【完結】暁の荒野

Lesewolf

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第三輪「とある、一つの約束と」

③-6 小景異情「その二」③-43-2

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「えっとねえ」

 ティニアはマリアに対し斜めを向くと、右手を更に握り締めた。あれは懐中時計だ。彼女がずっと肌身離さずに持っている大切なものだ。
 ティニアは静かに話し始めたが、窓の向こうを見つめている。窓はカーテンが閉まっており、外の様子はうかがえない。そのまま、言葉を選ぶというよりはむしろ思いつくままに、思い出を語るかのような懐かしい思い出を語るように。

「あの人がそもそも家に来たのは、多分ボクじゃなくて、マリアがいると思ってたからだよ」
「…………え?」

 ティニアの表情には何の変化もない。

「悪いことをした、させてしまったって。気にしていたんだよ。でも、あの日マリアはまだ帰宅前だったから、直ぐに帰らずに居座ったんだよ」
「…………」
「ボクは謝ってばかりより、それが今自分にとって有り難いと思うなら、むしろ御礼を言った方が良いんじゃ無いかなぁって、かるーく話したよ。本当に軽くだけど。本人も随分悩んでいただろうし、すぐ言えなかっただろうし、まだ言ってないのかもしれないね。今ボクが話しちゃったから、台無しかもしれない」

 ティニアは足下を見つめた。それはアルベルトが移動させた家具だろう。なぜ、こうも出会ったばかりの男を理解しているのか。やはり知り合いではないのか。そんな問いが、頭に溢れては消えていく。

「感謝を伝えに来たのに、待っている間に居心地が良くて居座ってしまって。それに翌朝から家具を移動させて起こすのは忍びなかった。だから改めて片付けに来るよ、って。そういう事じゃ無いの。もしかして感謝の言葉、まだ何も聞いてない? うーん、ボクやっちゃったかな」

 目線は上の方へ上がったものの、マリアと視線は合わない。ただ単に言いにくい話をしているだけ、それだけのように見える。

「でも、そこに下心とかは無いと思うよ。ボクに用事というより、マリアに伝えたかった言葉があったからだよ。御礼を伝えようとしたのに、また自分を責めて押し問答はじめてたんじゃないかなぁ。真面目なんだよ。それに、責任感が強いみたいだね。先に話してしまっていたら、流石にごめんとしかいえないな」
「ううん。ありがとう、とは言われてるから。そうなんだと思う。あいつの事、よく、わかるね」
「わかんないよ」

 ティニアは吐き捨てるように、その言葉を吐き出した。ハッとした表情を浮かべ、慌てて取り繕いだしたのだ。

「言い当ててるとも思ってないよ。決めつけるようでごめんね。そりゃ本人から聞いたわけではないし、憶測ではやし立てる気もないんだ」

 ティニアは再び俯き、やがて顔を上へ向けた。涙こそ出てはいないものの、泣いているように見える。堪えるように眉間にしわを寄せるわけでもなく、ただ軽く口元だけが歪む。

「教会にはよく、兵隊上がりの人も来てたよ。戦地から逃げてきた人も、大勢いたよ。戦場へ行って、戦場から戻って、戦場から避難して、あの時ああしていれば、こうしていればと思い悩む。悩むことが大事というより、そうやって、その時の自分の不手際を、傷を舐めて、それを忘れないようにする。刻んでいくの。浸るためじゃない。でも、浸ってしまうんだよ。なんだろう、怖いことなのに、居心地がいいんだ。罪を償い、償いを得ているようでね」

 ティニアは右手を胸へ近づけると、銀の光は眩く輝くと左手と重ねられた。右手にも左手にも、銀色に輝く時計がお互いの光を反射させた。神に祈るかのように、彼女は佇んでいた。窓からの光はすぐに失われ、ぶあつい雨雲によって薄暗さが増していく。

「世界で一番無駄で、無情な、そして無惨な自問自答を繰り返す。それは、やらないわけにはいかない。いつの間にか、無意識にそれらの思考は脳へ流れ込んできて、そしていつのまにか、泡のように消えていくんだ。そうやって、人は償って生きていかねばならない」

