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領地編
15 この世界で生きましょう
しおりを挟む王立ミスティア学園入学まであと二か月に差し迫った時、祖父であるディバルトの容体が悪化した。この世界の男性平均寿命は60前後であり、69歳の祖父は体を鍛えていたこともあって長寿のほうだ。
かかりつけの医師は、小康状態だが油断はできないと言い残して帰った。屋敷にはどこか沈鬱とした雰囲気が漂っている。
エリーナは先ほどからお気に入りのロマンス小説を読んでいたが、その手が次のページをめくることはなく、祖父のことが頭から離れない。この世界で生きて、すでに8年が経った。唯一の肉親である祖父はかけがえのない存在だ。
どれぐらい物思いに耽っていたのかはわからない。
「お嬢様」
そうサリーに呼ばれ、はっと意識を現実に戻す。
「ディバルト様がお呼びです」
その固い声に、いよいよその時が近いのだと察する。乙女ゲームの中で人が死ぬことは多くない。それこそ、悪役令嬢の断罪ぐらいだ。ヒロインが時たま天涯孤独の場合があるが、それは情報のみ。
つまり、エリーナにとって自分の死は何度も経験していても、大切な人を見送ることは初めてなのだ。震える手を、すくむ足を叱咤し祖父の下へ向かう。
祖父の寝室の前にはエルディが立っており、中にクリスがいると伝えられる。彼は毅然とそこに立っていた。いつもと変わらぬその表情と振る舞いが、閉塞した思いを少し和らげてくれる。
ドアが開き、ドレスをつまんで挨拶をする。
「エリー、こっちにおいで」
ベッドの隣りに立つクリスが、小さく手招きをした。
部屋には夕方の柔らかいオレンジ色の光が差し込んでいる。窓辺には毎日美しくみずみずしい花が花瓶にいけられていた。
ベッドに横たわる祖父は、エリーナの姿が目に入ると破顔した。その笑顔に胸が締め付けられる。少し筋肉が落ち、痩せた祖父。
「エリー、クリス。近くへおいで」
二人はベッド際にある椅子に腰かけ、祖父の顔の傍による。不安げに瞳を揺らす二人を見て、小さく笑った。
「そんな顔をするな。十分生きた。可愛い孫が二人もおるしな」
一片の曇りも、未練もないような笑い方だ。そしてその笑顔を引っ込め、厳めしい表情をエリーナに向けた。
「エリーナ。お前はもう15歳になった。来年からは学園に入る。卒業すれば、もう大人だ」
「はい。学問に励み、クリスの力になれるよう頑張りますわ」
祖父は目元に皺をつくり、満足そうに頷いた。
「エリーナ。そのクリスについて、お前に話しておかなければならないことがある」
クリスの名が上がり、エリーナは不思議そうに隣の義兄を一瞥する。
「知っての通り、クリスはローゼンディアナ家に養子に入り、今後当主代行として領地経営を取り仕切ってもらう。だが、それも期限のあることだ」
「期限……?」
「クリスはお前が18になるまでは、当主代行としてお前の後見人となる。今後学園で色々な出会いがあるだろう。一生をともに歩める人を探し、その人の下に嫁いでもよい。ローゼンディアナ家に招きいれてもよい。選ぶのは、お前の自由だ。クリスはそれを支持する契約だ」
「選ぶ……」
その言葉も行為もエリーナには馴染みのないものだった。オートモードの悪役令嬢に選択権はなく、決められたシナリオの通りに動くだけである。
(私の選択で、変わるの?)
それはつまり、今後のエリーナの選択次第で、クリスの人生も変わるということだ。エリーがどこかへ嫁ぐならクリスはローゼンディアナ家を継ぎ、エリーナが誰かを婿養子として招くなら……。選択の重さに手が震えた。
(でも、たぶんこれが理由になるのよね)
それと同時に、これが今回の悪役令嬢を演じる理由かと冷静なエリーが判断する。18までに結婚相手を見つけるという目的のため、今後障害となるヒロインを排除しようとするのだろう。悪役令嬢にだってそのように振舞う理由がある。こんな状況でもゲームの悪役令嬢として打算的に考えてしまう自分が少し嫌になった。余計な考えを振り払い、クリスに顔を向ける。
「クリスはどうするの?」
気遣わし気な視線を向けられたクリスは、曖昧に笑って肩をすくめた。
「こう見えても僕は色々投資して、資産はあるんだ。だから、商人になってもいいし、実家の事業を手伝ってもいい。気が向いたら、母方の国で事業を行ってもいい。だから心配しないで」
「でも、クリスはどうしたいの?」
そう重ねて問うと、クリスは一瞬虚を突かれた顔をしてから、嬉しそうにほほ笑みエリーナの頭を撫でた。
「エリーは優しいね。僕はローゼンディアナ家に入ったことで、実家にいたら手に入らない人脈も資産も得た。僕はそれで十分なんだよ。だから、エリーを傍で守らせてくれないか? それが、ディバルト様への御恩を返すことになる」
だから気にしないでとクリスはエリーナの頭を撫でた。それでも、エリーナの胸には重いものが圧し掛かったまま、気がかりが増える。
「クリス……エリーを頼む」
「はい。この命に代えても」
「エリー……何があっても、自分を信じなさい。したいようにすればいい」
「はい、おじい様」
二人を見つめる祖父は満ち足りた顔をしていた。
それから一週間後。暖かな春を感じさせる日に、祖父は天へと旅立った。葬儀はクリスが代表として執り行い、たくさんの人が弔問に訪れた。親しい人たちは涙を流しながらも、祖父の昔話を語り合った。内乱で戦果をあげ、先々代の王に重宝され、先王の親衛隊も務めた。そんな祖父の人柄が分かる、温かな式。
祖父は代々のローゼンディアナ家の一族が眠る墓地に眠っている。真新しい墓石に彫られた祖父の名前をぼんやりと眺め、胸の痛みに涙を流す。エリーナの両隣に、ラウルとクリスが気遣って立っていた。ラウルは祖父の訃報を受けるなり駆けつけ、表に出ることはできないからと葬儀の手配に追われるクリスに代わり、傍にいてくれた。
(おじい様……私は、生きますわ)
今まで何人もの悪役令嬢を演じてきた。だが、それは所詮ただの役で、仮初にすぎなかった。これほど人の愛情を感じ、温かさに触れたことはない。エリーナとして考え、心が動く。いつしかエリーナを演じることはなくなり、エリーナとして生きていた。
(私は、エリーナ・ローゼンディアナ。たとえ最後は断罪されようとも、誇り高く生き抜きますわ)
新たな誓いを胸に秘め、エリーナは涙をぬぐう。いつまでも泣いてはいられない。ニヵ月後には、悪役令嬢として舞台に立たなければならないのだから。
春を告げる暖かな風が、エリーナのプラチナブロンドの髪をなびかせた。
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