【完結】暁の荒野

Lesewolf

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第五輪「Nocturne-Arpeggio」

⑤-12 目覚めの夜明けを君と③

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 病棟の個室をノックすると、返事があった。気の抜けた返事は、お道化た彼女そのものだ。

「はぁい」
「俺だ。入っていいか」
「うん」

 扉を開けると、そこには病棟とは思えない光景が広がっていた。スケッチブックが破かれ、そこら中に臥せっていたのだ。当の病人は元気にスケッチブックを手に、ベッドで胡坐をかいて絵を描き殴っている。

「な、何やって……」
「見ての通り、お絵描きだよ」
「お絵描きって……ああ、もう」

 アルベルトはそのまましゃがんで絵を拾い上げていった。部屋は彼女が描いたと思われる絵で溢れている。ティニアの普段通りの姿に、アルベルトは安堵すると同時に抱きしめたくなったが、なんとかそれを堪えた。
 しゃがみながら、目頭が熱くなるのを感じ、それについてもなんとか堪えた。

 スケッチブックの破かれた紙には、鉛筆だけで動物や景色が書き殴られている。

「凄いな。全部、鉛筆だけでか」
「たまに描かないと、なまっちゃうんだよね」
「たまにって。こういう時くらい、寝てたらいいのに」
「フフン、ボクがおとなしく寝ているとでも?」

 絵を描き殴りながら、目線だけ挙げたティニアはウインクをすると、アルベルトは拾い上げた絵を全て落としてしまった。

「え、なに」
「いや………………」

 キョトンとしているティニアに、アルベルトはヤレヤレとため息をつき、再び絵を拾い上げていった。
 ティニアは何かに気付いたように首を傾げ、口を小さく開いた。そのままアルベルトへ声を掛けようと、スケッチブックから目を見上げなおしたが、真剣に絵をみるアルベルトが呟いたことで、彼女の問いかけは消滅する。

「これ、どっかで」
「え?」

 ティニアがアルベルトの方へ身を乗り出したため、ベッドから落ちそうになった。

「危ない! 落ちるから、怪我が治ったからって無理な体勢を取らないでくれ」
「わかったよ。そっちが遠いんじゃん。これはドイツのハルツゲローデ、こっちは同じくドイツのヴェルニゲローデだけど、知ってるの?」
「……ああ、ヴェルニゲローデか。懐かしいな」

 アルベルトはベッドの脇へ、ティニアの脇へ座ると興味深そうに絵を指でなぞった。

「母の故郷なんだ」
「え? でも…………」
「母はドイツでメイドをやってたんだ。俺を身籠ったことに気付いて、すぐにイタリアへ渡って、俺を産んですぐに死んだ。ドイツへ渡ったとき、唯一の形見であった絵葉書がここの、ヴェルニゲローデの写真だったと気付いたんだ」
「そうなんだ。お母様の……」

 恐る恐る言葉を選ぶティニアに対し、アルベルトは微笑みかけると、懐かしそうに絵を指さしながら話し出した。

「ドイツへ渡った後、なぜかここを拠点にしてたんだが、まだ子供だったからな。不安でどうしようもなかったよ。でも、ヴェルニゲローデはどうしてか懐かしく感じて。母が持っていた絵葉書でしか見てないのに、可笑しいよな。その後はすぐにベルリンへ渡ったんだが」

 ベルリンという言葉に反応したのは、ティニアであった。

「そう、ベルリン、か……。ねえ、ヴェルニゲローデはどうだった?」

 気取られないように、ティニアは話を変えたいかのように、話題を変えた。アルベルトはそれに気付くことなく、話題に乗っていく。

「素晴らしかったよ。建物の作りが木造なんだが……って知ってるよな、そう描いているんだから。他にも、こっちに噴水があっただろ、そうこの絵だ。銅像もあったっけ。銅は皆溶かされて、教会の鐘なんかも、全部消え去ってるんだろうな」
「……うん」
「どうした」

 しょんぼりとしたティニアはスケッチブックを手放すと、アルベルトの持った絵を指でなぞった。

「僕ね、もうほとんど思い出せないんだ。ずっと昔、ここにいた気がするんだけどね」
「え、ヴェルニゲローデにか?」

 悲しそうに微笑む彼女は、いつものティニアとは違っていた。それでも、微笑むところの無邪気さは変わらない。

「今度、落ち着いたら行ったらいい。マリアや、アドニスなんかと旅行でも行ってきたらいい。ゆっくりしたらいいんだ」
「……孤児院の話、聞いたんだね」

 ティニアは手を下げると膝を抱えると顔を伏せた。屋根を叩く雨音が激しさを増している。

「全員の里親が決まりそうなんだってな。良い事じゃないか」
「僕がこんなだから、孤児院ももう閉めちゃうって」
「皆わかってるよ。みんな知ってるから、お前が努力してたことも、全部」
「………………」
「どうしたんだよ、お前らしくない」
「君さ、僕を抱えて、走ってくれたんだって、聞いて」
「ああ。なんだそんなこと」

 アルベルトは手を組むと俯いた。軽すぎる彼女を抱える事は、男にとって何でもなかったのだ。

「ありがとう。優しいんだね」
「いや、誰だってそうしたさ。お前は慕われている。俺がしなくても、親分がしたさ」
「それでも、君が抱きかかえてきてくれたって聞いてるよ」

 ティニアは恥ずかしそうに微笑みながら、アルベルトを見上げた。そのティニアを艶めかしく感じ、男は目線を逸らした。

「親分は良い人だ。職人としての技術も高く、何だって豪快に笑って退けちまう。お前がいなきゃ、出会えなかったよ」

 改めてアルベルトはティニアを見つめたが、ティニアは更に微笑みながら顔を近づけた。一瞬ドキリとしたものの、ティニアの事だからそんな筈は無い。アルベルトは確信しながら、冷静さを保たせた。

「親分のところで、働くというか、見習いしているんだってね」
「ああ。親分には良くしてもらっている。飯なんか、奥さんがいつも大盛りで寄こしてな。若いんだから頑張った分を食べてくれって」
「そうか。もう働いてたんだね」
「清算したからな。もう、軍とも関わりはない。監視はあるかもしれないが」

 雨音がぽつぽつに代わり、徐々に収まってくるものの、風が轟きを増す。
 ティニアは顔をあげることは無く、膝を胸へ抱き寄せながら言葉を吐き出した。

「ごめん」
「何で謝るんだ」
「なんとなく」

 ティニアは思いついたように、顔を思い切って上げると、アルベルトを見据えた。その目線に気付き、アルベルトはティニアを見つめ返した。

「住むところ、決まった? もうホテルじゃないんでしょう。マリアから聞いてるよ」
「いや、まだだ。今は親分さん家に邪魔してるよ」
「あのさ」
「うん、どした。改まって。ああ、物件はミュラーさんに聞いてるよ」



「一緒に住まない? あの家で」

 鳥が羽ばたく音と共に、雨宿りから耐えかねて飛び立つ鳥達の羽ばたきが、静寂をより一層静寂を呼ぶ。
 遠くで教会の鐘が鳴り、人々が慌ただしく外へ出てきたであろう喧騒が、雨上がりのシュタインアムラインを形作っていった。
 雨によって水流は竜のごとく水かさを増し、ボーデン湖とを繋ぐライン川はいつも通り流れを止めることなく流れ続けていく。
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