 金髪碧眼の美しい女性は、瞳を閉じると、自身の鼓動を聞くかのように佇んだ。マリアに聞こえてくるのは、自身の心音だけだ。

 ティニアが語るのは、ティニア自身の事だろう。

「一番わかっているのは自分だよ。自分しかいない。その時そうしなければ、きっと今自分は生きてなかった。そして相手は、友は、命を散らせた。周りもそうなんだよ。生き残った者達は同じ問答を繰り返す。そのまま思案しても、しなくても、自分自身の命はいずれ消え、誰かの命も消える。その誰かの多くは自分の知らないヒトで、相手も知らない」

 瞳を開けた彼女は、酷く虚ろの表情を浮かべている。彼女とレイスの最も異なる部分でもある眼。レイスは白目の部分も淡い青色をしていた。全体的に淡い青色だった。マリアはその目が好きだったのだ。

 やはり、レイスとティニアはよく似ている。

 ティニアの白目は分かりやすいほど白であり、光の反射受ければ受けるほど、ガラス玉のように光り輝く。その時白目はまるで透き通るかのように、瞳の青を透かす。そんなティニアの目が、瞳が今にも涙を溢れさせるかのように揺らぎ、意識しなくともその苦しみが伝わってしまう。声は震えてこそいないものの、かすれている。

「それでも、目の前にあって出来ることがあるのならそこから手を付ける。遅くなってから、後悔をしてしまうから。どの道後悔するの。そうせずには居られない。でも、もうやったところで、帰る場所はない。故郷など、最初からここには無い。胸を張って帰るところがあれば良かったのにね」

 マリアは、目の前の彼女が時々呟く言葉を思い出した。雨音が聞こえないほど、静かに滴り落ち、そして大地に飲み込まれ、消えゆく。絞り出す声と言葉も、虚しく吸い込まれてゆく。

 あれだけ壁を作り、マリアだけでなくアドニス神父も、ミュラー夫妻も。誰一人として入れなかった過去の領域を、彼女は語っていく。彼女の心を開いたのは、マリアではない筈だ。仲良くなったとはいえ、自分等ではない。嬉しさも、悔しさも沸かない。余りに重苦しい重圧が、想像以上の質量が、暗く彼女を縛っているとでもいうのか。

「だからこそ、出来ることがあるのに何もせずにいる。じっとしているっていうことが、最も酷なことなの。頭でも何をすればいいのかは、多分わかってる。出来るのにしないのかと、無駄な押問答を始めて視線を逸らすの。それが一番、本人にとっては望んでないことなんだけどね。その結果、憂鬱になっていくんだよ。……本当は感謝の言葉を述べたかったんだよ。今言ったとしても、もう随分と遅いけれど。でも本人と話せるのであれば、それはそれで幸運なことなの」

 彼女が遅刻することは無い。だからこそマリアも彼女を見習い、早め早めを心掛けるのだ。それでも、ティニアのはまるで、呪縛のように、彼女を縛るかのように。
 玄関の扉が閉まっているにも拘らず、彼女の短い金髪が風になびくと、胸の銀色のように白銀に染まる。

「曖昧でちっぽけな存在であっても、奪うことだけは出来てしまう。一人では失うだけで、何も産み出すことは出来ないのに、ね」

 ティニアは前髪をよく気にしていた。何度やってもおでこがでてしまい、何とかしたいと粘る前髪が、今は良く機能して目元を覆う。ここまでしおらしく、素直な彼女を喜んでいいものか、それとも。

「私は特に、いつも、いつも遅かったから。いつも遅れてやって来て、いつも遅すぎるの。もう、何をしても間に合わない、だから……」


 ◇◇◇

 どのくらい、立ち尽くしていただろうか。気付けば家の中にはマリアだけであり、ティニアの姿は無かった。それでも、彼女が申し訳なさそうに声を掛け、家を出る様子が思い出せる。

「ごめん、わたし、何も言えなかった。どうして。ティニアが話してくれたのに。受け止めきれなかった。」

 マリアは、一人で考える時間が欲しくなった。雨音だけが、聞こえていた。
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