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第九輪「蒼の目覚め、金の零れ」
⑨-3 余波は日常を超える③
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エーニンガー通り。それは何度も往来した通りだ。レンガや石畳の目立つ、古き良き通りであり、観光地である旧市街地からは多少離れており、静かな景色が広がる。
マリアとアルベルトが初めて対面したのも、エーニンガー通りだった。
ここを真っ直ぐ進めば、住み慣れた家がある。それをどこか余所余所しく向かうのは、初めて訪問するティナではなくティニアであった。
ティナは早く歩けないのかゆっくりした足取りであり、そんな彼女の歩調にアルベルトとティニアの二人は歩調を合わせていた。普段よりゆっくりとした足取りだが、一行は無言であった。ティニアはあちこちを見つめては目が泳ぎ、落ち着きがない。そんなティニアに、ティナは静かな無言を砕こうと声をかけた。
「あの、ティニアさん」
「何でしょ?」
ティニアの気の抜けた返事は、興味がないのか、はたまた集中していないのか。それは本人にしかわからない。それでも敬語にならぬようにと、彼女なりに気を張っていた。
「私が入院中、言葉も話せなかった時から、何度も薬の調合や食事の手配をしてくださったと聞いています。改めて、お礼を云わせてください」
「お礼って。病院に勤めた以上はやることだし、そんな改まらなくても大丈夫、だよ。お礼はレオン先生に言ったらどうかな」
ティニアはアルベルトの絡めている腕を振りほどきながら、その掛けられた上着から顔を出した。前髪が捲れ、おでこがむき出しになった。本人以外は気にしてはいなかったが、ティニアはおでこの前髪を急いで伸ばしだした。
「それでも、大変感謝をしております。記憶がなく、申し訳ない程です」
「……記憶ないのは、困ったね」
前髪を直しつつ、ティニアは思いつめるように俯くと黙り込んでしまった。再びの沈黙に、アルベルトはティナは自然と視線を合わせた。ある思いが頭に過ぎり、アルベルトはその名を呼びかける。
「あの、ティナさん」
「はい」
アルベルトがティナへ呼びかけると、ティニアはアルベルトを拒否するように絡まれた腕を突き放した。
「ティナさんと、話があるんでしょ。僕は先に行くよ」
「あ、おい。待てよ」
すたすたと歩むティニアは振り返り、その足元を指さす。
「ティナさん、早く歩けないんだから、君が待ってあげて、エスコートすべきでしょ。そういうの得意なんじゃないの? 僕はすぐにでも着替えた方がいいから先に帰るよ。それに、僕は普通に歩ける」
ティニアはかつて怪我をしていた足をプラプラさせると、その血まみれのスカートが表へ現れた。慌ててスカートをケープとアルベルトの上着で隠しながら、速足となった。まるで、二人の話を聞きたくないかのようだ。
「……あの、何でしょう?」
追いかけた手を下ろし、改めてティナへ向かうアルベルトはその手を胸へ当てた。
「ほとんど初対面かと思いましたが、どこかで御会いしませんでしたか。その、凄く昔とか」
アルベルトはティニアへかけた言葉も忘れ、敬語を、かつて紳士的に振舞っていた頃の口調で語りかけた。
ティナは一瞬だけ思案すると、首を傾げながら答えた。
「……いえ。初めての筈ですよ」
アルベルトも頷きながら、しかし納得できない様子でいた。男は何気なく、過去への問いを彼女へと持ち掛ける。
「それじゃ、ポツダムに居たことはありませんか」
「ポツダム? ドイツの?」
「はい」
ティナは驚きとともに俯き、一瞬だけ表情を曇らせるとアルベルトを見上げた。二人の身長差もかなりひらいている為、その距離の近さからアルベルトは前屈みになった。
「私、ドイツへは行ったことがありません」
「そうですか、良かった」
「良かった? それはどういう……」
恐る恐る尋ねたティナに、アルベルトは笑みを零す。ホッとしたかのような、安堵したような笑みに、ティナも緊張が解けたのか表情が和らいだ。
「いえ。貴女でなくて良かったと」
「何方かをお探しなのですか?」
「え、ええ。そうです、ね。会えたらいいなってくらいで」
「……そうですか」
ティナは一瞬立ち止まると、先を指さした。エーニンガー通りには二人だけであり、ティニアの姿もない。
「歩くのが遅くてごめんなさい。ここを真っ直ぐでしたよね。先にティニアさんの所へ行ってあげて下さい」
