【完結】暁の荒野

Lesewolf

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第六輪「紫雲英、約束の果てに」

⑥-11 緋色の主軸③

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 マリアはコーヒーの淹れ方を完璧に決めると、自分のカップを持ち上げた。特に気にもせず、ティニアは当たり前のように自身のカップと客用カップを持ち上げた。湯気が立ち込め、マリアによって焙煎されていた豆の香ばしさがそのままコーヒーとして抽出されたのだ。

 アルベルトへ近づいたティニアは、やってしまったと言わんばかりの表情で、赤面しながらコーヒーを差し出した。アルベルトはティニアの描いたらくがきを見つめていたが、すぐに顔を上げた。
 ティニアが視線を外しながら赤面させ、コーヒーを差し出すのを見ると、少し嬉しそうに受け取った。

「はい、コーヒー。熱いから」
「ああ、ありがとう。マリアも」
「うん。それで、いつ話してくれるの?」
「「え、話?」」

 二人が同じことを呟いたところで、マリアはもう本題へ入ることにしたのだ。

「一緒に住みたいんでしょ」
「ああ、いや。いや、違わないんだが。でも、お前が嫌だろう」
「私は構わないわ」
「ええ?」
「私、ミュラーさんに頼んで、別のアパートをもう見つけているの。荷物も大分移動させたわ」

 目配せした部屋の荷物は、やはり明らかに減っている。アルベルトはハッとして頭を下げた。

「何もそんなことまで。俺は別に」
「追い出されるわけじゃないし、出ていきたいわけでもないの。安心して。私もそろそろ一人暮らししたかったのよ。ティニアの事は大好きだけど、いつまでも甘えていられないもの」
「マリア……、ごめんね」
「別にいいのよ。付き合ってるんだったら言ってほしかったな」
「それはないよ」

 アドニスのように目を細めると、ティニアはニッコリと微笑んだ。事実らしい。先ほどの赤面した可愛らしい彼女はどこへいったのか。アルベルトは苦い顔をすると、コーヒーの香りを楽しもうと、冷静さを保とうと必死だった。

「あれ、君は砂糖入れないの?」
「たまにはこのまま。マリアが淹れたのは格別だからな」
「あら、わかってるじゃない。そういうわけだから、私は独り立ちするので、ここはもうティニアだけよ」
「本当に行くんだね。アパートの場所は?」
「たまたまだけれど、親分の工房の近くかな。橋を渡ってすぐよ」

 マリアはコーヒーを飲み上げると、ほうっと一息ついた。

「本当に飲むのも早いね。熱くないの?」
「熱いけど、熱いままが美味しいんじゃない」
「そうだけど」
「というわけで。私はもう行くわね」

 カップを片手に、マリアは席から立ち上がったため、ティニアはカップをテーブルへ慌てて置いた。アルベルトは飲みかけのコーヒーから離すと、同じくテーブルに置いた。

「ちょっと待って、これから? え、まって」
「うん。急だったから、ミュラーさんに頼んだら夫婦で掃除とか荷運びも手伝ってくれたの」
「え、なんで。そんな急いで」
「私も、色々したいことがあって。カップはこのまま持って帰るわね。ティニアにはすぐに会いに来るし。ああ、明日の夕飯も、来てもいい?」

 マリアは玄関のドアノブに手を掛けるとティニアへ振り返った。アルベルトは無言のまま、ソファーの前に立ちなおした。

「もちろんだよ。毎日来てよ」
「うーん。でも、診療所にも花を届けることになったから、診療所でも会えるわね。孤児院でも!」
「うん。わかった。うん……」

 マリアはティニアが名残惜しそうに見つめるのを嬉しいと感じた。同時に、彼女の願いの裏を行くかもしれない事を、申し訳なく感じたのだ。もしそうなれば、ティニアは自分を破壊に来るだろうか。隻眼の男と。

 マリアはドアノブを回し、外へ出た。澄み切った六月の午後は、思っていたよりも澄んでいる。


「それじゃあ。また明日ね、ティニア」
「うん。また明日ね」



 ◇◇◇


 帰路につきながら、マリアはずっと考えていた。

 どういう訳でそうなったのかはわからないが、アルビノの少年はティニアだ。

 そっくりなのだ。そっくりなだけではない、恐らく間違いはない、本人だ。話し方、一人称から性格まで。彼女が似ていたのはレイスではない。あの少年だったのだ。どうして気付かなかったのか。
 寿命が来たなどと、眼帯男は語っていた。あれはティニアの存在を隠すための嘘に違いない。

 年齢が合わない事も知っている。ティニアはまだ二十代後半から三十代前半だろう。そのはっきりとしない年齢も、恐らく――。

 傷がすぐに治ってしまうのも、彼女が普通ではない事を示しているといっていい。

 そう、ティニアもまた。人ではないのだ。アルベルトは人間だろう。彼女と共に居られるのも、あとわずかのはずだ。二人の幸せをマリアが壊せるはずもない。ティニアには何か理由がある筈なのだ。彼女が話す気でないのなら、聞く気はない。そこはレイスと同じなんだろう。

 その目的はわからないが、マリアの監視ではないだろうか。偶然発見されたとはいえ、ずっと傍においてくれた恩だけは忘れない。

 孤児院が閉まること、それの意味はティニアの体調だけではないはずだ。運営だけならシャトー婦人やヘッセ氏達という別の職員もいる。財団なら可能の筈だ。子供たちを巻き込むことが出来ない事柄へ、もう誘われているのだ。

 そう。まだ、さよならではない。ティニアに自分を破壊などさせない。レイスと共に、レイスから話を聞くのだ。ティニアからではない筈だ。レイスが何故話さなかったのか。それを聞く必要がある。レイスが退院さえすれば、自分と住むだろう。そうなれば、ミュラー夫妻とも別れ、メアリーの鼻歌ともお別れだ。

 全てが、事件が起こるとき。

 突然、自身を奪いに来た時のように。

 
 その時はもう、この町にはいられないだろう。



「それまで、足掻くのよ。ラーレは」

 マリアはカップを撫でながら、シュタインアムラインの旧市街地を目指し、エーニンガー通りを越え、奇妙な集団を避けつつ橋を渡ったのだった。
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