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第二輪「例え鳴り響いた鐘があったとしても」
②-11 蝶、青にたなびきて③
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男が振り返ったものの、マリアは対抗する気などなかった。赤茶毛は一見丁寧に整えられているものの、毛先が飛び跳ねている。男は特に憔悴した様子もなく、余りに無表情だった。
「ティニアさんとは、お知り合いなのでしょう。無理に尋ねる気はありませんので、こちらの本を彼女に届けてあげてください」
赤茶毛の男、アルベルトはそう言うと、腕に抱えていた本を2冊前へ差し出した。マリアの反応はなく、全く動かなかった為、アルベルトは苦笑いを浮かべると、胸からハンカチーフ取り出し、石畳の上に敷くとその上に丁寧に本を重ねた。
アルベルトは丁寧にお辞儀をすると、そのままマリアの横を通り過ぎてしまった。
「待って」
「なんでしょうか」
「…………あなたは、ティニアを知っているの?」
マリアはアルベルトに視線を合わせたものの、男は寂しそうに視線を外した。かなり濁った色の瞳をしている。幾多の戦場を経験し、退役もしくは亡命したのであろう。出所にしては早すぎる。
「そうであれば良いと、何度も考えました」
「………………」
「なんでしょうね。どういえばいいか」
少しの、ほんの少しの沈黙だった。生暖かい風が地面から吹き出し、異様な世界を黄昏に導くようだった。
「知り合いに、似ていたのですよ」
「知り合い……」
「知り合いとはいっても、一言二言の会話しただけで、名前も住んでいる場所も知りません」
(ああ、知っている……。私は、この感情が何であるのか、知っている)
「あの後、大戦になりましたから。もう、ご存命でおられないかもしれません」
(そう、何もわからない。何も知らない。気になった相手の、愛するひとのすべてが、なにも…………。どこで、なにをしているのかも)
「ティニアさんは、何度か町でお見掛けしていたのです。なんとなく、その時の方ではないかなと。当然ですが、似ても似つかない方です、ティニアさんは。その度に声をかけようと思っていたのですが、中々。この国では気安く女性に話しかけるということが、どうも珍しいようで」
(恐らく、全てに絶望して、全てを信じていない、全てに諦めている。それを痛感したのは、きっと戦場でしょうね。何もない自分は、何も知らない。何もない。救いなんてないと、気づいてしまったのね。私と同じで)
「お名前もこの本を預かる際に、初めて。偶然、婦人から聞いただけですよ。知りませんでしたから、何も」
(焦燥感と虚無感から、命を絶った方が楽なのではないか。少なくとも、この地獄が途切れる、それだけで……。それを、彼女は簡単にぶち破ってくれる。でも、わたしは)
「あっ……。どこで、あの、その…………似てた方と会ったのは……」
「ドイツの、ポツダムですよ。1935、いや6年ですね」
「……そう」
「それでは、私はこれで失礼します。御心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
男は再び丁寧にお辞儀をすると、そのまま旧市街へと歩いていった。
マリアは、レイスの情報を持っているのではないかという淡い期待を抱いた。ティニアに似た女性、似ても似つかぬ性格の二人を見間違えたのではないか、と。危険な行為だっただろう。1936年にドイツの、しかもポツダムに彼女がいたなどありえないのだ。レイスは自身と共に常に行動していたのだ。
居た堪れない風がマリアを包み込むと、マリアは石畳に乗せられた書籍を手に取った。
「ヘルマン・ヘッセ………………」
ティニアが好んで読む詩人だ。恐らく、男が会ったという女性はアンナだ。アンナは今、ザンクト・ガレンに住んでいる。男の話していたスーツとは、恐らくそこの会社のものだ。
石畳は、今朝から降っていた雨で、水たまりが出来ていた。汚れ、濡れていたのだ。厚手で白く上質なハンカチチーフは汚れ、濡れてしまっている。本は無傷だ。