「いや、いいんですよ。もう」
「申し訳ありません。……その、どんな方でしたか? その、探し人は」
ティナの心遣いは話を変える事であった。しかしゆっくりとした歩幅に合わせるように、アルベルトはティナの歩調を合わせ、その歩幅のようにゆっくりとした口調で、遠き日を語った。
◇◇◇
「1936年、俺は歩兵学校へ入るために移住したんです。で、クリスマスに適当にバーへ行って、そこで……」
アルベルトは上空を見つめた。まだ周囲は薄暗くもなく、明るい。
「ティニアによく似た奴と、会いました。まあ男だったんですけど」
「それは、ティニアさんだったのでは」
アルベルトは視線を横へ外すと、気恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「いえ。本人は違うと言ってました。顔は全然違うので、そうなんでしょうね。でも何だろう。雰囲気が似ていて」
「何故、私にその問いを……。私が、……ティニアさんに似ているから?」
その問いに、アルベルトは笑みを浮かべる。
「まさか。似てませんよ。二人はなんていうか、対称的でしょう? ティニアは、周囲が言うような気遣いの出来る奴だとは思ってません。貴女の方が、気遣いをされる。ただなんていうか。ちょっと聞いてみただけです」
「性格が対照的という事でしょうか? その、容姿が、ティニアさんに似ているとか……」
「言われませんでした? ゲオルクとかに。数年前なんてもんじゃない、随分と昔に会った事があるような気がしているのです」
「…………ゲオルク?」
立ち止まり指摘するティナに、アルベルトは本意に気付くことなく指摘する。
「診療所の、ゲオルクですよ」
「…………レオン先生の事ですか? 彼の名は、レオン・ハイムだったかと思いますが」
「あれ。どうして…………。レオンだ、そうレオン。なんで」
「…………」
再び歩みだしたティナだったが、アルベルトは立ち止まったままであり、ティナは慌てて振り返る。アルベルトは目を虚ろに変え、赤い瞳を見せている。
「どうして、間違えた……? 俺は、誰と……」
「…………大丈夫ですか」
ティナの声に気づかず、アルベルトは思案したまま独り言をつぶやきだす。
瞳は更に虚ろに染まり、そして。
その時だった。
「アルベルト・ワーグ!」
エーニンガー通りの先からティニアが現れ、慌てて駆け寄ってくる。服は着替えたようであり、あの血痕はもう見えない。
マリアとアルベルトが初めて対面したのも、エーニンガー通りだった。
ここを真っ直ぐ進めば、住み慣れた家がある。それをどこか余所余所しく向かうのは、初めて訪問するティナではなくティニアであった。
ティナは早く歩けないのかゆっくりした足取りであり、そんな彼女の歩調にアルベルトとティニアの二人は歩調を合わせていた。普段よりゆっくりとした足取りだが、一行は無言であった。ティニアはあちこちを見つめては目が泳ぎ、落ち着きがない。そんなティニアに、ティナは静かな無言を砕こうと声をかけた。
「あの、ティニアさん」
「何でしょ?」
ティニアの気の抜けた返事は、興味がないのか、はたまた集中していないのか。それは本人にしかわからない。それでも敬語にならぬようにと、彼女なりに気を張っていた。
「私が入院中、言葉も話せなかった時から、何度も薬の調合や食事の手配をしてくださったと聞いています。改めて、お礼を云わせてください」
「お礼って。病院に勤めた以上はやることだし、そんな改まらなくても大丈夫、だよ。お礼はレオン先生に言ったらどうかな」
ティニアはアルベルトの絡めている腕を振りほどきながら、その掛けられた上着から顔を出した。前髪が捲れ、おでこがむき出しになった。本人以外は気にしてはいなかったが、ティニアはおでこの前髪を急いで伸ばしだした。
「それでも、大変感謝をしております。記憶がなく、申し訳ない程です」
「……記憶ないのは、困ったね」
前髪を直しつつ、ティニアは思いつめるように俯くと黙り込んでしまった。再びの沈黙に、アルベルトはティナは自然と視線を合わせた。ある思いが頭に過ぎり、アルベルトはその名を呼びかける。
「あの、ティナさん」
「はい」
アルベルトがティナへ呼びかけると、ティニアはアルベルトを拒否するように絡まれた腕を突き放した。
「ティナさんと、話があるんでしょ。僕は先に行くよ」
「あ、おい。待てよ」
