【完結】暁の荒野

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第九輪「蒼の目覚め、金の零れ」

⑨-11 そして目覚めは白銀を零し①

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 シュタインアムラインのフレスコ画を見つめ、ティニアは立ち尽くしていた。その様子に気付いたアルベルトは足を止め、その様子を注視した。

「…………」

 フレスコ画に見入るティニアは観光客のようであるが、感動しているような表情ではない。

「おい。雨が降るかもしれないから、早めに帰ろう」

 躊躇からその名を呼ぶことが出来ず、アルベルトは視線を逸らすことだけで手いっぱいだった。しかし、ティニアの返答はなく、虚ろいだ瞳はそのフレスコ画を見つめたままだ。

「そのフレスコ画が、気に入ったのか?」
「いいえ」

 声は落ち着いており、何の感情も感じられない。

「他のフレスコ画も、見ていくか?」
「お時間が、許されるのでしたら」
「…………」

 ティニアの瞳はフレスコ画から、アルベルトへ向けられる。青く、そして空虚な瞳は彼女らしさを失っている。

 アルベルトが手を差し出すと、ティニアは素直にその手を受け取った。驚いたのはアルベルトであり、ティニアではない。

 無言のまま手を繋ぎ、駅から旧市街、ライン川を渡る。家からはどんどん離れていくが、ティニアの虚ろいだ瞳は戻らず、手を振り払う仕草もない。

 ふと、ティニアが足を止める。アルベルトも併せて立ち止まると、ティニアはゆっくりと視線を上げた。そこには、古くからある修道院がある。

「聖ゲオルク修道院……」

 ゲオルクという言葉に違和感を感じ、しかしその正体がわからぬアルベルトは、その質問に普通の回答をしようと言葉を選んだ。

「ん。どうした、お祈りしていくか?」
「いいえ」

 ティニアは目を閉じ、ゆっくりとした動作で首を横に振るとその目をゆっくりと開き、瞬きした。しかし、その眼は虚ろのままである。
 アルベルトは繋いだ手を自身の胸へ運ぶと、ティニアの手の甲にキスをした。一瞬身震いをしたティニアだったが、その瞳が戻ることはない。

「私にその様な事をされますと、周囲の眼が貴方に厳しくなります」
「構う事はない。もう、周知の事実だろ」
「そうでしょうか」

 ティニアは繋がれたままの手を見つめ、その眼を合わせることはなく、嫌がる様子もお道化る様子もない。

 アルベルトはつないだ手を引くと、そっとティニアを抱き寄せた。彼女の金髪に触れ、ゆっくりと撫でていく。

「どうしたんだよ。しっかりしてくれ」
「…………私は正常です。
「俺はアルベルト。アルブレヒト様じゃない」

 アルベルトは言葉に詰まりそうになりながら、なんとか返答を返した。だが、焦りからもその言葉を否定してしまう。

 可笑しな言動を否定しないようにと、そうレオン医師から言われていた、否定せずに肯定する事と真逆の事を言ってしまったのだ。

「ティニア、違うんだ。あ、いや。違うっていうのは……」
「以前」

 ティニアは特に何の反応も示さず、言葉を発した。慌ててティニアを引き離し、その眼をじっと見つめる。ティニアもアルベルトをその眼で見つめ返した。

「以前、アルブレヒトという方と知り合いだったような記憶があります」
「……ブランデンブルクの?」

 声が震える。そして、ティニアに触れる手が、ガタガタと音を立てるかのようだ。不思議と周囲の音が無音になりながら、それでいてザワザワとした音で頭が割れそうになる。


「いいえ」

 ティニアの返答は想定したものではなかった。しかし。

「ブランデンブルクは、ヤクサに奪われました。私の不手際です」
「は? ヤクサ……?」
「留守を言い使っていたのに。簡単に奪われてしまった。でも、どうしてなのかが思い出せないのです。私の責任なのに」

 ティニアは涙で頬を濡らす。そして真っ直ぐとアルベルトを見つめ、その言葉を口にする。

「アルブレヒト様、私、可笑しいのです。記憶が曖昧で、それでいて今が何であるのかわからないのです。教えてください、私はどうしたというのでしょうか。壊れてしまったのでしょうか」

 眼の前の女性の震える声。震える口元。溢れ出る涙。

 目の前の女性の言動がちぐはぐでなければ、アルベルトは構わずに口づけを交わしていたであろう。彼女が嫌がり、振りほどこうとも、彼女を離すことなど無く。

「お前は、壊れてなんかない」
「でも、わからないのです。ここは、何処ですか。うっ……頭が……!!」

 ティニアは瞳から大粒の涙を零すと、頭を抱えたまま動かなくなった。震えが収まり、力なく項垂れる。慌てて体を支えるアルベルトは、その名を呼びかける。

「ティニア……!」


「しっかりしろ、ティニア……」


 それでも、彼女の真の名を、その口から聞くまでは、その名を呼ばないと決めている。

 アルベルトの瞳からは涙が零れ、彼女の頬を濡らす。


「おい、目を開けろ……! 開けてくれ!」



 アルベルトはティニアを抱きかかえると、診療所へと向かった。

 動き出した白銀の歯車は崩れ落ち、遠き日の記憶という歯車を零し、そのまま忘れていく。忘れ物は回収されることはなく、ただ空虚へと消えていく。
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