暁の草原

Lesewolf

文字の大きさ
上 下
26 / 193
第二環「目覚めの紫雲英は手に取るな」

②-5 モルフォの羽化①

しおりを挟む
 食堂に人の姿はなく、椅子はテーブルに上げられたまま薄暗い空間を孤独にしていた。すると食堂に光が差し込み、食器のぶつかる音が響いた。見覚えのある女性が、屈みながらテンポよく室内を掃除している。


(あの人、食堂の女将さんだ)



「おい、ミランダ」
「はい」

 呼びかけられた女性は、箒を動かす手を止めず、声の主も見ずに返事だけを返した。声の主は男であり、咄嗟に殴打の痛みが少年を襲った。

「悪い、朝食のメニューを変更したいんだが」
「もう、そういう話はもっと早く言ってよ」

 少年は痛みに耐えると、慌てて体制を低くして身構えた。女性へ呼びかける声の主の男性が食堂へ入ってきたのだ。女性はそれでも掃除の手を休めることなく、箒で軽やかに掃き掃除を続けていた。

「悪い。材料は変わらない、というか変えないから」
「はいはい。掃除が終わったらすぐに行きますよ」
「悪いな」

 短い会話を終えると、声の主である男が振り返ったため、少年はのぞき込もうとした体を再度隠した。男の素性を見ることはかなわなかったが、声には聞き覚えがある気がしたのだ。

「……ねぇ」
「どうした?」

 ミランダと呼ばれた女将は掃除を終えたのか、椅子をテーブルから降ろし始めた。恐る恐る少年が見たときには、男の方も椅子降ろしを手伝っていた所だった。

「明日には発つって聞いてるけれど」
「ああ」
「てっきり、あの子が起きるのを待っているんだと思ってたから」

 少年は息を飲み硬直してしまった。もしかしなくても、会話のあの子とは自身のことだろう。腕の傷が痛んだのち、胸の痛みが遅い、胸倉を撫でた。

「昨晩、主に手紙を出すって言ってたから、もう合流日が迫っているんだろう。返答は判るから、不要だって書いてたみたいだぞ」
「そう。……そうね、元の予定からは三日過ぎてるわけだし。合流して、ここまで戻ってくるつもりなのかしら」
「それは難しいだろうな。この町は国境から一番近いんだ。あいつがこの町に来たのだって、本来なら絶対にありえない話なんだ」

 少年は会話の半分も理解できないが、額の圧迫感と胸の痛みを感じていた。男の顔を見ようとするものの、男は背を向けたままだ。

「ところで、変更するっていうメニューはなに?」
「ああ、それはな」



 男は少年に背を向けたまま、愛する妻を見つめ、両腰に手を当てて大きな声を出した。

「まずはシナモン効かせて粉砂糖をかけた、ブロートヒェン」

「贅沢に中にクルミを練り込んで……、そうだな。蜂蜜を添えてやろう」

「それから」

「子牛肉をブロックにして、長時間かけて柔らかく煮込んで、人参、トマト、豆を加えてさらに煮込んだグラーシュ」

「手間が増すが、お手製クロースを添えてやろう。俺の作るじゃがいも団子は絶品だぞ。素材の味を生かす素朴な味だ。一人二個つけよう」

「後は」

「うん、ザワークラウト。これは欠かせないな。ヴルストも二本つけよう。マチャンゲルベーレンを忘れるな」

「最後にプファンクーヘン。お前が作ってたラズベリージャムがあるだろう。あれをたっぷり中に入れてやれ。それを俺が油で揚げてやろう。おい、間違ってもマスタードは入れるなよ。俺がジャムドーナツにされる。そんでもって、俺はジャムドーナツですって誤訳したことにされるだろう。まあ知らないだろうけどな」

「ちなみに、だ」



「今言ったメニューは、病み上がりの坊主にだけの特別メニューだ。常人の病み上がりには食わせられないが、坊主には食えるだろう。そうだな、パプリカの肉詰めを、今日だけ特別サービスだ。苦々しいピーマンで出してやろう。それから、アイントプフ。ごった煮だ。」

 大旦那による怒涛の演説が展開されてゆき、徐々に女将ミランダの瞳が潤んでいった。大旦那は少年を見ることなく、下をうつむいたまま、ミランダの肩を抱くとそのまま一言だけ付け足した。

「顔洗って、壁に掛けてある服に着替えてこい。腹、減っただろ」

 女将であるミランダと少年は視線が重なるが、女将ミランダは溢れ出た涙を拭うと、そのまま厨房へ向かった大旦那を追った。

 少年はすぐに踊り場を後にすると部屋へ戻り、いそいそと用意された服に袖を通したのだった。


 外はもうずいぶんと明るく、その喧騒が嫌でも耳に入る。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

(完結)私より妹を優先する夫

青空一夏
恋愛
私はキャロル・トゥー。トゥー伯爵との間に3歳の娘がいる。私達は愛し合っていたし、子煩悩の夫とはずっと幸せが続く、そう思っていた。 ところが、夫の妹が離婚して同じく3歳の息子を連れて出戻ってきてから夫は変わってしまった。 ショートショートですが、途中タグの追加や変更がある場合があります。

父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる

兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。

処理中です...