すたすたと歩むティニアは振り返り、その足元を指さす。
「ティナさん、早く歩けないんだから、君が待ってあげて、エスコートすべきでしょ。そういうの得意なんじゃないの? 僕はすぐにでも着替えた方がいいから先に帰るよ。それに、僕は普通に歩ける」
ティニアはかつて怪我をしていた足をプラプラさせると、その血まみれのスカートが表へ現れた。慌ててスカートをケープとアルベルトの上着で隠しながら、速足となった。まるで、二人の話を聞きたくないかのようだ。
「……あの、何でしょう?」
追いかけた手を下ろし、改めてティナへ向かうアルベルトはその手を胸へ当てた。
「ほとんど初対面かと思いましたが、どこかで御会いしませんでしたか。その、凄く昔とか」
アルベルトはティニアへかけた言葉も忘れ、敬語を、かつて紳士的に振舞っていた頃の口調で語りかけた。
ティナは一瞬だけ思案すると、首を傾げながら答えた。
「……いえ。初めての筈ですよ」
アルベルトも頷きながら、しかし納得できない様子でいた。男は何気なく、過去への問いを彼女へと持ち掛ける。
「それじゃ、ポツダムに居たことはありませんか」
「ポツダム? ドイツの?」
「はい」
ティナは驚きとともに俯き、一瞬だけ表情を曇らせるとアルベルトを見上げた。二人の身長差もかなりひらいている為、その距離の近さからアルベルトは前屈みになった。
「私、ドイツへは行ったことがありません」
「そうですか、良かった」
「良かった? それはどういう……」
恐る恐る尋ねたティナに、アルベルトは笑みを零す。ホッとしたかのような、安堵したような笑みに、ティナも緊張が解けたのか表情が和らいだ。
「いえ。貴女でなくて良かったと」
「何方かをお探しなのですか?」
「え、ええ。そうです、ね。会えたらいいなってくらいで」
「……そうですか」
ティナは一瞬立ち止まると、先を指さした。エーニンガー通りには二人だけであり、ティニアの姿もない。
「歩くのが遅くてごめんなさい。ここを真っ直ぐでしたよね。先にティニアさんの所へ行ってあげて下さい」
「いや、いいんですよ。もう」
「申し訳ありません。……その、どんな方でしたか? その、探し人は」
ティナの心遣いは話を変える事であった。しかしゆっくりとした歩幅に合わせるように、アルベルトはティナの歩調を合わせ、その歩幅のようにゆっくりとした口調で、遠き日を語った。
◇◇◇
「1936年、俺は歩兵学校へ入るために移住したんです。で、クリスマスに適当にバーへ行って、そこで……」
アルベルトは上空を見つめた。まだ周囲は薄暗くもなく、明るい。
「ティニアによく似た奴と、会いました。まあ男だったんですけど」
「それは、ティニアさんだったのでは」
アルベルトは視線を横へ外すと、気恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「いえ。本人は違うと言ってました。顔は全然違うので、そうなんでしょうね。でも何だろう。雰囲気が似ていて」
「何故、私にその問いを……。私が、……ティニアさんに似ているから?」
その問いに、アルベルトは笑みを浮かべる。
「まさか。似てませんよ。二人はなんていうか、対称的でしょう? ティニアは、周囲が言うような気遣いの出来る奴だとは思ってません。貴女の方が、気遣いをされる。ただなんていうか。ちょっと聞いてみただけです」
「性格が対照的という事でしょうか? その、容姿が、ティニアさんに似ているとか……」
「言われませんでした? ゲオルクとかに。数年前なんてもんじゃない、随分と昔に会った事があるような気がしているのです」
「…………ゲオルク?」
立ち止まり指摘するティナに、アルベルトは本意に気付くことなく指摘する。
「診療所の、ゲオルクですよ」
「…………レオン先生の事ですか? 彼の名は、レオン・ハイムだったかと思いますが」
「あれ。どうして…………。レオンだ、そうレオン。なんで」
「…………」
再び歩みだしたティナだったが、アルベルトは立ち止まったままであり、ティナは慌てて振り返る。アルベルトは目を虚ろに変え、赤い瞳を見せている。
「どうして、間違えた……? 俺は、誰と……」
「…………大丈夫ですか」
ティナの声に気づかず、アルベルトは思案したまま独り言をつぶやきだす。
瞳は更に虚ろに染まり、そして。
その時だった。
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