと視線を向けて静かにそう答えを出した。
「まぁ、今はそれでいいさ。俺は諦めるつもりはねぇけど」
断ったのにその声はなぜか楽しそうで、鈴花は「え」と声をもらして口を三角にする。
「皇帝はいまここにいないわけだし、小鈴も俺のこと嫌いじゃないだろ? 俺、落とすのが難しそうなほど燃えるから」
薄闇に紛れている宵は不敵な笑みを浮かべている気がして、鈴花は椅子から腰を浮かす。
(これは……完膚なきまでに叩き折らないといけなかったかもしれないわ)
望みを持たせてしまったかと後悔するがすでに遅い。鈴花が立ち上がるよりも先に宵が席を立ち、鈴花の隣をすり抜ける。警戒する鈴花を小ばかにするように、宵は後ろ手を振り声をかけた。
「他にも訊きたいことはあるけど、今日はここまでだな。おやすみ、小鈴」
やさしく甘い声は杏子の甘露煮のようで、鈴花の心臓を鳴らす。
(声が似てるからって、騙されないで私!)
鈴花は射抜くような視線を宵の背中に放つが、宵は欠片も感じていないようで軽い足取りで過走廊へと歩いて行った。足元を照らす灯篭が彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせている。
その栗色の髪をした後ろ姿は、嫌でも幼き日の皇帝を思い起こさせて……。
(似ている男なんて、連れて来るんじゃなかったわ)
ざわつく胸の奥に蓋をして、鈴花は自室に戻るために亭を後にしたのだった。
耳元に響く宵の艶やかな声。背中には少し硬い感触。逞しい腕に後ろから抱きしめられ、徐々に伝わってくるぬくもりに鈴花は声を失った。唇が震え、逃れようと体を捻ればさらに強く抱きしめられる。
「宵……やめて」
自分の声が震えていることに気づき、情けないと歯噛みする。空回りする頭でなんとか鳩尾に肘鉄を入れることを思いついたが、それを実行する前に温かさが離れた。
「……悪い。けど、逃げないでほしい。俺は、お前の気持ちが知りたいだけだ」
鼓膜を直接くすぐるほど、その声は近い。少し弱く、切ない色をしていた。そのせいか、鈴花の心も少し締め付けられる。
鈴花は眉をハの字にし、しばらく石畳みを見つめていたが、「わかったわ」と振り返った。宵の顔から怒りは消え、逆に泣きそうな顔になっている。
(なんで、そんな顔をするのよ)
鈴花が逃げようとしたから傷ついたのか。難解な恋心を紐解けるほど、鈴花は恋に慣れていないし、また余裕もなかった。
「わかったわ……逃げないから」
鈴花は卓子のそばにある石造りの椅子に腰かけ、宵に向かいへ座るよう促した。今は卓子を挟むくらいがちょうどいい距離だ。灯りは足元しか照らしていないため、互いの顔は完全には見えない。
「小鈴は皇帝が好きなのか?」
座るなり直球の質問を投げつけて来て、鈴花はしばらく沈黙した。この質問は陽泉、潤と飲茶をした時にも訊かれたものだ。もう一度考えても、鈴花は違う答えを導きだせない。
「……私は、恋人がいたことがないから、はっきりとは言えないわ。でも、陛下のことは尊敬しているし、支えて尽くしたいと思っているのよ」
「それは、国とか玄家の誇りとか抜きで?」
そう問われ、鈴花は再度自分に問いかける。もし、玄家でも、妃嬪でもなかったとしたら……。
「そうね。それでも、陛下を皇帝として支えたいと思ったでしょうね」
「なんで? そんな数回会ったぐらいで、そこまで思えるのか?」
宵だって一目惚れというものがあることは知っているし、中には数回会っただけで結婚する例もなくはない。だが、鈴花の態度は恋する乙女とはまた違い、そこが腑に落ちないのだ。
鈴花はその疑問に対して、困ったように眉間に皺を寄せる。どう答えるのか悩んでいると、向かいから苛立った雰囲気を感じた。顔が見えない分、仕草や空気に敏感になる。
(話すしか、ないわね……)
作り上げた嘘の理由を述べたところで、宵が納得しないのは目に見えている。それならと、鈴花は遠い記憶の蓋を開けた。視線を池へと飛ばし、淡々と話し出す。
「昔……子どもの時に陛下に会ったことがあるの」
「子どもの時って……何歳だよ」
「……確か、九歳の時ね。玄家は避暑にいい保有地があって、そこに行ったの。桜が満開の時で、側院の枝垂桜が見事だった」
その枝垂桜が鈴花は好きで、木の下で寝転び空を見上げるのがお気に入りだった。
「その頃、お父様は私に色々な習い事をさせていて、嫌になっていたころだったのよ。それで、抜け出してそこに行っては綺麗な桜を眺めてたの。たまに愚痴や泣き言を聞いてもらってね」