「私、……なんて、失礼なこと」
振り返りはしたものの、既に男の姿はなく、彼女の好む詩人の書籍2冊と、汚れてしまったハンカチーフだけが残った。
「ティニアさんとは、お知り合いなのでしょう。無理に尋ねる気はありませんので、こちらの本を彼女に届けてあげてください」
赤茶毛の男、アルベルトはそう言うと、腕に抱えていた本を2冊前へ差し出した。マリアの反応はなく、全く動かなかった為、アルベルトは苦笑いを浮かべると、胸からハンカチーフ取り出し、石畳の上に敷くとその上に丁寧に本を重ねた。
アルベルトは丁寧にお辞儀をすると、そのままマリアの横を通り過ぎてしまった。
「待って」
「なんでしょうか」
「…………あなたは、ティニアを知っているの?」
マリアはアルベルトに視線を合わせたものの、男は寂しそうに視線を外した。かなり濁った色の瞳をしている。幾多の戦場を経験し、退役もしくは亡命したのであろう。出所にしては早すぎる。
「そうであれば良いと、何度も考えました」
「………………」
「なんでしょうね。どういえばいいか」
少しの、ほんの少しの沈黙だった。生暖かい風が地面から吹き出し、異様な世界を黄昏に導くようだった。
「知り合いに、似ていたのですよ」
「知り合い……」
「知り合いとはいっても、一言二言の会話しただけで、名前も住んでいる場所も知りません」
(ああ、知っている……。私は、この感情が何であるのか、知っている)
「あの後、大戦になりましたから。もう、ご存命でおられないかもしれません」
(そう、何もわからない。何も知らない。気になった相手の、愛するひとのすべてが、なにも…………。どこで、なにをしているのかも)
「ティニアさんは、何度か町でお見掛けしていたのです。なんとなく、その時の方ではないかなと。当然ですが、似ても似つかない方です、ティニアさんは。その度に声をかけようと思っていたのですが、中々。この国では気安く女性に話しかけるということが、どうも珍しいようで」
(恐らく、全てに絶望して、全てを信じていない、全てに諦めている。それを痛感したのは、きっと戦場でしょうね。何もない自分は、何も知らない。何もない。救いなんてないと、気づいてしまったのね。私と同じで)
「お名前もこの本を預かる際に、初めて。偶然、婦人から聞いただけですよ。知りませんでしたから、何も」
(焦燥感と虚無感から、命を絶った方が楽なのではないか。少なくとも、この地獄が途切れる、それだけで……。それを、彼女は簡単にぶち破ってくれる。でも、わたしは)
「あっ……。どこで、あの、その…………似てた方と会ったのは……」
「ドイツの、ポツダムですよ。1935、いや6年ですね」
「……そう」
「それでは、私はこれで失礼します。御心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
男は再び丁寧にお辞儀をすると、そのまま旧市街へと歩いていった。
マリアは、レイスの情報を持っているのではないかという淡い期待を抱いた。ティニアに似た女性、似ても似つかぬ性格の二人を見間違えたのではないか、と。危険な行為だっただろう。1936年にドイツの、しかもポツダムに彼女がいたなどありえないのだ。レイスは自身と共に常に行動していたのだ。
居た堪れない風がマリアを包み込むと、マリアは石畳に乗せられた書籍を手に取った。
「ヘルマン・ヘッセ………………」
ティニアが好んで読む詩人だ。恐らく、男が会ったという女性はアンナだ。アンナは今、ザンクト・ガレンに住んでいる。男の話していたスーツとは、恐らくそこの会社のものだ。
石畳は、今朝から降っていた雨で、水たまりが出来ていた。汚れ、濡れていたのだ。厚手で白く上質なハンカチチーフは汚れ、濡れてしまっている。本は無傷だ。
「私、……なんて、失礼なこと」
振り返りはしたものの、既に男の姿はなく、彼女の好む詩人の書籍2冊と、汚れてしまったハンカチーフだけが残った。
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