父の教育や訓練は九歳の子どもには過酷で、鈴花はよく桜の木の下で泣いていた。嫌なことを吐き出したくて、桜の木に話しかけていたのだ。
宵は静かに鈴花の話に耳を傾けている。瞳を閉じ、声だけで鈴花の心を感じ取ろうとするように。
「そうしたら、ある日声が返って来たのよ。まぁ、最初は桜の精かと思ったんだけどね」
鈴花は懐かしむように目を細め、口元は弧を描く。桜は壁の側に立っていて、その向こうからかけられた声を勘違いしたのだ。その時のことを想いだしたのかくすりと笑うと、柔らかな声で続けた。
「すぐに違うって気づいたんだけど、その人は桜の精になってくれて……私の話を聞いてくれたの。その時、その男の子は自分のことも話してくれたわ。桜の国の公子だって言ってたけど」
鈴花は最初は桜の精だと思い込んだが、すぐに母親がこの保有地に公子の一人が療養に来ていると言っていたことを思い出したのだ。無礼を詫びようとしても、彼は桜の精だから気にしなくていいと優しい嘘をついてくれた。
そして自分は公子の中でも末で、他の公子の役に立てるように人間界へ修行に来ていると言ったのだ。今思えば、身代わりになるための訓練を受けていたのだろう。彼は恵まれない境遇を嘆くことはせず、国の良いところをしきりに挙げていた。そんな国を守りたいのだと。
「その話を聞くうちに、この人が皇帝になればいいのにって思ったの。優しくて、思いやりがあって、国を真に思っていることが分かったから」
「そう……」
彼と会えるのが楽しみで、夜になれば房室を抜け出して桜の木の下で声の主に話しかけていた。彼はいない時もあったが、毎日夜桜を見ながら待っていたのだ。
「話したのは一週間くらいだったかしらね……もう桜が散りかけの頃、彼は国に帰るって言ったわ。それで、最後に名前を聞いた……ショウゲツって。さよならって言われて、寂しくなったから桜の木に登ったの。壁の向こうに姿が見えるかもしれないと思って」
「桜の木に登るって、おてんばだったんだな」
宵は驚き、ついで喉の奥で笑った。卓子に頬杖をつくと、やわらかい視線を鈴花に向ける。
「こう見えて運動神経はいいのよ。……それで、ほんの少しだけ見えたの。その少年の後ろ姿が」
桜の枝が風にしなり、花びらは桜吹雪となって舞い上がる。その隙間から、栗色の髪をした少年の後ろ姿が見えたのだ。その絵になりそうな風景は今でも鮮明に覚えていて、鈴花の心に強い尊敬と憧れを刻み込んだ。
「まるで仙界のような幻想的な風景だったの。……その少年が、第五公子の鳳翔月様だと気づいたのはもう少し後になってからなんだけどね」
「……なるほどな。だから、あの皇帝にこだわるんだ。初恋ってやつか」
そういうことかと、宵は顎に手をやって口端を上げた。その表情は鈴花には見えなかったが、何かを企んでいるようで瞳は挑戦的だ。
「初恋……そうなのかしらね」
今まで考えたことがなかったが、そう言われればその言葉がしっくりくるような気もする。後ろ姿と声だけの少年に憧れを抱き、将来彼の、彼が支えたいと言った国のためにと思って努力をしてきた。
「……だから、あなたの気持ちには応えられないわ」
鈴花は指を組み、宵へと視線を向けて静かにそう答えを出した。
「まぁ、今はそれでいいさ。俺は諦めるつもりはねぇけど」
断ったのにその声はなぜか楽しそうで、鈴花は「え」と声をもらして口を三角にする。
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薄闇に紛れている宵は不敵な笑みを浮かべている気がして、鈴花は椅子から腰を浮かす。
(これは……完膚なきまでに叩き折らないといけなかったかもしれないわ)
望みを持たせてしまったかと後悔するがすでに遅い。鈴花が立ち上がるよりも先に宵が席を立ち、鈴花の隣をすり抜ける。警戒する鈴花を小ばかにするように、宵は後ろ手を振り声をかけた。
「他にも訊きたいことはあるけど、今日はここまでだな。おやすみ、小鈴」
やさしく甘い声は杏子の甘露煮のようで、鈴花の心臓を鳴らす。
(声が似てるからって、騙されないで私!)
鈴花は射抜くような視線を宵の背中に放つが、宵は欠片も感じていないようで軽い足取りで過走廊へと歩いて行った。足元を照らす灯篭が彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせている。
その栗色の髪をした後ろ姿は、嫌でも幼き日の皇帝を思い起こさせて……。
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